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霊は生かし,霊は呻く

  • admin_ksk
  • 3 時間前
  • 読了時間: 18分

2026 年5 月24 日ペンテコステ礼拝説教 山本 精一


聖書 詩編第130 編1~2 節

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

コリントの信徒への手紙II 第3 章4~6 節

わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前に抱いています。もちろん、独

りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資

格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではな

く霊に使える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

ローマの信徒への手紙第8 章22~26 節

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊” の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 同様に、“霊” も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。


 今朝、世界各地の教会で、聖霊降臨節(ペンテコステ)を祝う礼拝のときがもたれてい

ます。その朝に、この出来事をわれわれもまた新たに覚えつつ、その大きな恵みと幸い

を、この世界の片隅、北白川の地から、しかし世界に向かって世界の教会とともに喜び

祝って参りたいと思います。

 しかしそれと同時に、軍事力・経済力・情報通信技術による自国の支配圏拡大に狂奔する国々の権力者たちの大群は、その狡猾な貪欲の息を吐き散らしつつ、残忍極まりない戦争暴力を行使し続けています。そのような時代そのような世界のなかで、それらの国々の戦争犯罪によって、言うに尽くせぬ虐(しいた)げに晒(さら)され続けてきた人々が、生活インフラのすべてが破壊し尽くされた土地で、飢餓と濁り水と感染症の深刻な広がりのなか、行き場のない劣悪な仮設テント生活のなかで、暑熱の季節を迎えねばならなくなっています。そのような世界の現実のなかで、私は呻かずにはいられません。しかしその私に向かって、さらには、それにおよそとどまることなく、このような世にあって苦しみ呻く人すべてに向かって、その一人として洩らさずに、そしてさらにはそれにとどまらずして、「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている被造物すべて」(ロマ8:22)に向かって、この望みなき世の深い闇を切り裂いて告げられてきている、聖霊が降ったとの告知を、礼拝という場において、相共に畏れをひたすらに深くしつつ、想起しおぼえ(記念し)て参りたいと思います。


 しかし「想起しおぼえる」と申しましても、聖霊は目で見て、「ほらあそこにある、ここにある」といった具合に、「もの」として口先一つで説明できるようなものではありません。それゆえ「聖霊について語ろう」とするとき、人は、自分の肉眼にも他人の肉眼にも見えていないものについて、何ごとかを語らねばならないという困難な事態に追い込まれます。それは申すまでもなく、容易ならざる事態です。諺(ことわざ)に、「講釈師見てきたような嘘を言い」という辛辣にして真実を衝いたものがありますが、「聖霊について語る」ということにもまた、率直に言って、そのような「見てきたような嘘を言い」という危うさが付きまとっているということを、先ず何よりも恐れつつ認めねばなりません。


 その際、そのような危うさとはどのようなかたちであらわれてくるのかと考えてみるならば、例えば、聖霊信仰というものを、ただ教条主義的(ドグマーティッシュ)に頭ごなしに語って、「それをその通り信じなさい」と言って事足れりとするというかたちで現われてくる場合もあれば、あるいは逆に聖霊、聖霊と熱狂的に連呼しそれに陶酔するといったかたちで現われてくる場合もありましょう。はたまた以上のこととは反対に、「目に見えない聖霊については、所詮『見てきたような嘘を言い』が関の山で、そもそもAI 万能に浮足立つ現代人に聖霊云々と語ったところで一体どんなインパクトがあるというのか」と溜め息まじりに、諦め半分泣き言半分で、もしくは精々お伽噺の類いで御茶を濁すといった

仕方で、つまるところ自分自身が抱いている、この時代の時代像に引きずられるがままになっているということもあるでしょう。その結果、聖書が告げる聖霊の働きというものに対して、冷えきった「現実主義」をどこかに宿しながら、聖霊について渋々語るといったことすらあるかもしれません。それらはどれも他人事(ひとごと)ではありません。この場に立たされている私自身が直面している問題です。


