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わたしの魂は主をあがめ

  • admin_ksk
  • 1月2日
  • 読了時間: 13分

2025年11月30日主日礼拝説教 片柳榮一



聖書ルカによる福音書第1 章46~56 節


マリアの賛歌

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も

わたしを幸いな者と言うでしょう、

力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、

その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。


 今日から教会暦ではアドヴェント、待降節に入ります。そして教会暦では、この時を

持って新しい年のはじめとするということです。私達日本人には、この11月終わりのア

ドヴェントが年の始まりだと言われても、ピンとこないというのが通常の感覚だと思いま

す。これから師走の慌ただしい月を迎えようとするこの時は、お正月気分ではないという

のが正直な気持ちではないかと思います。私もそのようにこれまで感じてきましたが、今

年は、私たちの周りを取り巻く情勢のあまりの異常さに、これまでの当たり前の自然さと

いうものに、信を置くということへの警戒が強くなり、11月の終わりのアドヴェントを、

年の始めとするという、私達からは不自然な要求にも、それほど抵抗を感じない自分を見

出しています。それだけ状況全体への警戒感が強くなっているのかもしれません。そのよ

うな意味で、私たちの太陽暦という自然の回転の中からつくりだされた「日常的秩序」に

抗って、暗がりの中で、まさに見えざる中で歩み出すという意味で、アドヴェントを、年

の始めとして迎えることは、今に相応しいことなのかと、ふと思います。

 それはともかく、今日はあらためてルカによる福音書の「マリアの賛歌」を取り上げてみたいと思います。この賛歌は、まさに待降節にふさわしい場面と内容をもっています。

受胎告知を告げられ、親戚のエリサベトを尋ね、エリサベトから


「あなたは女の中で祝福された方です。」 (ルカ1章42節)


との喜びの言葉を受け取った後に、語られたものとされています。


「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」 (ルカ1章47節)


あらためて思いますのは、これは私、あるいは私たちという一人称で、神に向かって言葉

を発する祈りではなく、「私の魂、私の霊」という三人称を用いて、いわば客観的に、一つ

の事実を述べる中で、神を称えるという「賛歌」だということです。私の魂に関わる事実

の前に、私は立たされ、それを見つめ語るように促されているのです。まさに告白です。

「主をあがめ」と言われている「あがめる」とは大いなるものとするということです。つ

まり主なる神を、大いなる者として讃えることです。そしてそれは同時に、これを語り、

歌う者が、自分の存在の小ささを認め、あるいは自分が粉々にされ、自分を低いものとし

て認め、膝まづき、額づくことが伴うことです。それはこれを語る者が、畏れと慄きを以

てなす行為だと言えます。何気ないようですが、この言葉でこの賛歌が始まっていること

は、こうした言葉に全体を貫く意味がこめられ、この感情が全体を支配していることに、

やがて気づかされます。


「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」


喜び讃えるという言葉は、例えばマタイ5 章12 節


「喜びなさい、大いに喜びなさい」


という場合の、大いに喜ぶと同じ言葉です。主を崇める私の魂は、基本的に慄きつつ砕か

れて神の前に立つと言われました。それに対してここでは、わたしの霊は大いに喜ぶと言

われています。霊と魂の違いという難しい問いがありますが、ここで霊が大いに喜ぶと言

われていることに注意しておきたいと思います。そして単に畏れを抱いて主をあがめる、

というだけでなく、この大いに喜ぶということを可能にしているのは、自分が畏れ崇める

主が、自らの救い主であるという深い信頼と理解からきているのでしょう。

 そして主が「救い主」であるということの意味が語られます。つまり霊の喜びの理由が

語られます。


「身分の低い、この主のはしためにも

    目を留めて下さったからです。」 (48 節)


前の協会訳では単に「この卑しい女をさえ心にかけてくださいました」となっていまし

たが、今度の新共同訳では、「身分の低いこのはしため」となっています。新共同訳でど

うも気になるのは、たしかに「卑しい」ということが出てくるのは、身分制に基づく差別

からなのでしょうが、身分を一応問わないように定められた今の時代に、なお「身分の低

い」というような言い方を敢えて用いていることです。しかしそれは一言触れるだけに留

めます。


「この主のはしためにも目を留めてくださいました。」 


ギリシア文化が支配した当時の地中海世界の代表的な思想家たちが抱いた宗教観の根底に

は、確かにこの世界は、聖なるもので満ちているが、その聖なる神は天の高みに位し、こ

の遠い地の底には目を留めてはくださらないとの静かな諦めともいえる考えが一般的だっ

たようですが、このマリアの賛歌は、そのような宗教観とは異なります。そのように天の

高みに座し、地の底の塵のごとき、私たちには無関心だというのでなく、私たちの主は、

そのように高みに聖なるものとして座しながら、なお私たちを心に留め、私たちに迫りく

る圧迫と、重くのしかかる自らの咎から、憐れみをもって救い出して下さる方だとマリア

は知っています。わたしの霊は、それだからこそ、心の底から大いに喜ぶのだと語り、ま

さにそのような地の最も底にいるはしためにも目を留めて下さっていることを、感謝し、

心の底からの喜びの賛美をなしているのです。


「今から後、いつの世の人も

わたしを幸いな者と言うでしょう。」 (48 節)


