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北白川教会のあゆみと
創立の精神

​序文

北白川教会についての理解を深める手がかりとして、北白川教会の伝統と思われる諸点について、考え、記し、序文としたい。

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北白川教会は、本年(1985)、創立50周年を迎えたとされているが、それは、1935年(昭和十)四月二十一日の日本基督教会(いわゆる旧日基)北白川伝道教会設立を北白川教会の起点として考えるからである。この考えはすでに、1936年4月21日に創立一周年記念伝道集会が持たれた、という事実に現われており、以後、創立記念伝道集会、記念礼拝、記念集会、記念修養会はすべて1935年を起点とし、『北白川教会三十年史』も、『四十年史』も、さらにこの『五十年史』も、同じ観点に立っている。この観点は必ずしも誤りでないが、この観点を自明とせず、1935年4月21日が、いかなる意味で北白川教会の創立の日なのかを問うことが、北白川教会を理解するために必須のことと思われる。

通常、伝道所と呼ばれているものの多くは、既存の教派(教団)、または、教派所属の教会の伝道計画と活動によって設立され、自動的にその教派に所属する。しかし、北白川伝道教会は、旧日基、または、旧日基所属の教会の伝道活動によって生まれたのではなかった。北白川伝道教会設立時の主要会員は、すでに、その五年前の1930年(昭和五)九月七日以来、毎日曜日礼拝を守っていたのである。この小さな礼拝共同体が、教派に所属すべきか、独立教会として歩むべきか、祈り、考え、論議し合うなかで、五年後の1935年に旧日基所属の教会として歩むことを選び決断したのである。

1930年に生まれたこの小さな礼拝共同体は、名前を持っていなかった。教派的な信条もなく、洗礼式や聖餐式もなく、勿論会堂もなかった。ただ、メンバーがかわるがわる立って説き明かす、聖書の御言を中心とした礼拝が毎日曜おこなわれたのである。このような礼拝共同体を教会と呼ぶことができるであろうか、しかしもし教会と呼ぶことがゆるされないならば、何と呼んだらよいのであろうか。「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)と語っておられるのであるから、またその祭りには、よみがえりのキリストが、霊において現臨し、キリストへの献身と愛の交わりを生み出していたのであるから、ここにすでに新約聖書的な意味でのエクレシヤが存在したことは否定できない。このように考えるならば、北白川教会の創立は、1930年にさかのぼるとも考えられる。奥田成孝先生が隔週に、他の週はメンバーが交替で説教したといわれているが、この伝統は今日も形をかえて北白川教会に生きており、北白川教会が、いわゆる職職中心主義を打破した、自主独立な人格的共同体としてスタートした姿を如実に物語っている。

当時のメンバーのほとんどは、旧日基の諸教会において受洗していた。彼らが、旧日基に所属すべきか、独立教会として歩むべきか、その去就に迷ったということは、みずからがそこにおいて受洗した旧日基に所属することを自明のこととは見なさなかったこと、むしろ旧日基に対する何らかの批判があったことを意味している。そして、それにもかかわらず旧日基に所属する道を選んだということは、様々な批判は持ちながらも、孤立と独善を排して、旧日基の諸教会との交わりの内に、真の教会を求めつつ歩むべく決断したことを意味している。以上のような事情は、北白川教会が、その当初から、所属教派との関係を自明なものとせず、真の教会を求める視点から、教派を問い、自らを問う、自主独立の姿勢を持っていたこと、しかも他教会との交わりを求める意志を失わなかったことを示している。従って、一九三五年、五十年前の、日本基督教会北白川伝道教会の設立は、すでにエクレシヤとしての実質を備えていた礼拝共同体が、自主独立でありつつ、他教会との交わりの内に歩む姿勢を、内・外に鮮明にした時点であるということができよう。奥田先生が、旧日基や日本基督教団の教師検定試験を受験されたのは、小さな礼拝共同体が旧日基の所属を決断したからであって、奥田先生が旧日基の教師であったからその小さな礼拝共同体が旧日基への所属を決断したというのではない。

北白川教会の自主独立の姿勢が最も顕著に現われたのは、1945年(昭和20)9月、敗戦直後の時点であった、と私は考える。アモス書を講じておられた奥田先生は、講壇から、自身の辞任と北白川教会の解散を提起されたのである。戦争をめぐって、神の前に自身と教会の責任を問われたのである。戦時下、アモスの役を果たすことができなかった、と。日本基督教団の戦争責任告白が出されたのはそれから22年後の1967年のことであった。教団の戦争責任告白は、宗教団体が自らの戦争責任を明らかにした稀有の例であると言われるのであるが、それに20年以上先立って、しかも、敗戦後の占領下、多くの人々が戦争責任の追及から身を守ろうとしていた時に、北白川教会は、神の前に、自らの存在をかけて、神の言によってその責任を問うたのである。北白川教会がこの時ほど存在の危機にさらされたことはなかった。教会の危機は、いわゆる教勢の減少や財政危機でもなければ、外的な弾圧や迫害でもない。教会が真に神の経綸の足台として、神を証しするものとして、立っているのかどうか、神の役にたっているのかどうか、神の審きにさらされるところに教会の真の危機がある。そして、このような危機のないところに、教会の真の生命も再生もない。自主独立の真のあかしは、他を問い、他に問われるに先立って、まず自らの責任を神の前において徹底的に問うところに示される。

