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復活についての問答

  • 1 日前
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2026年2月22日 主日礼拝説教 金山弥平



聖書  マタイによる福音書 第22章23~33節


その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。


 本日は復活について考えてみたいと思います。さきほど司会者にお読みいただきました「復活についての問答」の話それ自体は、復活というものが存在するかどうかの話ですが、読みようによっては、復活の時の再会のあり方の話でもあります。復活が我々にとって問題となるのは、我々が死ぬ定めにあるからです。2月24 日には、プーチンのウクライナ侵攻から4年になります。この戦争によって数多くの人が亡くなり、そして今でも亡くなり続けています。最近の米シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)の報告書によると、これまでの戦死者の数はロシアが27万5千~32万5千人、ウクライナが10万~14万人ということです。自分の死にせよ、他者の死にせよ、我々は死に直面した時、別れの寂しさと辛さを味わいます。そして親しい人とまた会うことができるか、それともこれが永遠の別れになるのかと考えます。また平気で人々を殺戮する者たちについては、彼らに死後の裁きはないのか、と考えます。「復活についての問答」は、表向きは復活が存在するかどうかの話ですが、しかし、それは、死による別れと再会の希望、あるいは死後の裁きの話とも読めるのです。


 「復活についての問答」は三つの共観福音書のいずれにも含まれ、「マタイによる福音書」22:23~33、「マルコによる福音書」12:18~27、「ルカによる福音書」20:27~40に記されています。基本は同じですが、少しずつ異なっているところがあります。例えば、「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」では、この問答に続いて「最も重要な掟」の話が記されています。すなわち、律法学者(ファリサイ派の律法学者)がイエスに「どの掟が最も重要ですか」と尋ね、イエスが、第一の掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい」であるとお答えになる話です。これに対して「ルカによる福音書」においては、この「最も重要な掟」の話は、もっと前に位置する10章の「善いサマリア人」の譬えの話の中に組み込まれています。また、「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」において「最も重要な掟の問答」の中に登場するファリサイ派の律法学者について、「ルカによる福音書」20:39 ではその反応がはっきりと示され、「律法学者の中には、『先生、立派なお答えです』と言う者もいた」と書かれています。

 サドカイ派とファリサイ派は敵対関係にありました。「使徒言行録」23:6~10によるとパウロは、ローマの千人隊長が招集した最高法院の裁判──すなわち、エルサレム神殿内に設置されたユダヤの司法行政の最高組織における裁判──に引っ張り出されて取り調べを受けた時、「わたしは生まれながらのファリサイ派です」と言っています。最高法院(サンヘドリン)は、祭司長を含めて全部で71人の議員からなりますが、その中では事あるごとにサドカイ派とファリサイ派の勢力争いが繰り広げられていました。「使徒言行録」23:6~10を読みます。


パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院/は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。


サドカイ派が復活も天使も霊も存在しないと主張するのに対して、ファリサイ派は復活と天使と霊のすべてを肯定していました。パウロは、その敵対関係を利用して窮地を切り抜けたのです。

 サドカイ派とファリサイ派はその両方が、パウロにとっても、イエスにとっても、そして洗礼者ヨハネにとっても敵でした。「マタイによる福音書」3:7によれば、洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言っています。また、同書16:6によれば、イエスもまた弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と警告しておられます。

 しかし、敵同士であるファリサイ派とサドカイ派の両方が共通の敵とみなしていたのがイエスでした。そこで彼らは結託してイエスを陥れようとして、まず初めにサドカイ派がイエスに「復活についての問答」をしかけます。しかし、その攻撃は失敗に終わります。

それを見たファリサイ派の律法学者は、一時的協力関係にはあるが基本的には敵であるサドカイ派の失策を喜び、イエスに向かって「先生、立派なお答えです」(ルカ20:39)と言ったのです。

 「使徒言行録」23:8でサドカイ派は霊の存在を否定したと言われています。彼らの心は霊的な世界よりはむしろ、肉の目に見える世界に向かっていました。彼らはユダヤという自国の将来を考える時にも、ファリサイ派のように律法の原理原則に考察を向けるよりはむしろ、ローマとの政治的な結びつきを重視していたと思われます。政治の世界では、クレオパトラとカエサルやアントニウスの恋愛関係の話、あるいは、ヘロディアが自分の夫フィリポの兄弟のヘロデ・アンティパスの妻となり、それを非難した洗礼者ヨハネの首を、娘のサロメを通してヘロデ・アンティパスに切り取らせた話に見られるように、男と女の関係が世界を動かすほどの影響を与えましたが、そうした事情とも関係してか、政治を含めた現実世界の問題に大きな関心を寄せたサドカイ派は、復活の有無について考察する際にも、後に示すような「申命記」の箇所──すなわち、「家名の存続」という枠組のもとに男と女の婚姻関係のあり方を示す箇所──を持ってきて論じています。

