十字架と復活
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2026 年 4 月 5 日 イースター礼拝説教 山本 精一
聖書 ローマの信徒への手紙 第 4 章 24b~25 節
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ローマの信徒への手紙 第 5 章 8 節
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
二月半ばから始まった本年の受難節(レント)の時期、この講壇では、ヨハネによる福音書中に書き記されているイエスの告別説教を二回にわたって見て参りました。その告別説教の中でイエスは、驚くべきことに、
「今、世を去って、父のもとに行く。」 (ヨハネ福音書 16:28)
という言葉を語っていました。そこでは、われわれが通常「世を去って」と言う場合とは根本的に異なった事が語られています。というのも、それは、われわれにははかり知れない、いやそれどころかわれわれの想像を絶した言葉、その意味でイエスのみが語り得る言葉だと言わねばならないからです。
神とともに生き、神のいのち、永遠のいのちをこの世にあらわなものとし、そのいのちをご自身生き、そしてそのいのちをこの世にあって苦しみ悩むわれわれすべてに頒(わか)ち与えんと世に来たり、そして遂には
「わたしは既に世に勝っている。」 (ヨハネ福音書 16:33)
との、ただならぬ宣言をされた神のひとり子であるイエス。
そのイエスが、それにもかかわらず、その世の力によって十字架に架けられて死ぬという恐るべき逆説が、このイエスの言葉のうちに既に語り込められているということに恐れを深くせざるを得ません。それは、一見するところ、「世に勝利する」ということとは真逆の事態だからです。その意味で、このイエスの言葉は、そのときの弟子たちにとって、そしてわれわれにとって、その真意およそ測り得ない言葉です。それほどまでに、イエスのその言葉には、十字架の闇が人間的理解を絶する仕方で、迫り延びてきています。じじつ、この後、イエスの地上の生の最終局面は、その十字架の闇にイエスがのみ尽くされていく受難の道行きそのものとなっていった。マルコはそのことを伝えています。
それは、どれほど望みなき凄絶(せいぜつ)な道行きだったことでありましょうか。マルコによる福音書は、とりわけ 14 章後半から 15 章にかけて、息もつかせぬ筆致で、いやそれどころか、どれほど書いても書ききれないと言わんばかりに、イエスの受難の歩みを記していきます。それは、一文一文、一語一語、まるで次から次へと襲いかかってくる怒涛の如くに、われわれに荒々しく迫ってきます。今朝は、その骨子のみを、今一度簡略に辿り直しておきたいと思います。
イエスは、弟子の一人に裏切られ、彼が既に手引きしていた武装した民によって捕らえられます。このとき、弟子たちはことごとくイエスを見捨て、その場から逃げ去っていきました。イエスを捕えたそれらの人々は、当時のユダヤ社会にあって宗教的な指導者かつ権力者であった祭司長、長老、律法学者たちのところへとイエスをただちに連行していき
ます。それを迎えたユダヤ律法社会の重鎮たちは、イエスについて、これまでに律法を公然と踏みにじり、剰(あまつさ)え自分のことを神の子だと許しがたくも僭称(せんしょう)したとして、イエスを悪しざまに罵倒(ばとう)しつつ、神への冒瀆及び神殿冒瀆の罪状でイエスを罪人として極刑たる死刑に処すべしと一致して断じます。そのうえで、当時ユダヤ全域を支配し、その地での最終的な司法権限を掌握していたローマの権力者(ピラト)のもとへと、イエスを送致します。彼らは、彼らの願い通りの極刑を下すようにとの圧力を陰に陽にピラトにかけ続けます。その敵対的激情のもと、イエスに対する公正な審理はなされぬまま、むしろ、イエスの十字架刑を狂乱して叫び求める群衆との衝突を何よりも恐れたピラトの保身・妥協によって、イエスは最終的に十字架刑へと引き渡されていきます。
そこからは刑吏である兵士たちのもとで、イエスは、まったく無力のまま、ただただ彼らによって激しく愚弄され、暴行を加えられ、唾を吐きかけられ、笑いものとされ、十字架につけられ、さらには一緒に十字架につけられていた二人の強盗たちからさえもののしられて、遂に