2

 

1914年(大正13)、京都共助会設立。翌1915年(大正14)、共助会の創立者森明先生、召天。奥田先生が北白川教会が、自主独立でありつつ、なお、他の教会との交わりの内に歩もうと決断した姿勢は、当時のメンバーがその会員であった基督教共助会の信仰姿勢に対応する。共助会は、キリストのほか自主独立、主にある友情の二つの柱によっていると言われるが、それが教会の歩みにも生かされたのである。が京大卒業後も「共助会のために」京都にとどまる決意をするに至った経過についてはここでは一切省略する。共助会は教会ではない。当時の諸教会では、共助会のような教会外の信仰団体は不要であるという雰囲気や、論が強かった。共助会に理解のある教会を求めて共助会員が集まったのが、1930年の礼拝共同体であった。従って、北白川教会は、共助会を背景とし、直後の母胎としている。北白川教会の旧日基の諸教会のなかでの独自性は、歴史的にはここに由来している。

京都共助会は、当初、京都帝国大学学生基督教共助会と呼ばれていた。1930年の礼拝共同体においても、1935年の伝道教会においても、そのほとんどのメンバーが、京都大学卒業生、学生、また、その夫人たちであった。北白川教会の会員に、京大卒業生や京大生が多いのは、以上のような北白川教会と京大共助会とのつながりによる。キリスト主義大学の場合はともかく、一つの教会が、半世紀以上にわたって、一つの国立大学とのかかわりにおいて歩んできた歴史は、他に例を見ないのではないか。それは北白川教会の貴重な伝統であり個性であると共に、北白川教会が絶えず信仰において、問い克服しなければならない危険と課題をもはらんでいる。

帝国大学は、明治維新後の大日本帝国が、各界における指導的人材を養成するためにつくった大学である。その学生はエリート中のエリートという事実は否定できない。戦後は、大学の大衆化ということが言われ、その性格が多少変化したとしても、京大生がエリートであることに変わりはない。問題は、第一に、各自がその自らの社会的立場を信仰においていかに受けとめ生きるかということ、第二に、他との関係において、教会においてもまた、その社会的立場からくる無自覚なおごりを徹底的に打ち砕かれ、いかにして兄弟姉妹の交わりに生きるか、ということである。後者については、それが躓きとなって北白川教会を去ったり、あるいは、北白川教会にとどまっていてもさびしい想いをいだいている人がいるのではないかということを、絶えず問い、克服する努力を怠ってはならないであろう。前者については、北白川教会創立当時のメンバーの生き様がそれを示唆している。

奥田先生は、1951年(昭和26)の按手礼式にあたり、森明先生の言葉をひきつつ、「今私は、一国の宰相が一国の元首よりその印綬をうけるというならば、天地の主なる父なる神より召されて伝道者、牧者たるの印綬を帯びたとの光栄を深く想う」と記しておられる。森・奥田先生の父たちは、文字通り、天皇から印綬をさづけられた、日本帝国の高名にしてすぐれた大臣たちであった。この言葉は、その父たちの光栄と自らの光栄とを比較しつつ、自らの伝道者としての使命の自覚を語っているのである。その光栄は神の栄光からくるのであり、この神の栄光の前に、地上の一切の光栄は虚しくなり糞土の如きものとなり、この神の栄光をあらわすために、徹底的に僕として仕えるところに、真の光栄があるのである。それが、弟子たちの足を洗われたキリストの道である。

また、奥田先生と、京都共助会、北白川教会の歩みを共にされた鈴木淳平先生が、大学卒業後つとめておられた信州の岡谷の会社をやめて、職の定まらない京都にやってくる決意をされた事情はよく知られている。神の召しに従って、エリートとしての栄達を捨てた人々によって北白川教会の基礎がすえられたということを私たちは忘れてはならない。時代が変り、また、持場や職場や課題は変っても、私たちの姿勢は基本的・本質的に変ってはならない。