 また、「使徒言行録」23:8によれば、サドカイ派は天使の存在も否定したということですが、その理由も、おそらく天使には男女の違いはないという一般に認められていた考えに基づいていたのかもしれません。これに対してイエスは、もちろん天使の存在を信じ、その立場からサドカイ派に対して、「マタイによる福音書」22:30に記されているとおり、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われるのです。

 復活の否定ということで思い浮かぶのは、アテネのアレオパゴスでパウロが復活について語りはじめた時の居合わせた人々の反応です。すなわち、「使徒言行録」17:32によれば、パウロが死者の復活について語りはじめた時、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったということですが、ここにはサドカイ派と共通のものがあるように思われます。サドカイ派は、アレオパゴスでパウロに冷ややかな目を向けたギリシア人のように、自分たちは他の人たちよりも合理的に思考できると自負していたのでしょう。しかし、その視線の先にあるのは実際には現実の世界であり、彼らは、暗い洞窟の外の明るい霊的な世界にまで上っていくことはできませんでした。

 「復活についての問答」において、合理的な思考を自負するサドカイ派は、七人の兄弟の存在を想定し、七人が次々に死んでいくのに合わせて長男の妻が次々に弟の妻となるという一種の思考実験を行なっています。そしてこの前提のもとで、仮に復活があった場合には、夫に死なれた女性は全員の妻になるのか、と問いかけるのです。この議論に関しては、ドミノ倒し的な七兄弟の死と一女性の結婚という想定自体の不合理を指摘する人もいます。しかし、どんなに奇妙に思われるとしても、これはまったく起こりえない想定ではありません。それにまた、たとえ七人ではなく二人の兄弟であったとしても、サドカイ派の難問は成立します。このようなサドカイ派の議論について、我々はどのように考えたらよいのでしょうか。

 彼らが議論の根拠としているユダヤの法は、「家名の存続」として「申命記」25:5~6に次のように記されています。

兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。

ある女が兄の方に嫁ぎ、その兄は子供を残さずに亡くなったため、この掟に従って、彼女は弟と再婚したが、やがてこの弟も、また彼女自身も亡くなったとしましょう。そして死者の復活があり、その復活が身体を伴った復活で、この世界で送った生活の痕跡を引きずっているとすれば、この女は復活の後、兄と弟の両方を夫としてもつことになります。彼女の婚姻生活はどのようなものになるのでしょうか。


 復活については、「ダニエル書」12:2 で「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命(せいめい)に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と言われています。また、北白川教会では月に一度、最初の日曜日に「使徒信條」を唱えていますが、その最後に「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦(ゆる)し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず」と記されています。「使徒信條」を読む時、私は日頃、「身体のよみがえり」の意味を深く考えずに読んでいますが、ここで立ち止まって、この「身体のよみがえり」とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。

 サドカイ派は、仮に復活があって、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚め」て、「永遠の生命に入」るとすれば、その姿はどのようなものでありえたか、あるいは「永久に続く恥と憎悪の的となる」とすれば、その姿はどのようなものでありえたか、という問いを立ててみたのかもしれません。もしもサドカイ派がこの問いをファリサイ派に突きつけたとしたら、復活を認めるファリサイ派はどのように答えたのでしょうか。あるファリサイ派は、肉の身体がそのまま復活すると答えたかもしれません。「ヨハネによる福音書」11 章にはラザロの復活の記事があります。ラザロが亡くなった時、姉妹のマルタとマリアは非常に悲しみます。イエスはすぐには出かけることはせず二日間、同じ所に滞在し、到着した時には、ラザロが墓に葬られてからすでに四日もたっていました(11:17)。イエ

スが、「墓を塞いでいる石を取りのけなさい」と言われると、マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言います(11:39)。もしも肉の身体がそのまま復活したとすれば、その身体は腐臭を放つグロテスクなものでもありえたでしょう。

 イエスはサドカイ派に対して、「マタイによる福音書」22:29と「マルコによる福音書」12:24で、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われました。「ダニエル書」の「地の塵の中からの目覚め」を、腐敗しうる肉体がそのまま生き返ることと解し、そのイメージの異常さに訴えて復活を否定し、「ある者(例えば、神の

御心に適う者たち)が永遠の生命(せいめい)に入る」こともないし、また、「ある者(例えば、古今の残虐非道な権力者たち)が永久に続く恥と憎悪の的となる」こともないと、サドカイ派が主張するなら、それは完全な「思い違い」です。「使徒信條」が語る「身体(からだ)のよみがえり」とは、腐敗しうる身体のよみがえりではなく、霊的なよみがえり