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 (15:34)
という絶叫とともに息を引き取られた。マルコはイエスの受難を、そのようにして書き記しています。
しかしその同じマルコは、マルコ福音書開巻劈頭(へきとう)の第一声で、
神の子イエス・キリストの福音の初め。 (マルコ福音書 1:1)
と宣言していました。それは、イエスこそ神の子キリストなのだとのマルコの信仰告白の要中の要をなす言葉です。その言葉の根底に赫々(あかあか)と滾(たぎ)っているマルコの信は、その福音書の初めから終わりに至るまで、あるいは終わりから初めに至るまで、マルコ福音書を一貫しているものです。それゆえ、それは、このイエスの受難と死の出来事をも間違いなく貫いているものです。だとすれば、マルコは、十字架のうえで「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのか」と大声で叫んだイエスこそが、「神の子イエス・キリストなのだ」と語っているということになります。そのことを、まず、深く心に留めておきたいと思います。
しかしながら、その二つの事態の間には、常識的に見れば、およそ埋めようのない底なしの深淵が口を開いています。この深淵によって隔てられた二つの相反する事態──
「神の子イエス・キリストなりとの根本的な告白」と「そのキリストが、十字架上で、わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのかと叫んで死なれたということ」──、マルコはこの二つの事態を、一体どのように受けとめてこの福音書のなかに相ともに書き記すことができたのでしょうか。いや、じっさいのところ、マルコならざるわれわれからすれば、その二つの相反する事態の前に立たされたとき、先ずはその相容れなさに戸惑い、さらには躓(つまず)きをおぼえるのは必至ではないでしょうか。
神を父と呼びつつ、その神に愛され、その神を愛し、その神とともに生きた「神の子」が、しかし「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたもうや」と叫んで死なれた。その神の恐ろしい無応答ということこそ、イエスの十字架の出来事であった。その十字架という出来事において、イエスは、世から嘲弄(ちょうろう)・排斥され、そして何よりも、神から見捨てられた者として死なれた。マルコは、その十字架の底なしの闇をいささかも曖昧にすることなく、それを受難記事の核心部に据えています。
しかしこの十字架の死の真暗闇の中から、そのイエスが神によって甦らされたのだとの驚くべき告げ知らせが、「白い長い衣を着た若者」(16:5)によって空虚な墓の中から伝えられた。そのようにマルコはさらに書き記しています。しかし、その「若者」が、どこの誰であるのかといった具体的な点については、不思議にもマルコはここで何一つ触れていません。むしろ、彼の信眼(まなこ)は別の一点に集中しています。すなわち、マルコは、それが何かただならぬ、この世ならぬ気配をもった存在であったという一点、そのことのみを「白い長い衣を着た若者」という事で示さんとしているからです。マルコにとっては、イエスの復活ということは、このような言い方でしかぎりぎりのところ語り得なかった出来事であったのでありましょう。このことは、この世の習いとなっている説明方法によってでは、イエス復活という出来事は到底語り得なかったということを逆に示している。そのように、私には思われます。
しかしこうした「白い長い衣を着た若者」といったマルコの言い方は、世の厳格な歴史家の眼からすれば、あるいは肉眼で見えるものしか信じないという立場の人からすれば、何ら信憑(しんぴょう)性のない「妄想」の一種だと一笑に付されるしかないことでありましょう。じっさい、とりわけそのようにして、「復活などあるはずがない」「復活など信じられない」と断ずる人は、イエス直近の弟子トマスを筆頭に、いつの世であれそして今の今に至るまで、自分自身の心根に宿っている疑心を顧みればすぐに分かるように、枚挙にいとまがありません。しかしその事自体は、決して非難されるべきことではなくて、この世の常識の枠のなかで生きている以上、それはむしろその通りだと言わねばならないことです。「死んだ者が生き返るだと。そんなことありゃせん」という率直な反応は、その率直さもろとも、一旦自分の身に即して、真剣に受けとめ認めねばならないわれわれの正直な現実です。