そしてさらに、キリストの僕として隣人に仕える道は、世の苦しむ人々、虐げられている人々へと向い、そこから私たちの生きる姿勢を問いかえし、それらの人々「と共にあり、より虐げられている人々へと具体化する。それを典型的に示しているのが、戦時下における、沢崎堅造、和田正両先生の熱河への召命と献身である。北白川教会は、祈りの山を二つ持っている。一つは、吉田山であり、もう一つは瓜生山である。京都大学を見おろす吉田山は共助会や北白川教会の創立にかかわる献身の祈りがささげられた山であるとすれば、眺望はるかな瓜生山は苦しむ人々、虐げられている人々へと向う僕の道への献身の祈りがささげられた山であるということができよう。私たちはこの祈りを継承する。

3

北白川教会が、共助会を母胎としながら、なお、共助会と関係の深い諸教会に対して個性的であるのは、奥田先生が、内村鑑三に深く学んだということに由来する。しかし、北白川教会は、無教会主義に立つのではなく、あくまで、宗教改革者の福音主義信仰に立ちつつ、洗礼・聖餐を重じる教会として歩んできた。北白川教会は、内村鑑三の無教会主義を、頭からはねつけるのではなく、教会に対する批判、問題提起として受けとめ、その真理契機を生かしつつ真のエクレシアたらんとしてきたのである。奥田先生が戦後来日したスイスの神学者ブルンナーの教会観に共鳴したのもこの点にかかっている。

たとえば、ブルンナーは次のように語っている。「霊の共同体としてのエクレシアの秘密は、法的に組織されることなくして、しかも生き生きとした体制を持つ秩序であるという点である。」「それは、秩序を持てるにもかかわらず、なお純粋な人格共同体であって、決して制度ではないということ、かつまた、この秩序たるや、各人にそれぞれの分を指示しながら、しかもなお、なんら権限における区別を認めなかった。」。また、次のようにも語られている。「神の言はエクレシアの中に現在し、聖霊の言として活動する。この統一―こそは、後代にはもはや存在もせず、また理解されない原始教団の秘密である。また同時にそれは、初代信者たちの交わりとその道徳的力の秘密である。……ゆえに、この原始的な力と統一とが、もはや以前のように満ち充ちた状態では存在しなくなった後の時代が、この欠けたるものを補い、消え失せゆくものを保障しようと試みたのはもっともである。……すなわち、第一に、神の言が神学及び教義によって保障され―同時に代用され、第二に、交わりが制度によって保障され―同時に代用され、第三に、は、愛の中に活動するものとしての信仰が、信仰個条及び道徳律によって保障され―同時に代用されることとなったのである」(『教会の誤解』酒枝義旗訳)。

北白川教会は、二つの礼拝に集中して、他のものは可能なかぎり削り落してきた。第一の礼拝は、ヨハネ福音書の語る「霊とまこととをもって父を礼拝する」日曜日の礼拝である。第二の礼拝は、ローマ書の語る「あなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」という、この世における愛を基本とする生活である。パウロは、その生活を、からだをふくむ全存在を神にささげる霊的礼拝と呼んだのである。北白川教会は第一の礼拝において、神の言に、キリストに集中する。他は全て、第一の礼拝への応答としての第二の礼拝であって、自由独立な各自の祈りと工夫と責任にゆだねられている。礼拝と説教会以外に聖書を学ぶ場がないというのであれば、各自が聖書研究を行うのである。教会を主体とするバザーなどによる愛の奉仕の機会がないというのであれば、各自が祈り、愛に生きる工夫をせよ、というのである。青年会や婦人会がないというのであれば、各自が、相互に祈り合い、助け合い、慰め合わねばならない、というのである。限りない自由がゆだねられていると共に、この上なくきびしく責任が問われているのである。そのような北白川教会の姿が、他教会から転会してこられた方々の目にどのように映じたか、よく示している二つの文章を付加する。

北白川教会に無いものと有るもの     田辺明子

ふりかえってみると、キリスト教主義学校の中学部に入学して教会の門をくぐって以来、わたくしは今まで九つの教会に通ったことになる。もっとも、深い関係をもつに至ったのは、中学生のとき通っていた西宮の教会と、洗礼を受けた伏見の教会と、四年前転入させていただいた北白川教会との三つである。ところでこの北白川教会には、わたくしが他の教会で見慣れていたものがたいへん少ない。つまり日本のプロテスタント教会に固有の習慣とか制度のようにわたくしの目にはうつっていたものが、この教会にはない。それを枚挙してみると、①十字架がない。②週報がない。③各部会がない。もっとも家庭婦人会というのはあるが、これは他の教会の婦人会とはだいぶ趣を異にするように思う。⑥集会あるいは教会奉仕への勧誘・強要がない。そもそも聖書研究会・祈祷会・伝道集会・家庭集会・修養会等の諸集会がきわめて少ない。⑦姓の下に兄弟とか姉妹とかを付して、たとえば田辺姉妹と呼ばれることがない。⑧バザーがない。なおこれに加えて、⑨として会堂建築献金を挙げたいところだが、これは今しばらくは挙げることができない。