であり、その核心は「永遠(とこしえ)の生命(いのち)への移行」にあるのです。

 イエスが、復活を否定するサドカイ派に対して「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われる時(マタイ22:29、マルコ12:24)、「聖書」とは具体的には、先に示した「ダニエル書」12:2を指しています。そして、「神の力」とは、神

の御心に適う者たちに「永遠の生命」(ダニエル 12:2)を得させる力でありますが、「永遠の生命」とは何なのでしょうか。その一つの現われは、「天使のようになる」(マタイ22:30、マルコ12:25)ことでしょう。しかし、「天使のようになる」とはどういうことなのでしょうか。さきほど、天使には男と女の区別はないと言いました。そうすると、復活

した人たちの永遠の世界では、男女の区別はないことになります。ではその時、この世で結んでいた夫婦関係もなくなり、両親と息子・娘の関係も、また兄弟姉妹の関係もなくなるのでしょうか。

 そうは思われません。なぜなら、男女の区別がなくなるからと言って、人間同士の繋がりがなくなるわけではないからです。現代の生物学や遺伝学によって、男女の区別は生物学的に確定された二分的区別ではないことが明らかになりつつある今日でも、一部の人は男女の区別を最重要視し、誰かが男であるか、それとも女であるかによって、国の重要な政策をも決定しようとします。しかし、聖書の立場は、それよりも各人が他者との関わりの中でどう生きるかに重きを置きます。「マタイによる福音書」22:30~32と「マルコによる福音書」12:25~27 では、イエスは「天使のようになる」という言葉に続けて、「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。「出エジプト記」3:6によれば、神は、神の山ホレブで羊を飼っていたモーセに燃える柴の中から声をかけ、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と宣言されました。モーセにとっては、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、過去の人、もう生きてはいない人でした。しかし、「マタイによる福音書」22:32によると、神の目からすれば、彼らは「死んだ者……ではなく、生きている者……なの」です。

 永遠とは何なのか。永遠の世界とは何なのか。例えば、「三角形の内角の和は二直角である」は、ユークリッド幾何学の世界では「永遠の真理」です。この場合の三角形は、三角形一般であって、私たちが描く個別の三角形ではありません。そのように、神の永遠の世界で「生きている者」は、人間一般であって、身体と関わるような個別性はもたず、それゆえ固有名ももっていないと考えようとする人たちもいるかもしれません。しかし、永遠の世界で生きているアブラハム、イサク、ヤコブは、明らかに固有名をもっています。またそれゆえ、この世での生き方と経験の結果として、固有の人格をもっていると考えられます。彼らは、そのような者として、神のもとで永遠の生命を得ているのです。

 ところで、「マタイによる福音書」(22:23~33)、「マルコによる福音書」(12:18~27)、「ルカによる福音書」(20:27~40)の「復活についての問答」はすべて、イエスが、エルサレムに入城された(マタイ21:1~11、マルコ11:1~11、ルカ19:28~44)のちに行なったとされる問答です。すなわち、それらは、十字架上の死と復活に至るイエスの歩みの中で行なわれた問答であり、イエスご自身の復活と明らかに関係があります。それでは、イエス自身は復活した時、どのような姿を示されたのでしょうか。「コリントの信徒への手紙一」15:3~6でパウロは次のように記しています。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

パウロはここで、イエスがそれぞれの人に現われたその具体的な現われ方については、何も語っていません。福音書で、復活のイエスが誰にどのような姿で現われたのかをはっきりと記しているのは「ヨハネによる福音書」のみです。イエスがマリアに現われた時、マリアは最初はイエスだとは気づきませんでした。「ヨハネによる福音書」20:13~16では次のように記されています。


天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。


マリアは、「マリア」というイエスからの呼びかけの声によってはじめてイエスであることに気づきました。「ルカによる福音書」24:30~32で、エマオへ向かう二人の弟子にイエスが現われた話では次のように記されています。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

復活のイエスがパウロに現われた時にも、パウロはイエスの姿を見ることによってイエスと気づいたわけではありません。「使徒言行録」9:4によれば、彼は、彼の本名「サウル」を用いて呼びかけるイエスの声「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」を通してイエスに出会ったのです。

「声」というのは不思議なものです。私の母は現在、島根県松江市の高齢者向け住宅で暮らしていますが、昨年7月19日に訪ねた時、いろいろと衰えが出てきていて、私が誰なのか、分からないようでもあり、また会話の内容も分かっていなかったかもしれませんが、私の声の響きを通して、何かとても懐かしく大切な人だと感じたようであり、嬉しそうな顔をして涙を流していました。私たちの容姿は変化していきます。それゆえ、目に見