しかし、ここで復活されたと告げられている御方は、
「わたしはこの世には属していない」 (ヨハネ福音書 7:23)
と語られた御方でありました。しかしそれでは、そのような「世には属さぬ」歩みとはどのような歩みであるのでしょうか。そのことを示しているもの、すなわちイエスの十字架の極みに至るまでの歩みにこそ、深く心を向けていかなければなりません。しかしそれだけではありません。「この世には属していない」イエスは、死者の中から甦られた御方でありました。その復活ということ自体、徹頭徹尾、世の秩序、世の鋼鉄のように堅固な常識を根本から蹴破って現成した出来事です。それゆえそれは、世としては当然のことながら反発・否定せずにはいられないほどに、前代未聞のまったく新しい事態を告げている言葉です。それゆえ、「白い長い衣を着た若者」とのここでのマルコの謎めいた言葉は、「この世に属する」われわれが、「この世に属する」ものの見方にしがみついている限り、イエスの復活のいのち、その宝のいのちを受け取ることはできないということを、逆方向から、すなわち神のいのち、甦(よみがえ)りのいのちの側から示さんとする象徴的表現であるようにも、私には思われます。
じっさい、この復活させられたイエスのいのちとは、「死んだイエスが息を吹き返し、この世の生をまたもや何事もなかったかのように再開したのです」といったようなことでもなければ、その後も「幾久しくこの世の生を生き続けていかれました、めでたしめでたし」といったようなことを言っているのでも決してありません。もしそうだとしたら、この世のいのちに帰ってきたイエスは、この世のいのちの必然的な定めに従って、いずれいつの日かまた必ずや死なねばならないことでありましょう。そうだとすれば、それは、「わたしは世には属していない」というイエスを、またぞろ「この世」のいのちへとわれわれが引き戻すことにしかなりません。その場合には、イエスは結局のところ「この世」の生に、「この世」に属する者に逆戻りさせられるだけだからです。
聖書の復活証言が全身全霊でさし示している「復活のいのち」とは、そのような「この世のいのち」のうちに取り込まれそしてそれに兌換(だかん)されるようなものでは決してないというところにこそ、復活信仰の決定的な新しさが、一切の人間的常識を蹴破って発露しています。その復活のいのちが、イエスの復活において、イエスの十字架の苦難と互いに互いを照らし合いながら、遂に切り開かれた。このイエスの復活のいのちこそが、われわれ自身そのいのちに与り、そのいのちに生きる生き方を、新たに喜んで試みる場を恵み与えてくれた。イエスの復活とは、この喜びをわれわれにまさに新たに切り開いた。こうして、
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」 (マルコ福音書 16:6)
という、墓のなかに現われた「若者」の言葉は、われわれの日々他を圧(お)し潰(つぶ)すどこまでも自己中心的な性根、そのいのちのありようとは根本的に異なった、復活のいのちというものの、「ここ=この世」には決して閉じ込められない自由なるあり方を指し示す言葉となっています。復活のいのちなるイエスは、じじつ「ここ=この世のいのちのあり方」のうちにはもはやおられない、すなわちそのような意味で「ここ」に留まっているものでは決してない。復活のいのちとは、その意味で前代未聞の、「質的に新しいいのち」のあり方です。そこに、復活信仰のまたとない新しさがあります。
じっさい、マルコの伝える、墓のなかの若者が語った「ここにはおられない」という言葉、それは、復活のいのち、神のいのち、永遠のいのちというものが、われわれがしがみついている「ここ=この世」のいのちのあり方とは根本的に異なっているということをはっきりと示している言葉です。「ここ」がすべてだと思い込んでいるわれわれにとっては、「ここにはいない」とは、何にもまして躓きと失望の言葉でしかありません。しかしその躓きと失望とすぐ背中合わせのところに、復活という決定的に新しい事態が生起しています。それだからこそ、この「ここにはおられない」という言葉は、「世での苦難(なやみ)」(ヨハネ福音書 16:33)を経験する者(われわれ)にとって、この「世」のあり方ならざるあり方を切り開く言葉として、その意味でこの「世」のあり方を突破した方を指し示す言葉として、繰り返し立ち返り、苦難の中で噛(か)みしめ味わうに価する言葉だと言わねばなりません。それは、世には属さぬ(世にはなき)希望を指し示す言葉、さらには世に勝利した方を指し示す希望の言葉として、われわれに向かって墓のなかから語りかけられてきている言葉です。