 しかし、聖書全体がわれわれに語りかけている聖霊経験とは、まさしくそのようなところから、われわれを徹底的に解放し自由にするものです。その解放し自由にする聖霊の働きに触れるとき、その時にのみ聖霊について語るという道が、今述べた諸々の危うさを突破して、語る者に対して何ほどか開かれてきます。それを突破するのは、ひとえに聖霊の働きです。その聖霊おんみずからの突破によって、われわれは、イエス・キリストと、キリストの父なる神、そして当の聖霊そのものとが、互いに深く関わり合い交わり合い働き合っている場へと、つまりはそのような神・キリスト・聖霊相互の、無尽蔵の愛の交わり、無尽蔵のいのちの交わりのうちへと招き出されます。そのように言うと、それは何か小難しく聞こえるかもしれません。しかし、聖霊とは、決してそれ単独でどこかからふわふわと漂ってくるものではないということ、父なる神と子なるキリストと確と関係しあって働きかけてくるものであるということ、その三者それぞれの独自にして一体となった働きかけの消息に、この朝、いささかなりとも触れてみたいと思います。


 その際、その聖霊経験という出来事は、ともすると、何か俗世間を超脱した高尚にして神聖なる霊的境地が自分に開かれてくることといったような、ある種の宗教的エリート主義、自分が特別な境地に高められるといった上昇志向の一種の如くに思われることがあるかもしれません。しかし事態は、まったく逆です。むしろかえって、聖霊の経験においては、われわれの日々の生の現場、具体的な生活の場そのものこそが、その出来事が起こる場所となってきます。それは、日々のわれわれ自身のいのちのありよう、生活の実際が、聖霊によってまったく新たに生き生きとされていくということ、そのことに聖霊の問題は直結しているからです。


 それゆえ聖霊の経験とは、そもそものところ、われわれ自身日々どのように「生きて」いるのかという問題と切り離しがたく結びついています。例えば、そのわれわれの日常生活が、次々と生じ次々と襲いかかってくる世の諸々の試みのうちで、失意と諦めの思いにただただ飲み込まれていきそうなとき、あるいは隣人の悲しみ苦しみに慣れっこになってしまって、それを「ああまたか、でも私にはどうしようもないことだ」との無感覚と忘却でやり過ごそうとするとき。そうした日々の生活のなかでのわれわれの具体的な有様(シーン)に向かってこそ、そのわれわれに働きかけ、聖霊はそれを打ち破っていく、そう聖書は語ります。ちょうど乙女マリアに対して、日常生活のまっただなかにあった彼女に、突如、御使いが「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ福音書1:35)と語りかけてきたように。


 このようにしてわれわれが今ここで生きている日々の生活の現場に働きかけてくるものとして、聖霊は、われわれの日常のあり方そのものと切り離しがたく結びついています。聖書は、聖霊の働きをそのようにして、われわれの日々の現実というものに徹底的に即して、かつそれを自由へと破り開いていくという消息を、一貫して語っています。だからこそ聖霊の問題は、われわれが各々、日々どのような「いのち」を生きているのか、すなわちわれわれ自身の日々の「いのち」のありよう、日常生活のありようを抜きにして語られてはいません。すなわち目に見えない聖霊の働きというものは、われわれの目に見える日々の「日常生活」の問題と垂直に交わっています。それゆえ、聖霊の問題を語るということには、舌先三寸のきれいごとでは済ませられない、自分自身の生活の現実がいかなるあり方をしているのか、そのことがあぶり出されてくるという、容易ならざる面、真剣極まりないところが必伴しています。

 その容易ならざるところへと追いやられている者が、しかしそれにも関わらず、神のいのち、キリストのいのち、聖霊のいのちの方へと向かって何ごとかを語らねばならないとするならば、それは語る者自身を、その狭く内向きに閉じられた日々の現実からその者を連れ出すもの、そのようにしてその者の小さく凝り固まった現実を突破していかずには済まないものです。しかも、その聖霊によるわが身に起こる現実突破は、壮大なスケールをもっています。その広がりと深さとが「聖霊を受けて生きる」ということの中には満々と蔵されています。聖霊降臨節のこの朝、自分自身を、そして人間(われわれ)の世界を、さらには被造物の世界全体を、さらには宇宙全体を、ことごとく神の愛・キリストの恵みとともに包む聖霊の働きに与って、新たに生かされて参りたいとの願いと呻きをもって、この礼拝を捧げて参りたいと思います。


