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神の謙卑(へりくだり)

admin_ksk
4 時間前
読了時間: 15分

2026年6月21日主日礼拝説教 山本 精一


聖書 詩編第18 編5~7 節、36~37 節


5 死の縄がからみつき

奈落の激流がわたしをおののかせ

6 陰府の縄がめぐり

死の網が仕掛けられている。

7 苦難の中から主を呼び求め

わたしの神に向かって叫ぶと

その声は神殿に響き

叫びは御前に至り、御耳に届く。

36 あなたは救いの盾をわたしに授け

右の御手で支えてくださる。

あなたは、自ら降り

わたしを強い者としてくださる。

37 わたしの足は大きく踏み出し

くるぶしはよろめくことがない。


テトスへの手紙第3 章4~7 節


しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。


 今朝は、詩篇第18 編を取り上げ、そのなかに刻み込まれている詩人の告白証言に心を

向けて参りたいと思います。わけても、先ほど司会者に読んで頂いた箇所にあった一つの

言葉に、力点あるいは焦点を定めて、その一点に向かってこの詩篇を読んでいこうと思い

ます。その言葉は、この長大な詩篇のなかでは、ごく小さな一点です。しかしその小さな

一点からは、時を超えて、驚くべき消息(メッセージ)が轟き響いてきています。


 ところで、この詩篇第18 編は、今申した通り、全体として見れば、相当に長い詩篇だ

と言えます。加えて、そのなかには、旧約時代の古代中近東世界に固有の、壮大なスケー

ルをもった神話的・宇宙的世界観を背景にした詩句が出てきてもいます(8~16 )。その

ような量・質何れの点でも大がかりなものを読むのは、率直に言って、なかなか骨の折れ

ることです。しかしそうした困難さがあることを認めた上で、しかしひとまずは何よりも

自分で聖書に向き合い、分かっても分からなくても繰り返し読んでいくなかで、何か心に

響いてくるものに出会える時を待ちたいと思います。

 そのような思いをもってこの詩篇を読んでいくと、例えば、ここには最初から最後ま

で、「わたし」という言葉が一貫して出てきているということに、先ずは理屈抜きで突き

当たります。しかし聖書学者たちは、これを一つの特徴点として、こうしたタイプの詩篇

について、「個人の詩篇」と総称しています。


 そうした「個人の詩篇」の一つである本詩篇に関して、さらに注目したいことがありま

す。それは、この詩篇においては、その「わたし」が、一貫して「あなた」なる「神」(31、33、47)、「あなた」なる「主」(2)に向かって、ひたすらに声を、あるいは叫びを発しているということです。じじつ、この「わたし」は、冒頭部において、開口一番、「主」を「慕い」(2)、「呼び求めて」(4)います。それでは、この詩篇18 編の「わたし」とは、