パウロもまた、この世のいのちと復活のいのちとの間に決定的な質の違いというものがあるということを、彼自身のキリスト経験のなかで徹底的に覚知した人でありました。パウロは、そのキリストの復活のいのちに与って、まったく新たに生かされていった、復活証人の一人です。その際、次の言葉は、パウロにとっても、復活のいのちが、この世のいのちとは決定的に異なっているということを示すものとなっています。
死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない。 (ロマ書 6:9)
この言葉は、キリストの復活という出来事によってパウロにもたらされた新しいいのちとはどのようなものであったのか、その核心を射抜く言葉となっています。すなわち、キリストの復活のいのちとは、この世のいのちとは質的に異なっているということは言うに及ばず、さらに進んで、死の力そのものを滅ぼしたのだというのです。それは、コリント前書の以下の言葉と重なり合いつつ倍音化(クレッシェンド)しています。
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 (コリント前書 15:54c~55)
この言葉は、もともとは旧約聖書ホセア書 13 章 14 節からの自由引用ですが、パウロは、復活のキリストからの霊を身に受けて、今やこの預言者の言葉を、キリストの復活の光の下で、パウロ自身の言葉となしています。その復活経験とは、パウロにとって、パウロ一人にとどめおかれておくようなものではありませんでした。滅ぶべき不義の世のうちにあって、しかし既にイエスにおいて始まった復活のいのちは、世に生きる人すべてに及びゆくものでありました。なぜなら、死の力は滅ぼされてしまったのだから。その比類のない喜びが、パウロのこれらの言葉のうちに生動しています。
今見てきましたロマ書であれ、コリント前書であれ、そこにおいてパウロにとって最も重大な関心事となっていることは、「神の義」ということでありました。パウロは、青年期、律法に従って、律法を徹底遵守することによって自らを義とするという生き方にその情熱の一切を傾注した人でありました。さほどに彼にとって「神の前で律法によって義とされて生きる」ということは、彼の関心のすべてを占めていました。彼は律法に自ら徹底的に従う生き方によって自らの義を獲得・達成せんとするべくそのことに没頭していたこと、そしてその生き方を自負してやまぬ者であったということを自ら告白しています
(参・ガラテヤ書 1:14)。
しかしそのようにして自らに恃むパウロの身には、熱望していた義しい者になることはどこまでいっても起こりませんでした。それどころか、かえって自分こそは義しいという肉の誇りへの囚(とら)われ、自我意識の肥大化、自己正当化のエリート意識にがんじがらめに縛り上げられ、安らかに息をする事もできなくなっていったということを告白しています(参・ガラテヤ書 2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。)
そのとき、彼の目から見て律法を守っていないと見下した相手に対しては、許すべからざる逸脱者であるとその人々を終始攻撃的に審き、さらにはキリストの名を語り信じる人々を死地へと追いやるというところにまで行きつきます。それは、パウロが、「律法違反者」イエスを十字架へと追いやった者の一味となったということに他なりません。
