砕かれた心
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2026 年5 月10 日主日礼拝説教 下村 喜八
聖書詩編第51 編7~19 節
わたしは咎のうちに産み落とされ
母がわたしを身ごもったときも
わたしは罪のうちにあったのです。
あなたは秘儀ではなくまことを望み
秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください
あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
わたしの罪に御顔を向けず
咎をことごとくぬぐってください。
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。
わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。
神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください
この口はあなたの賛美を歌います。
もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
司会者にお読みいただきました聖書箇所冒頭の詩編51 編7 節には
わたしは咎のうちに産み落とされ、
母がわたしを身ごもったときも
わたしは罪のうちにあったのです。
とあります。「わたしは咎のうちに産み落とされ」、「母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」は何を意味しているのか分かりづらい文章ですが、前回お話ししましたように、「私は罪人として生まれた。生まれながらに罪の内にある」という意味だと思われます。そして私たちはあるときはこの罪を犯し、また別のときには他の罪を犯すというような罪人ではなく、「まず私たちが罪人であるから、私たちによってこのような罪が犯されるのである」と。罪とは、単に律法や道徳にもとる行為を行うことではなく、本来神の方向を向くべき心の底が、倒錯して自己自身を向いていることです。したがって究極には自己自身を愛し、神と隣人を愛さないこと、これが罪です。
あなたは秘儀ではなくまことを望み
秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。 (8)
この箇所は口語訳では
見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
聖書協会共同訳では
あなたは心の奥底に真実を望み
隠された所で知恵を授けてくださいます。
となっています。ほぼ同じ意味です。またルター訳はじめ4 つのドイツ語訳も同じようになっています。したがって聖書協会共同訳に基づいてお話しします。
神は私たちの心の奥底に真実を望み、それを求められます。ところで、「真実」とはどのような意味でしょうか。真実については聖書に数えきれない事例がありますが、二つだけあげておきます。
主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。
真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。 (申命記32:4)
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。(……)信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに、子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 (ヘブライ書11:8~11)
真実とは嘘・偽りがないこと、約束や契約をやぶらないことです。心変わりしないこと
です。ローマ書には、
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。 (3:4)
とあります。人間は偽るが神は偽らない。そして神はみずから真実な方であり、人間に対しても真実であることを要求される。神は「わたしたちの心を吟味される方」( I テサロニケ2:4)です。真実な神の前に立つとき、私たちは心の奥底まで照らし出されます。