いったいどのような状況のなかから、かくも烈しく「主」を「慕い、呼び求めている」の

でしょうか。今朝は、最初にその点について、探ってみたいと思います。

 それに続けて、今朝の眼目となることですが、それではこの人は、自ら叫び呼びかけて

いる「主」と、いったいどのように出会っているのでしょうか。その点に目を向けていく

ということは、本詩篇から何を聞き取るのかということに関して、決定的な重みをもって

います。そのような重みをもつ、本詩篇の臍(へそ)とも言うべき肝腎要(かなめ)の一点に向かって、この詩篇を読んでいきたいと思います。


 この詩篇のなかには、われわれの今を根底から震わせ揺り動かす音信が、響きわたって

います。すなわち暴力と不法と虚偽と戦争が、そしてそれへの無関心と諦めが、われわれ

の日常に暗い翳(かげ)を落としているこの暗い時代に向けて、かつまた生きとし生けるも

のを取り返しのつかない仕方で毀損・破壊し、そのいのちを奪い続けているこの時代に向

けて、何よりもその時代のなかで時に胸をかきむしられ時にその時代に力なく呑み込まれ

て生きているわれわれ一人一人に向けて、そしてさらには、この時代の世界のもっとも深

く暗い底べで起こり続けている、想像を絶する苦難と悲嘆の出来事、そしてその苦難と悲

嘆が渦巻く仮設テントの中へと歴史的暴虐によって追いやられている人々に向けて、本詩

篇は一体何を語りかけているのでしょうか。この時代のなかでの自分自身の日々の有様を

この問いの前に差し出しながら、畏れも深くその語りかけに耳を澄ましていってみたいと

思います。


 初めに、本詩篇の「わたし」がどのような状況に置かれているのかということについて

顧みてみようと思います。先ずはっきりしていることは、その人は、「敵」、そして「わた

しを憎む者」(18)が「攻め寄せる災い」(19)の渦中に呑み込まれようとしているとい

うことです。その激しく圧(お)し迫る「災い」は、言語を絶する苦しみをこの人にもた

らしています。この人は、そのことを、5 節6 節において、腸(はらわた)ちぎれるような

叫びの語調(トーン)で告白しています。

死の縄がからみつき

奈落の激流がわたしをおののかせ

陰府の縄がめぐり

死の網が仕掛けられている。

 ここに出て来る「奈落の激流」とは、天地創造以前の「混沌(カオス)」と「深淵」(創世記1:2)へと、いま自分は突き落され、そしてそれに呑み込まれつつあるということを激白している言葉です。その際、「奈落」とは、神の「よし」とされた創造の業の一切を、それ以前の状態、すなわち「混沌」と「深淵」へと逆転させていく事態、すなわち創造という神の祝福に満ちた出来事を再びまったき無へと逆転させていく、その意味で創造の零化(ぜろか)、被造世界を全面的に零へと無化していく事態、そのような恐るべき虚無的な事態のなかに投げ込まれているということを訴えている言葉です。それは同時に、いま自分は神から最も遠ざかったところへと隔てられ投げ込まれているということを神に向かって訴え出ている、およそ尋常ならざる言葉です。そのようにして、詩人は、自らの苦難の現実を、「陰府」の世界での出来事に重ね合わせて語っています。つまりは普通の言葉遣いでは到底語りきれないものとして語っています。かくして、詩人は、この世の中で普通に交わされている言葉遣いには、もはや留まることなく、むしろ、この世ならざる地下世界=陰府の世界での出来事として、自分の今の苦境をぎりぎりのかたちで表現しています。

 すなわち、彼が直面している「敵」「憎悪」「攻撃」「災い」とは、この世のなかの出来事としては到底言い尽くすことのできない深淵的な経験であり、だからこそ、そこには陰府の世界の恐ろしい翳りが深く刻み込まれています。詩人はそのようにして、この世の中に身を置きながら、しかし既にこの世ならざる陰府での経験を味わっています。その彼は、そこで、「死の縄」「死の網」に全身を絡めとられて、この5 節6 節の言葉を発しています。

以上のような事態は、この詩人だけの話に限られるものでは決してありません。人間の歴史、われわれの歴史には、まさにここで詩人が語っているような、陰府の世界を引き合いに出して語るしかない、邪悪で陰惨な事実がどれほど積み重ねられてきたことでしょうか。そのことに、われわれは、今またこの時代の世界の現実のなかで直面しています。


 ここに出てきている「死の縄」「死の網」とは、その「縄」とか「網」という言葉が暗示しているように、「陰府」の世界で詩人の身心まるごとを罠に陥れ、そのまま死へと引きずり込んでいく破滅的な力を象徴している言葉です。こうして、詩人は、自分は陰府の力、死の支配力によって仕掛けられた「縄」や「網」によって仕留められた、無力の極みのうちにある獲物同然だと言うのです。

こうして詩人がどれほど絶望的な苦難のうちで、無力なるままにその事態に直面していたのか、詩人はその事を、原初の陰府という地下世界の底べでもがき、そこで叫んでいます。その時彼は、荒れ狂う「激流」によって、神から最も離れたところで消え失せん(vanish)としています。それは、彼が、この苦難のなかで、神との関係を断ち切られる絶対の危機に直面しているということに他なりません(5)。


 この激流に呑み尽くされ滅ぼされるというモティーフは、旧約聖書では、他の詩篇やヨナ書のなかにも現れてきます(参詩篇42:8、69:2~5、88:8、93:4、ヨナ書2:4、6)。それらは何れも、彼らが歴史の中でどれほどの苦難を経験していたのかということを、それぞれがそれぞれなりに「大波に呑み込まれる」破局(カタストロフ)の経験として語っています。

一つだけ見ておきます。

神よ、わたしを救ってください。

大水が喉元に達しました。

わたしは深い沼にはまり込み

足がかりもありません。

大水の深い底にまで沈み

奔流がわたしを押し流します。

叫び続けて疲れ、喉は涸れ

わたしの神を待ち望むあまり

目は衰えてしまいました。

理由もなくわたしを憎む者は

この頭の髪よりも数多く

いわれなくわたしに敵意を抱く者

滅ぼそうとする者は力を増して行きます。

わたしは自分が奪わなかったものすら

償わねばなりません。 (詩篇69:2~5)  

 しかしながらも他面、この詩人は、この苦しみ訴える叫びと一体となって、「主を呼び求め」(4)、「苦難の中から主を呼び求め わたしの神に向かって叫んで」(7a)います。