 ただいま、聖霊を語るということが私自身にとって極めて容易ならざる事だということを申しました。何ゆえ容易ならざるのか、その点について、一つの譬えを用いて、別の面から光を当てて考えてみたいと思います。われわれは目でものを見ます。しかしそのものを見ているとき、ものを見ている自分自身の目について、自分ではそれを直接に見ることは決してありません。そのように自分では見ることができないものでありながら、しかしだからと言って、それではそれは自分には見えないからそんなものは無いのだなどとは誰も申しません。じっさい、その当の目の働きのおかげで、私はことさら意識することもなく、ものを見るということをなし得ています。

 その譬えを聖霊の問題に転じてみるならば、次のようなことになるでしょう。聖霊もまた見ることはできません。そこに聖霊について語るということの容易ならざる点があります。しかしそれに対して、その聖霊の働きに与ることがなければ、神がわれわれに、そして世界に、宇宙に与えておられる無尽蔵の神のいのち、キリストの甦りのいのちのいのちに、この世にあって出会い、そしてそれによって生かされるというところへと、われわれ自身が動かされていくということもまた起きてこない、と。パウロが、


わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 (コリント後書4:8~9)


と語るとき、その驚嘆すべき言葉を、パウロは、その直後で「信仰の霊」(4:13)による言葉だと告白しています。それゆえ、この聖霊の働きのあるところで、われわれはまた、キリストの甦りのいのち、そのいのちのいのちを啓き示され、それに与っていかなる苦難に面してもそれに屈することなく生き生きと生きるということ、新たに生かされるということが、聖霊との交わりによって起きてくる。そのようにして聖霊そのものは見ることができずとも、そのことによってこそ、神ともにいます生、その新しい生き方、あり方がわれわれのうちに贈り与えられてくるということ、その事を先のパウロの言葉は、聖霊という言葉を当該箇所では何一つ語らぬままに、しかしその働きあってこそ、世の常を突破する驚嘆すべき力に満ちた言葉を通じて、聖霊の働きを、無言のうちにしかしこの上なく雄弁に語り示しています。


 そのように、聖霊とは、外側から観察して、あれこれ説明できるようなものでは決してありません。それは、どこまでも自分自身を実験台にして(今風に言えば「自分事(じぶんごと)」として)、かつまたこの自分自身と世界全体の出来事のただなか目がけて到来してくるものです。そのような「聖霊の経験」ということに、今またわれわれ自身新たに与らしめたまえと祈り求めつつ、聖書の語るところに耳を傾け、しばし聖霊について問いつつ求め、求めつつ問うてみたいと思います。


 ところで、その先ず初めに、この聖霊降臨という出来事に関して、聖書中でその出来事を記したものとして必ずや引き合いに出されてくる箇所について、簡単に触れておきたいと思います。それは、ご承知の通り、新約聖書『使徒言行録』冒頭部に記されている聖霊降臨の記事です。そこでは、聖霊降臨の出来事は、イエスの十字架上の死からの復活という出来事から数えて「五十日目(ペンテコステー)」に、「百二十人ほどの人々」(使徒言行録1:15)──ここでの「人々」とは恐らくは「使徒たち」と考えて差し支えないでしょう──に、一斉に起こった出来事として記されています(2:1~13)。ところでその「五十日目」ということに関しては、必ずしも文字通り「五十日目」という、その数字に拘泥(こ

うでい)しなくともよいでしょう。むしろ、「五十日目」と敢えて表記されているその日数(ひかず)からは、その字面のことよりも、それがキリスト復活からまだ日の浅いときに起きたという事、いやもっと突っ込んで言うならば程なくして起きた事だったということにこそ留意しておく必要があるでしょう。つまり、この百二十人ほどの使徒たちへの聖霊降臨という出来事は、キリストの死と復活の出来事の「香り」が鮮烈にして明らさまなる時(カイロス)のただなかで起きた出来事であったということ、その時にペトロをはじめ使徒たちの間に起きた出来事だったということが重要なのだと思います。