以前にお話ししたことがありますが、私は高校二年生の秋に英語の先生の導きにより初めて聖書を読みました。まったく知的な興味から読み始めました。それは、西洋文学やロシア文学を理解するためにはキリスト教を知らなければならない。そしてキリスト教を知るためには聖書を読まなければならないというものでした。何の予備知識も先入観もなく読み始めたといってよいと思います。ところが読み始めてしばらくすると、自分の心の中に、何やら不思議な「不充足感」、「ざらつき」、「違和感」とでもいったものを感じ始めました。まるで喉の奥に魚の骨が引っ掛かったようでした。同時に当時の私は、白樺派の作家たちやアンドレ・ジイド、ロマン・ロランを読んでいた影響かも知れませんが、「純粋」という言葉に強いこだわりを感じていました。純粋になれない自分、友だちとさえ損得抜きの純粋な関係を結べない自分に悩んでいました。今から振り返りますと、この純粋でありえないという悩みと、聖書を読むことで始まった心の「ざらつき」はつながっていて、聖書を読むことで純粋でない自分がいっそう炙(あぶ)り出されてきたのではないかと思われます。それが年月を経て罪の認識につながっていきました。真実な神の前に立つとき、私たちは心の奥底まで照らし出されて、心の不純さや罪があらわにされます。
今から振り返りますと、教義や神学を抜きにして、直に聖書そのものを読む場が与えられたことは大変幸いなことであったと思っています。前回はいろいろな教会で経験したことをお話ししました。その際、経験したことを表面的に紹介しただけで、その根っこにある信仰の傾向や特質についてはお話ししませんでした。少し補足させていただきます。
50 代の中頃、教条主義的な傾向の強い教会に行っていたことがあります。ある女性の信
者さんは、自分は絵を描くのが好きであったが、洗礼を受けてからは絵を描くことをやめたと話されました。私は驚き、なぜおやめになったのですかと尋ねると、モーセの十戒で、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」(出エジプト記20:4)とあるからとのことでした。私は、この戒めは、それにつづく5 節との関わりで、それらを偶像にしてはならないという意味であって、絵を描くこと自体を禁じているわけではないのではと言いましたが納得していただけませんでした。このような方がおられることに驚きましたが、皆様も同じだろうと思います。これは、先ほど述べた罪に関する理解の違いからきています。キリスト教は気をつけないと変な方向に向かいます。このように聖書の言葉を字義通りに受けとる信仰は「原理主義」と呼ばれています。原理主義は、聖書には間違いがないと固く信じ、歴史的・社会的状況が変化した現代においても信仰内容をそのまま適用しようとする運動です。したがってダーウィンの進化論や男女平等思想、および聖書の歴史批判的解釈を否定します。(歴史批判的解釈は、歴史的な文脈の中で聖書の内容を理解しようとする試みです。書かれた時代背景や用いられた資料、その時代と著者特有の表現や考え方等を明らかにし、原意の理解および解釈に役立てようとするものです。)たとえば、パウロの手紙にも驚くような事が書かれています。
婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。
律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。 ( I コリント書14:34~35)
とありますが、ここには聖書が書かれた時代の厳格な家父長制が反映されています。当
時は人口も男性の数だけで計算された男性中心の社会でした。したがってこの言葉には
時代的な制約・限界が働いていて、今では文字通り受け止める必要はないと考えるべきでしょう。実際、皆様のなかでこのパウロのすすめを守っている方は誰一人おられないはずです。
話しをもとにもどします。神以外のいかなる像も造ってはならないという戒めを字義
通りにとって、像を描くことが罪であるとすると、造形芸術のすべてが、さらには、言葉でさまざまな像を描く文学作品も否定されることになります。ちなみに、前回お話ししましたが、ほぼ30 年前、母が脳梗塞で倒れて危篤の状態にあったとき、牧師さんに、母のためにお祈り下さいとお願いすると、牧師は、信仰を持たない人の魂は救われないのでお祈りしても意味がないとおっしゃられました。受洗したあと絵を描くことをやめた信者さんは、この牧師が主任担任教師をしておられる教会の会員です。したがってこの牧師さんの信仰の影響を強く受けておられる可能性があります。信仰のあるなしで救いと滅びを截然と分かつ信仰は、罪人とされていた人々や貧しい小さくされた者の友となられたイエスの生き方と相容れない、愛において乏しい信仰です。
また、礼拝中にメモをとることは礼拝の雰囲気を乱すのでやめるべきだと言った人は、礼拝にたいして理想像をお持ちの方でした。その人が理想と考える礼拝は、「男性も女性もフォーマルな服装をして礼拝にのぞみ、背筋をのばしてすわり、精神を傾注してひたすら神の言葉(説教)に耳を傾けるべきものである。長老は模範を示すために、(最後列にすわる礼拝当番の一人を除き)全員最前列にすわるべきである」といったものでした。また、この教会では男性長老は、どんなに暑い日でもダークスーツを着用しネクタイを締めておられました。クールビズの勧めなどは一顧だにされないありさまでした。まるで一、二世紀まえのヨーロッパを舞台にした映画に出てくる教会のようです。このように原理主義であれ、教条的な信仰であれ、硬直した信仰は、自分で自分を縛ると同時に自分と異なる者を排除します。