える私の姿を見るかぎりにおいては、母にとって私は、私の父のようでもあり、私の息子のようでもあり、そして私のようでもあり、混乱するしかなかったのでしょう。しかし、もって生まれた声の質はあまり変わりません。声は息であり、息は霊です。イエスの弟子たちも、パウロも、イエスの霊を通して復活のイエスを知ったのです。私の母も、私の声や息づかい、すなわち、霊を通して、私が非常に懐かしい存在であると感じたのだと思います。(また一言付け加えますと、この説教の後、今年の4月29日に母を訪ねましたが、その時には私を私として認識し、私と妻の名を呼び、喜んでくれていました。)

 「復活」に関して難問を仕掛ける時、サドカイ派が考慮の外に置いているけれども非常に重要なことがあります。それは人間の感情です。「四苦八苦」というのは、私たちになじみの熟語ですが、そのうちの四苦は、生老病死(しょうろうびょうし)、すなわち、生まれて生きていくこと、老いていくこと、病いにかかること、死んでいくことの四つの苦しみであり、それに四つの苦しみ、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)が加わって八苦になります。「復活についての問答」で持ち出される夫婦の関係、あるいはより広く、男女の関係に関わってくるのは、とくに愛別離苦と怨憎会苦です。しかし、これらを男女の関係に限る必要はありません。

人間関係全般について、愛別離苦、すなわち愛する者との別れの苦しみは、我々に、復活による再会を希望させますし、また怨憎会苦、すなわち怨みや憎しみの関係にある者との出会いの苦しみは、我々に再会を避けたいと思わせます。「復活についての問答」の中の七人の兄弟と一人の女の間にあったのも、死んだラザロとマリア、マルタ、またイエスと弟子の間にあったのも、愛別離苦でした。しかし、現代のニュースは、夫婦や非常に親しいと思われる者たちの間において、怨憎会苦の苦しみも愛別離苦に劣らず人間を支配していることを如実に示しています。そこにはまた、「復活についての問答」の夫婦たちが子供を望み求めても得られなかったように、求不得苦の苦しみも関わってきますし、夫婦が家庭を築いて生きていくうえで、彼らは必ずや、彼ら自身の間、また彼ら以外の者たちとの関係において、五蘊(身体、感受性、イメージ、意思、認識)がさまざまの苦しみに満ちていること(五蘊盛苦)に気づかされることになります。

 なぜ「復活」が重要になってくるのか。それは、自分が永遠の命を得たいからではありません。独裁者的な政治家の中には永遠の命を得たいと思っている者もいますが、彼らが望むのは、「復活」ではなく、「死ぬことなく永遠に生き続ける」という人間にとっては不可能なこと、仮にありえたとしても確実に不幸につながることです。これに対して、「復

活」は、イエスを信じる者たちに確実に約束されていること、そして、確実に幸福につながることです。「復活」の望みは、再会の望みです。怨憎会苦の相手についても、神と聖霊の力による復活においては、出会いの苦痛は和解の喜びに変えられるはずです。なぜなら、「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」においては、「復活についての問答」が行なわれたのと同じ議論の場で、この問答に続いて「最も重要な掟」が語られ(マタイ22:34~40、マルコ12:28~34)、これによってサドカイ派とファリサイ派の両方に対するイエスの論戦が完結していますが、こうした構成が象徴的に示しているように、「復活」は、第一の掟「神である主を愛すること」、第二の掟「隣人を自分のように愛すること」があって初めて完成することだと考えられるからです。

 二つの掟は、愛の関係については、自分が愛する者が愛する神を愛して生きる歩み、また、自分の最も近き隣人である愛する者を愛して生きる歩みを、愛する者とともに続けていくように我々に命じます。それに従って生きる時、愛別離苦の中でも、必ずや復活と再会の希望をもつことができるでしょう。復活の永遠の生命において、妻と夫、兄弟姉妹、親と子はそれぞれ声をもった人格として、たがいの名を呼び合うことができるでしょう。

 また敵対的な関係にある者に関しては、神への愛においてその者に劣ることのないように、また、たとえ相手が敵とされる人であっても自らその人の隣人になって生きるように命じます(「善いサマリヤ人」の譬えを参照)。その命令に従って生きる時、その者が、義なる神が滅ぼしてしまわざるをえないと決断される極悪人でないかぎり、我々はいつかは、彼らと名前を呼び合う人格的関係を得て、ともに霊による交わりの生に入ることができるでしょう。

 ここに復活の喜びがあります。それを望み、天のふるさとを仰ぎ臨みながら、この世での歩みを続けていきたいと願います。


 
 
 

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