 つまり、聖霊降臨という出来事は、イエスの十字架の受難と死、そして神によるそのキリストの復活という出来事に深く浸透された出来事であったということ、その意味で、イエスの十字架上の死と墓からの復活という出来事の鮮烈な「香り」のなかでの出来事の一つであったということ、そのことをこの「五十日目」という言葉からは読み取れます。その意味で、使徒言行録の聖霊降臨記事の、「聖霊を受ける」という描写のうちには、イエスの死、神によるキリストの復活という出来事が、脈打っています。それゆえそのときペトロらに降った聖霊とは、復活のいのちを宿した霊、すなわち失意とあてどなき悔恨のどん底にくずれ落ちていた裏切りの弟子に、まったく新たな力を与えた、いのちのいのちなる霊に他なりませんでした。


 加えて、そこでの聖霊降臨の有様についての記述は、度外れて激烈なものです(「暴風」「轟音」「炎のような舌」)が、しかしそれは、旧約聖書が記す霊の経験の烈しさと深く通じ合っています(参エゼキエル書37:1~ 27、なかんずく6、9~10、13~14、27)。預言者エゼキエルが、


「· · · · · · 枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。する、とお前たちは生き返る。」

(4~5)


と語るとき、そこにおいて彼は、イスラエルの歴史のなかで、恐らくは、血で血を洗う激戦の末死んでいった者たちの、その後も無惨に放置されたままの白骨ひしめく谷底へと、つまりはイスラエルの歴史のなかでの大惨事(戦争)の犠牲者たちが、弔われることなきまま、今や枯れた骨となって散乱している谷底へと、主によって「連れ出され」、しかしそこでこそその「甚だしく枯れた骨」に主の「霊」が暴風となって吹きつけられたということを、そしてそれによってその死者たちが続々と復活するという、激烈なイメージに満ちた新しいいのちのビジョンを目の当たりにします。こうしていのちを与える霊は、暴風の如く(9)、悲哀と妖気の谷に放置されたままであった枯れ骨の群れに吹きつけられ、彼らはそれによって「生き返らされて自分の足で立たせられ、非常に大きな集団」(10)となっていったという枯れ骨復活のビジョンが、そこには書き込まれています。


 今朝、二番目に読んで頂いたコリント後書で、パウロは、まさしくこのエゼキエルが見た烈しいビジョンの核心をなす使信を、一切の修飾語を削ぎ落して、ずばり一言で語りきっています。曰く


霊は生かす。  (3:6)


と。原文にして短いたった四語から成るこの言葉のうちには、その霊によって苦難のただなかにあってなお不退転の生を生き生きと生きるパウロ自身の喜びと確信が爆発的にたぎっています。パウロのこの語りは、エゼキエルが直面したこと、すなわちイスラエルの歴史の悲惨の中で、悲しみの谷底に打ち捨てられた死者たちを、神の息が暴風となって甦らせたということに明らかに連なるものです。さらに翻(ひるがえ)って、その言葉は、そのような死者累々の谷底があそこにもここにも広がっているこのわれわれの時代、その時代に生きるわれわれに向かっても、この死が支配する世界を突破する「生かす霊」を告げて熄(や)むところがありません。

 パウロは「律法」に代表される、人を文字の決まりごとに縛りつけ、そのことによってかえって自ら逆に硬直化していくわれわれの生の現実を、そしてそのようにして硬直化した生活の現実を指して「文字は殺す」と述べています。

 それに対して、霊とは、そのようにしてとめどなく硬直化していくわれわれの生・生活そのものを、その深みから烈しく揺り動かし新たに突破していくということを、他ならぬパウロ自身、その息(いのち)を吹き返す霊の暴風をその身に受けつつ語っています。そのパウロの体の隅々には、聖霊が浸み通っています。そうでなければ、このような言葉は誰にも語り得ないでしょう。そのようにして、いのちの霊、生かす霊によって生かされている人が、ここで語っています。


 そのことによって彼はどうなったのか。それを、彼自身、この少し後のところで、以下のように告白しています。


主の霊のおられるところに自由がある。(コリント後書3:17)


 こうして、聖霊とは、枯れ骨に埋もれたわれわれの日々の死せる現実に、新しいいのち、福音書のなかでイエスが語り示した「永遠のいのち」を吹きつけ、それによって、世の諸々の束縛の力、諸々の硬直の霊に屈することなく、悲しみの谷の中にあって、そこから今や「自分の足で立ち上がらされ」、主の霊が贈り与えてくれる自由を生きさせるものだということを、新旧約聖書は合して語っています。