この4 節と7 節双方で繰り返される「主を呼び求める」ということが、先の5 節6 節での詩人の叫びを前後から挟んでいます。さらに7 節の後半を見ると、その「呼び求め」その「叫び」は、「神殿に響き、主の耳に届く」(7b)とあります。すなわちこの詩人は、自らの陰府の苦難のなかから神殿にやってきて、その苦難のなかから「神に向かって」叫び祈っています。


 しかし思い返せば、この詩人は、神の創造の逆転を叫ばずにはいられなかったほどの激しい苦難を経験していた人です。その同じ人が、かくも深い呻き苦しみのうちにあって、どうしてなおもこのような主への信のうちに立っていられるのでしょうか。じっさい本詩篇には、深い感謝の歌が一貫して歌われています。ここでは、それら感謝の歌すべてを区々見ていくことはいたしません。ただ、先の5 節にあった「奈落の激流」ということと明確な対照をなすところだけを見ておこうと思います。それは、17 節です。

主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ

大水の中から引き上げてくださる。

 これは、大水の激流に呑み込まれ滅びんとしていた詩人が、「高い天」にいます「主」によって「引き上げられ」「救い出された」(17、18)ということを、感謝も深く歌っている歌です。詩人は、苦難の中にある者を「天の高み」から救い出してくださる神に、ここで出会っています。そこからは、出エジプトの葦の海での救いの奇跡への感謝と重なり合う響きが聞こえてきます。そこには、神によって、エジプトでの奴隷生活からの解放を経験したイスラエルの、その海の真ん中を通り抜けて救われた歴史経験と響き合うものが感じられます。20 節の


わたしを広いところに導き出し、助けとなり

喜び迎えてくださる。

もまた、その神による救いの経験が、詩人をそこから「引き上げ」、「広いところに導き出した」解放の経験であったということ、その事への重畳(ちょうじょう)たる感謝に貫かれた歌となっています。


 しかしながら、この様にして歌われている救いの経験とはおよそ異なった、もう一つの救いの経験が、36 節に、瞬時閃光の如くに立ち現れます。それが

あなたは、自ら降り

という一句です。「自ら降り」とここで訳されているヘブル語の原語は、様々なニュアンスの幅を豊かに持っているため、各国語訳の聖書をも含めて手許の聖書を見ても、それぞれ実に多様な訳語が当てられていました。しかしそれら数ある訳語のなかでも、この箇所を読むに際して、私にとって今回最も深く迫ってきたものは、文語訳の「謙卑(へりくだり)」という言葉でありました。

 今朝の説教題の「神の謙卑(へりくだり)」とは、この文語訳から取っています。参考までに、この箇所の前後をも含めて、引用しておきたいと思います。


又なんぢの救(すくひ)の盾をわれにあたへたまへり

なんぢの右手(みぎのて)われをさゝへ 

なんぢの謙卑(へりくだり)われを大(おほい)ならしめたまへり 

なんぢわが歩むところを寛潤(ひろらか)ならしめたまひたれば

わが足ふるはざりき


 この一句は、「あなた」なる神は「高い天」(17)にではなく、その高い天を蹴放って、「陰府の死の縄目」によって消失せんとしている、この「わたし」(36)のもとに降ってきたと告白しています。それは彼にとって、まったく予期もしていなかった出来事でありました。しかしその事が出来事として現に起こった。その決定的一事に震撼しながら、その事を指し示している簡潔無比なる一句、それがこの


あなたは、自ら降り


に他なりません。

 しかし先ほど、この詩篇のなかで詩人が、陰府にも比すべき底知れぬ苦難と主への感謝、この二つのことを一つながらに生きているとはいったいどうしたことなのかと問いました。常識的にはまったく相反する方向を向いたこの二つの経験。しかしその二つまるごとを根底から支えているもの、それが今や彼自身によって告白されています。それが、この「神の謙卑(へりくだり)」という一語に他なりません。


 神は、今や、天の高みに絶対者としてとどまってはおられない。この世の現実、いやそれどころか、死の力に支配された陰府にまでへり降り、そしてそこで苦しむ者と共に苦しんでおられる。何と驚くべき告白でありましょうか。詩人は、この謙卑(へりくだ)る神に、このときこの証言の言葉とともに確かに出会っています。いや、そう言うだけでは、まだ全く不十分です。何よりも神の方から、詩人の苦難の現実を共に苦しまんとへりくだってこられた。その一事により、この詩人は共に苦しまれる神に出会わしめられた。そのことをこそ、われわれもまた、この一句とともに胸に刻みたいと思います。