こういうふうに無い無い尽しの北白川教会に有るものは何か。それが何であるかが鮮やかに見えてきたときのことをひとつ書いてみよう。

昨春わたくしは聖地巡礼の旅に出た。ここはエリヤが身をひそめた洞穴、ここはマリアが水を汲みにきた井戸、これが受胎告知の場所、ここはイエスが水を酒に変えた家、これがペテロの家、ここがパンの奇跡の丘、これが山上の垂訓の丘、ここはイエスの生涯の洞穴、ここがゴルゴタの丘、これがイエスの墓、これがイエスお棺の……というふうな説明を聞きながら、我々現代人の哀しさで半ば疑い、半ば感激しながら、そういった遺跡の上に建てられた教会に詣で、(カトリックの巡礼団であったので)御ミサをたてながら、聖週間の巡礼の旅をつづけた。その巡礼団の率いる神父様はすぐれた方であったので、その説教にわたくしは殆んど違和感をおぼえることなく聞きほれた。しかしエルサレムの壮麗な寺院で、薫香がたちこめ、人の心を陶然とさせるような合唱とお経のような朗誦の流れるなか、きらびやかな祭服の司祭たちがたてる華やかな御ミサに参加しているときなど、「ガリラヤのナザレの一青年イエスよ、あなたはどうしてキリストになったのか」と問いかけたくなってくる。

そういうとき、はるか故国の北白川教会の礼拝がわたくしの脳裏によく浮かんできた。飾りもなく、形もなく、貧しく、平たく低く、もう無と言ってよいほどのものとして……。しかしそのなかに、もはや場所に限定されることなく、自由になって世界に遍く満ちることのできる霊なるキリストがいますのを、わたくしは幻のようにみる思いがした。(1978年)

黒板.     沼田恭典

北白川教会の礼拝には、黒板が大切な御用の一端を果している。約一年程前、初めてこちらの礼拝に出てこの黒板を見、何とも素朴な親しみと信頼を覚えた。これは、大変、人間的で、暖かく、実直で形式ばらず、無駄がない事を表明している。しかも十分、礼拝順序を知らしめて、その用を果している。そして唯ひたすらに礼拝に参加し、今日語られる神の声を聞こうとしている北白川教会の皆さんの姿勢を、端的に現わしているようにも思われた。

「今日最も大切な事は、信者がそれらしい事をガチャガチャやる事よりも、心を静めて私共に最も欠けている又最も必要な、神からのメッセージを聞く事ではなかろうか」と、私はそんな勝手な思いに取り付かれて久しく遍歴を重ねた末、この教会の奥田先生にお目にかかり、「直指人心」心の深い所へ語りかけて下さる説教を聞き、この黒板が示すように、形式と無駄を排除したこの教会の在り方を見て、私は初めて心の安らぎを覚えた。毎翌日この黒板に選ばれる何と単純で心を打つ讃美歌の多いことか。

「基本的な事の他は、なるべく教会で余分な負担をかけないこと」という奥田先生の確固たる御意見と、一方、礼拝の説教には心根を傾け準備され、飾らず、ありのままに聖書の深みを釈明して下さる聖日のひとときは、他に得難い北白川教会の宝です。そして先生を助けて月一、二回信者の方々の礼拝説教の御奉仕も。

毎日曜、礼拝の始まる10分程前、奥田先生は黒板に向い白墨を持って一字一字丁寧に、司会者、奏楽者、讃美歌番号、聖書の主題箇所、説教の題目等を書き込まれる(奥田先生の名前は、いつも書き忘れている)。この姿勢、この信仰こそ、説教の前の一つの説教として胸を打つ。

北白川教会の黒板に期せずして表象されている、真実で素朴な教会の在り方こそ、今日の一般の教会に失われてしまっている大切なものの一つではないだろうか、と思われてなりません。(1979年)


以上、北白川教会の伝統と思われる諸点について記し、合せて田辺、沼田両氏の文章を引用した。北白川教会は、ユニークな教会と言われてきたが、その由来を理解し、真に継承したいと願うからである。しかし、いかなる伝統も、神の前に、聖書を通して常に新しく問われなければならない。そうでなければ、いかに良き伝統でも、固定化し、形骸化し、律法化し、生命を殺すものとなるであろう。先輩たちが歩んできた道とのこされた遺産を思う時、自分の非力に足がすくむ思いがする。しかし、私たちは、石ころからアブラハムの子を起こす主を仰ごう。

1986年1月12日

小笠原亮一

沿革

1930年9月7日
現在の北白川教会設立時の主要会員が礼拝を守り始める
2026年
創立90周年を迎える
1936年
創立一周年記念伝道集会
1935年
設立
1985年
創立50周年を迎える
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