 先ほど読んだ「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と、パウロが一気呵成に語っている言葉は、まさに「霊は生かす」というときの「生かす」ということが一体どのような事であるのかということを、それこそ講釈師のようにではなく、激しい迫害の渦中にあるパウロ自身が、その生活のただなかから語り出している言葉です。その言葉は、パウロという人の生・生活の現実に裏打ちされたものです。そのパウロの生活の現実のなかに、パウロという人を捕らえそして助けた聖霊が、この世の重々しい鎖を断ち切って、踊り上がらんばかりに躍動しています。


 この世の重々しい鎖と申しました。自由が真綿で絞めつけられるようにして一つ一つ窒息させられていくとき、そのことに対して、もしもわれわれが端から諦めに陥り、「長いものには巻かれろ」式の世知(せち)に屈していくならば、われわれはその自分を縛りつけている内外の鎖に程なく慣れっこになっていきます。剰(あまつさ)えその鎖に縛られているということさえ感じなくなるということすら起きてきます。


 しかし、「主の霊のおられるところに自由がある」とパウロは語ります。それでは、そのような「主の霊」とは、しかしその自由を薄笑いを浮かべてあるいは憎悪に満ちて踏みにじる者たちが支配権を握っている世界、すなわちわれわれの今現在の救いがたい世界の現実のなかにあっては、一体いかなるかたちでわれわれを「生かす」というのでしょうか。


 それに対してパウロは、「聖霊は呻く」と語ります。この救いがたい世にあって、最も苦しむ人々が沈黙させられ、のみならず世(われわれ)の無関心に深く傷つけられ、片やわれわれはと言えば、いつしか自らの無感覚・無関心に慣れきっていく。

 その時、その迫害と無気力と無関心と諦めの谷底の深淵(この世)において、しかしどれほどわれわれがだんまりを決め込もうとしても、霊は呻き、神に向かって烈しく祈っているというのです。司会者に初めにお読み頂いた残り二つの聖書箇所は、まさにその消息を伝えるものです。


同様に、“霊” も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ロマ8:26)


深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。(詩篇130:1~2)


 深淵のなかで最も相応しいこと、それは祈りにならぬ祈りを祈ること、神に向かって呻きと嘆きと叫びの声を上げることだと、パウロと詩篇の詩人は、それぞれ身を打ち震わせて語っています。

 パウロは、「どう祈るべきかを知らぬ」という深淵のうちにあります。「どう祈るべきかを知らぬ」とは、端的に言って、祈れないということ、すなわち言葉にならぬ叫び、呻きに満ちた沈黙のうちにいるということです。しかしまさしくそのとき、聖霊は、「言葉に表せないうめきをもって執り成し」ているのだと、パウロはそこに聖霊の呻きを重ね聞いています。

 どう祈るべきかを知らぬ深淵のなかでわれわれが叫び嘆き呻くとき、聖霊もまた語り得ぬ呻きとともに、われわれの呻きのうちに内住する。そしてそのことのうちで、聖霊もまた、よし肉眼で見えずとも、ともに呻き叫んでいる。パウロも詩人もエゼキエルも、それぞれの置かれた時代と人生の現実のなかで、この恩寵の一事を経験しています。


 聖霊は、まさにそのようなときに、われわれに先立ってわれわれと共に、その深淵の中で、言葉を失うまでの呻きに身を沈めているのだということ、そのようにしてわれわれを助けているのだということを知らされるとき、聖霊がまたの名を「弁護者=助け主パラクレートス」(ヨハネ福音書14:16)と呼ばれているということが、新たに生き生きと迫ってきます。


 聖霊について聖書が語っている以上の消息全体を、われわれもまた各々自分事として受けとめ、自らの日々の現実への慣れ落ちのなかから、かつまた時代の深淵のなかから、この助け主に向かって日々に叫び求め、諦めの霊、不自由の霊、奴隷の霊に仕えるのではない、そうではなくて、生かし呻く聖霊に仕え、その聖霊に助けられて、「虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない……」とのあのパウロの聖霊に助け導かれた告白をわが身心に鳴り響かせながら、悲しみの谷底にある人々に吹きつける主の暴風を乞い求めつつ、おのがじし祈り働く者とされていきたいと切に祈り願います。 

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