彼は、律法による義、すなわち律法を盾にして、しかし実際のところ、その律法を守ることのできる自分というものをこそ誇り、自分で自分を義しい者となそうとする底なしの自己義認の高ぶりのなかに、蟻地獄の巣に落ちた蟻の如くに、もがけばもがくほど閉じ込められていきます。そこから彼を解放し救ったもの、それこそが、復活したキリストのパウロへの顕現、すなわち復活したキリストとの霊的な出会いと交わりという出来事でありました。それはパウロに、それまでの律法遵守に血道をあげていた時には決して経験したことのなかった、のみならず彼が一度も経験したことのなかった深い喜びと感謝とをもたらします。初めに司会者に読んで頂いたロマ書の二つの箇所は、まさしくそのパウロの、律法に固着・硬直した古きわれに死んで、そこからキリストの霊へと初々しく復活させられていった消息を伝えています。今一度読んでおきたいと思います。
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。 (4:24b~25)
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 (5:8)
初めの引用のうちにあるパウロのキリスト復活証言と、後の引用のうちにある神のわたしたちに対する愛の証言は、「キリストがわたしたちのために死んでくださった」という一事と切り離しがたく結びついています。しかし「キリストがわたしたちのために死んだ」ということは、マルコ福音書が具(つぶさ)に記していたように、キリストが有罪判決を受け、見捨てられ、否認され、不義なる罪人として処刑され、十字架の呪いのもとに死んだということを意味しています。キリストの復活の音信とは、まさしくそのようにして「わたしたちのために死なれたキリスト」が、その死に終わらなかった、その不義のままに捨ておかれなかった、そうではなくて神の義のもとに取り返された、すなわち神によって最終的に義とされたという決定的な出来事を告げるものです。
そのキリストの十字架の最深部で動く神の愛に触れたパウロが、「わたしの罪」と言うにとどまらず、「わたしたちの罪」と語っていることの深い意義に思いを致さずにはいられません。今この底なしの不義の時代を生きるわれわれにとって、この「われわれの罪」というパウロの言葉は、とりわけ重大な意味をもっていると思うからです。
十字架という人間の不義と罪との集積点で、人にそして神に見捨てられて息絶えたキリスト。そのキリストが復活させられた。しかしその復活された方は、われわれのために義を剥奪された者として、十字架の死を味わい尽くさねばならなかった。その方が甦らされた。その音信は、今われわれの時代のなかでその義を奪われ、見捨てられたすべての人々に神が義を与えるという約束の前触れとなっています。その約束の前触れには、キリストの十字架の死というあまりにも高価な担保が支払われています。そしてその担保の根底には、神のわれわれに対する愛が迸(ほとばし)っています。
そのことすべてと切り離しがたく結びついた復活の約束のもとで、われわれには、キリストの十字架と復活ゆえに望み得ること、望み続けることがゆるされていること、すなわち、自然に対する傲慢な支配・収奪・破壊から自然へのへりくだりと和解へ、暴虐のなかにあって憎悪ではなく和解へ、武装世界のなかにあって非武装世界という幻へ、収奪者が支配する世界から平等と分かち合いの世界へ、差別し差別される世界から交わりに生きる世界へ、そして不義なる世から義の世へ、キリストを復活せしめた力を身に一杯に受けて、落ち着いてしかしキリストの痛み苦しみの翳(かげ)深く射すなか、弛(たゆ)まずに望み、祈り、どんなに小さくとも行じ続けていくという、この世にあって途方もない希望の生き方がわれわれに打ち開かれているのだということを、今このとき、死と罪の力が荒れ狂うこの世界のなかで、心に刻みつけたいと思います。
キリストの復活とは、まさにそのような罪と死の世界に打ち勝った、神の途方もない御業の実現であり、罪ある人間すべてに、キリストにある望みの完成を目指して歩みつづけることを打ち開いた、途方もない恵みの出来事であるということを心の奥におぼえるとき、単なる挨拶言葉としてではなく、神と復活のキリスト、そのキリストから送られてくる聖霊に支え励まされて、「イースターおめでとう」という言葉を、自他に向かって、そして、この世界のなかで、この世界に向けて、心から畏れつつかつまた世にまたとない喜びをもって発していく朝をともに寿ぎたいと思います。




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