あなたは心の奥底に真実を望み、
隠された所で知恵を授けてくださいます。 (8, 聖書協会共同訳)
「隠された所」は「心の奥底」と同じ意味です。旧約聖書では、同じ意味のものを別の
表現で繰り返すことがよくあります。主は、心の底に真実を求めると同時に知恵を授けてくださいます。ここでいう「知恵」とは何でしょうか。それは、「神は悔いたる人の罪を赦し給ふという事」であると矢内原忠雄は言います。その通りだと思います。神は人間の心の奥底の真実を知らせると同時に、その罪を赦す方であることを教えてくださいます。
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
喜び祝う声を聞かせてください
あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
わたしの罪に御顔を向けず
咎をことごとくぬぐってください。
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。 (9~14)
ヒソプはミントに似た爽やかな香りとほのかな苦みが特徴のハーブの一種です。神殿
礼拝に出る人に、清めの水を注ぐために用いられました。日本の神社において、神主が参拝者に、頭上で振って祓い清める榊(さかき)に相当します。詩人は、罪が清められて心が雪のように白くなるようにしてくださいと願っています。「喜び祝う声を聞かせてください」は、あなたの赦しと救いの喜ばしい声をきかせてくださいとの意味であろうと思われます。新約聖書的に表現すれば、あなたの福音を聞かせてくださいということになるでしょう。そうすれば、「あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように」なるというのです。今までは罪のこと、つまり内面が問題にされていた流れのなかで、急に「骨」に言及されます。突拍子もない表現に思われます。しかしこの詩人にあっては、深刻な罪の意識は心をくじくだけでなく、骨をも砕く、つまり人間全体を砕くものであることが示されています。したがって逆に、神の赦しの言葉を聞くことは心と体の全体を喜び躍らせることになります。
12 節に「確かな霊」、13 節に「聖なる霊」、14 節に「自由の霊」と霊という言葉が三度
も使われています。人間は精神(心)と肉体(身体)の二つから成っているとするのが一般的ですが、聖書では、人間は霊(れい)、魂(たましい)(心)、体(からだ)(身体)の三つの部分からなっていると考えられています( I テサロニケ書5:23)。そして霊は神の呼びかけに応える役割を持つ部分です。神との関係を成り立たせる器官です。そこで、「霊」が神の霊を指しているのか、あるいは神の霊を与えられた人間の霊(心)を指しているのかを区別する必要が生じてきます。
12 節の「確かな霊」は同じ節の「清い心」と並列に使われていますので、この「霊」は神によって与えられた人間の内なる霊(心)であると考えられます。13 節の「神の霊」は文字通りに神が与えてくださる霊、そして一四節の「自由の霊」は、神の霊によって救いの喜びを与えられた人間の内なる霊(心)と考えられます。自由の霊とは、強制されて仕方なく行う、いわば奴隷状態の心ではなく、自ら進んで喜んで行う自主的な心を表します。そのような霊(心)は私たちの存在自体を支えてくれます。
ここでは、「清い心」「新しく確かな霊」「自由の霊」という表現がたたみかけるように繰り返されています。詩人は、自分の罪が洗い清められることを願っているだけではありません。そのような消極的なレベルを越えて、自分が神の霊に満たされ、まったく新しく、清い、確固とした人間、自由に喜んで積極的に働きかける人間に生まれ変わること、自分の内に新しい生命、神の恵みの内にある生命が創造されることを祈り求めています。
12 節から14 節は、人間の新しい創造を表しています。私たちの罪を赦し、私たちの内に清い心を創造してくださった神は、私たちの人格そのものを造り変えてくださいます。私たちは生まれつき、本性そのものが罪人であるために罪を犯すことになります。このことから、必然的に私たちは、およそ善いことを自分の力ではできないという認識が生まれてきます。そして罪が人間の本性であれば、神が新しい本性を造ってくださるときにだけ元の本性を克服することができます。それは神が「聖なる霊」を注いでくださるときに可能となります。すると喜びに満たされた自由の霊(心)によって自ら進んで善をなすことができるようになります。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送る」(エフェソ書4:22~24)ことができるようになります。
わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。
神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください
この口はあなたの賛美を歌います。 (15~17)
神が自分になしてくださった「恵みの御業」を喜び歌い、これまでの自分と同じように
神に背いている者が御もとに立ち返るように、神の恵みの業を述べ伝えます。恵みの力によって、そうしないわけにはゆかないのであります。
もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
主よ、あなたは侮られません。 (18~19)
ここでは「いけにえ」ということに関心が寄せられています。いけにえとは、神または神々への供物として生きたままの人や動物を献げる行為です。このような行為は古代において全世界的に見られます。日本では、城や橋を築く際に完成と安全を祈願して人を生き埋めにしたという伝説が各地に残っています。ユダヤでは、動物のいけにえは神の怒りをなだめ、神と交わる手段としてよく行われた祭儀です。
しかしここで、神はそのようないけにえや燔祭(いけにえを完全に焼き尽くして神に献げること)を好まれない、喜ばれないと言っています。預言者ホセアも次のように言っています。
わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。 (ホセア書6:6)
詩編51 の詩人は「打ち砕かれた霊(心)」は、神に献げる「いけにえ」であると言って
います。私たちは、罪人を赦す愛、苦しむものと共に苦しむ愛を生きられたキリストに出会うときに、そのキリストという鏡に、それとは真逆の姿をした自分が映し出されます。そのときはじめて罪とは何かを知ります。罪を知らされることから、悔いが生まれます。「打ち砕かれた霊(心)」が与えられます。その砕かれた心を通してキリストの命がわれわれの内に流れ込みます。悔い改めに導かれた人間は、新しい人間に造り変えられます。私たちの命とキリストの命の交換がおこります。滅びに向かっている私たちの古い命は、「いけにえ」としてキリストに献げることになります。それを主は喜んで受け入れてくださいます。悔いる砕かれた心は、神の愛に対する私たちの愛と信頼を意味しています。さらに、そのような心は神の愛をこの世にもたらす導管ともなります。罪しかなしえなかった人間が、神と隣人を愛する人間に造り変えられる唯一の可能性を与えられることになります。
ここで話しを終えることができれば良いのですが、私にはそうすることのできない現実があります。それは、悔いる砕かれた心になっても、新しい自分に生まれ変わることができないことです。神の愛をこの世にもたらす導管になれないことです。言葉と行動、心の思いと生活の実態が分離して、砕かれた心が堂々巡りをする状態にしばしば陥ってしまいます。私が内向的な人間で、ああでもないこうでもないと考えてしまうことからきているのでしょうか。必ずしもそうとは言えないようです。19 世紀のイギリスの哲学者トーマス・カーライルはそのような信者を「臍(へそ)見キリスト者」と呼びました。また先代の教皇フランシスコは、「内向きで個人主義的な霊性への誘惑」(『福音の喜び』262 項)と呼び、私たちが「自己の内面にしか目を向けようとしない生のあり方……、キリスト者の偽りの霊性」(同上)へと逃げ込む危険性を指摘しています。その危険を脱するためにはどうすれば良いのでしょうか。教皇は次の二点を勧めています。力に満ち、滋味豊かな書物の味気ない紹介になりますがお許しください。その第一の勧めは、絶えずイエス・キリストに目を向け、彼との友情、彼との結びつきを強め深めることです。第二として、イエスという模範に魅了されて、社会へ深く入り込み、人と交わることを勧めています。「自分の壁を打ち壊して、心を人の顔と名前とでいっぱいにすれば、わたしたちは満たされた者となるのです」274 項)。「たった一人の人に対してしかよりよく生きる助けになれなかったとしても、それだけで十分に、自分の生涯をかけた献身は義とされるのです。神に忠実な民であること、それは素晴らしいことです」274 項)。
ここで、「いつもどこでもクリスチャン」という言葉を思い出します。江坂直さんから教えてもらった言葉ですが、奥田先生がよく用いていられたとのことです。しかし私はそういう意味でクリスチャンであることが少ないことに気づきます。「いつもどこでもクリスチャン」は、いつもどこでもイエスを思う人間です。そして「いつもどこでもクリスチャン」は、いつもどこでもイエスが一緒にいてくださる人間です。イエスが同伴してくださる日々を送ることができるように、お互いに執り成しの祈りをなしたいと思います。
私たちの心が人の顔と名前でいっぱいになるほどに。




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