 さらにそれにすぐ続けて、詩人なる「われ」は、この事によって「大(おほい)ならしめられた」と告白しています。この「大ならしめられた」とは、どういうことでしょうか。

大物になったということでありましょうか。断じてそのようなことではありません。

 それは、別の言葉で言うならば、たとえ陰府の底べにあろうとも、われは、そしてわれわれは、もはや独りではないということを知ったということ、すなわち「へりくだる神われらと偕(とも)にあり」という出来事のもとに、われわれの人生・世界が置かれたのだということを、「大ならしめられた」という言葉で告白しているのだと思います。


 この一語に釘づけとなっているうちに、私はエリ・ヴィーゼルの『夜』という自伝小説の一節を思い起こさずにはいられませんでした。その小説は、ヴィーゼル自身が自らの少年時代にアウシュヴィッツで経験した決して忘れることのできない出来事を綴ったものです。

 そのなかに、彼が収容されていた強制収容所のなかで、ある時大量の兵器が発見され、ナチスの親衛隊員たちによって武器隠匿を疑われた収容者たちが次々と拷問を受け、その結果三人の者が収容所内で絞首刑に処せられるという事態に直面したときのことが記されている箇所が出てきます。そのとき死刑に処せられた三人のうちの一人は、12 歳ほどのほっそりとした顔立ちの美しい男の子でありました。彼も拷問を受けたものの、最後まで口を割らなかったために、死刑を宣告されていました。それに続く箇所をお読みいたします。


子どもはというと、黙っていた。

「〈神さま〉はどこだ、どこにおられるのだ」。私のうしろでだれかが尋ねた。

収容所長の合図のもと、三つの椅子が倒された。

全収容所内が静まり返った。地平線には、太陽が沈みかけていた。

「脱帽!」と収容所長がどなった。その声は嗄(しゃが)れていた。私たちはというと涙を流していた。

「着帽!」

次いで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。膨れあがり、青みがかって、彼らの舌は垂れていた。しかし三番目の綱はじっとはしていなかった─―男の子はごく軽いので、まだ生きていた· · · · · ·。 

三十分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨死の苦しみを続けながら、そのようにして生と死のあいだで闘っていた。そして私たちは、彼をまっこうから見つめねばならなかった。私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。

私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。

「いったい〈神〉はどこにおられるのだ」

そして私は、私の心のなかで、だれかの声がその男に答えているのを感じた。

「どこだって? ここにおられる─―

ここに、この絞首台に吊るされておられる」

(村上光彦訳)


 詩篇18 編が決定的一語をもって歌っている、われわれの陰府の苦難目がけて降って来られた神。打ち捨てられた者に向かって下って来られる神。詩人が証言する神のその謙卑(へりくだり)は、「神はどこにおられるのだ」という20 世紀の地獄のなかで発せられたこの呻き、そして今この時のわれわれの世界の地獄のなかで発せられている呻きを、天の高みにとどまったまま聞かぬふりをするでしょうか。無関心にやり過ごすでしょうか。


 この問いかけに対して、詩人は、本詩篇のなかで自らの存在を賭けて、先の一句とともに「否」と答えているのではないでしょうか。ヴィーゼルもまた、震え慄(おのの)きながら、自らの内深くに微かに響いてきた、われならぬ「だれかの声」を通して、「絞首台に吊るされておられる神」を、深い沈黙をもってただひたすらに指さしているのではないでしょうか。この問いの前にいま立たされているわれわれは、何と答えるのでしょうか。しかし、その問いにわれわれがどう答えようとも、それら一切に先立って、無比の深い呻きと悲しみのうちに、偕にあらんとして一心に謙卑(へりくだ)ってこられた方、その方のことをこそ覚えたいと思います。


 神の謙卑は、イエスの十字架において、今もなお日々に、われわれの歴史の消失点(vanishing point)目がけて、自らを虚しくしてひたすらに降っておられるということ、そのことを危機が常態化したこの世界のただなかで、それに向かって起きている出来事として、われわれ自身いま心に刻みつけたいと思います。その神の謙卑、キリストの謙卑、聖霊の謙卑によって、われわれは、それを忘れずに生きる新たないのちを生きよと呼び出されているからです。その福音の原事実によって、「くるぶし」(37)を確と支えられて、へりくだる神がわれらと偕にいますということ、その神の約束と、その約束へと導き給う聖霊の注ぎのもと、終わりの時目ざしてこのへりくだる神の御国実現へと向かって「大きく足を踏み出していく」(37)ようにと、陰府の底に降られた方から、日々に「われ汝らと偕にあり」と語りかけられ呼びかけられていることを、ともに覚えて参りたいと思います。

 最後に、この謙卑を最も深いところで突き動かしている神の愛の迫りをともに心して聞きつつ、その言葉のうちで今朝の説教を終えたいと思います。


イエスは、わたしたちのために、いのちを捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。……子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 (ヨハネ第一書簡3:16、18)

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