 この私の賛美と信仰告白は単に自分だけの独りよがりの思い込み、自己陶酔ではなく、

私を囲む世の人々、しかもこの今の時代を越えて世々の人々が、私を幸いなる人と讃える

であろうといいます。この告白賛美をするマリアは、自分だけの世界に浸っているのでは

なく、自分がその中に生き、自分を具体的に支え、要求を時に突きつける場、そのように

開かれた公の場に出ています。しかも現在だけでなく、「今から後、いつの世の人も」と

いう開けの内に立って、賛美の声をあげています。


「力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。」 (49 節)


この偉大なことは、すでに起こったこととして語られていますが、神の独り子の宿り、それは隠されています。人々の誰の目にも明らかな事実としては顕れていないのです。それだけではなく、このマリア自身にとっても隠された事柄であり、みずからの疑いの心を乗り越えて信へと乗り出すべきことです。


「その御名は尊く」 (49 節)


「尊く」と訳された言葉は、「聖である」という言葉です。「主の祈り」の最初の「御名をあがめさせたまえ」の崇めるは、直訳すると、今の箇所の「聖なる」と同じ語源の「御名が聖なるものとされますように」です。汚れた人間の近寄りがたい隔たり、高さを保つ方の隔たりです。そのように人間とは限りない隔たりを持って立たれる方がなお、先にも触れましたように、塵の如き者を「心にかけてくださる」というのです。


「その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。」 (50 節)


この主を畏れる者、というのは単数でなく、複数で述べられています。マリアを心に留めて下さった方は、マリアだけでなく、「主を畏れる者たち」に、しかも時を同じくしないが、このマリアを覚える人々にも及ぶと言われます。つまり今マリアを覚える私たちにも

及ぶというのです。マリアと同じように主を畏れ、崇め、大いに喜ぶ私たちにもです。

 このことと関連して、思い出すことがあります。前にも一度話したことがありますが、もう50 年も前になります。大学院を終えて、ドイツに留学した時のことです。ドイツ南部バイエルン州のエルランゲン大学で学ぶ機会がありました。この町は、フランスのプロテスタント、ユグノーが迫害を逃れて多く住んでいたということで、バイエルン州全体は、カトリックが支配していましたが、この町だけはプロテスタントが多数派で、この町に汽車で着くと、駅の前の広場はプロテスタントを表す「ユグノー」という語にちなんで「ユグノー広場」と名付けられており、大きなカルヴァン派の教会がでんと構えています。

大学の神学部もプロテスタントの神学部でした。いわばカトリックという大海のなかに浮かぶ孤島のようにプロテスタントが守った町でした。ですからドイツ各州からプロテスタントの、殊にルターの神学を学ぼうと学生が集まる神学部は別にして、ここに通う大学生のほとんどが、地元の農村地帯のカトリックの家庭で育った人たちでした。わたしは学生寮に住んでいましたが、そういうわけで自分の知っている学生の殆どはカトリックの人々でした。その中の熱心なカトリックの知り合いに誘われて、カトリックの信徒を中心とした、信仰修養団体の、2 泊3 日ほどの修養会に出席したことがあります。この団体は、東欧の修道女、たしかキアラという人が創立したそうで、その団体の名が、マリアポリス、つまり「マリアの街」というものでした。そこに集う人々は、マリアの心をもった住人だということになります。日本のお寺の檀家の熱心な信徒のように、素朴で、まさに謙遜な心をもった人々の集まりでした。聖母マリアへの伝統的な、宗教心を基礎にしているのでしょうが、神の子の母として特別視し、奇跡を待ち望むというような聖母マリア崇拝ではなく、まさにこの賛歌にもうたわれている「主のはしため」としての砕かれた心をもった人としてのマリアを、神の前に立つ人間の代表として捉えようとする運動です。現代人としてカトリック信仰を真剣に生きようとする姿勢には学ぶべきものが多くありました。

 話を戻します。


「主はその腕で力を振るい」 (51 節)


これはいかにもヘブライの宗教伝統に基づく、いわば人間的表現です。神が腕をもって力を振るうというのは、現代の私たちだけでなく、すでに古代地中海のギリシア文化の洗礼を受けた人々にとって躓きだったはずですが、旧約聖書では親しい表現です。イスラエル宗教の出発点とも言える出エジプト、荒野でのさまよいをへて約束の地カナンへ侵入したときの奇跡的な出来事を、出エジプト記は記して歌います。


そのときエドムの首長はおののき

モアブの力ある者たちはわななきにとらえられ

カナンの住民はすべて気を失った。

恐怖とおののきが彼らを襲い

御腕の力の前に石のように黙した。 

(出エジプト15 章15~16 節)


ここではもっぱら人々を圧倒し恐怖をおこさせるいわば暴力的とも言える力が、御腕の力として語られていますが、次の第二イザヤではこれと異なります。


わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ

わたしの腕は諸国をさばく。 (イザヤ書51章5節)


このイザヤ書の表現は注目されます。神の御腕の力は、単に強力なだけでなく、正義と救

いと裁きの現れだというのです。


「思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ」 (51~52 節)


ここでは主の御腕の業の力と、人間の内の「思い上がる者」「権力ある者」の力が対照的に示されています。主の御腕の業が、正義と救いと裁きの力であるのに対し、思い上がり、権力を振るう人間は、神の正義の裁きの前で、「打ち散」らされ、「その座から引き降ろ」されるといわれます。時間の今だけしか見ない者には、この思いあがった権力者の強大な力のみが圧倒的であり、すべてであるように見えますが、主をのみ崇め、大いに喜ぶへりくだったマリア、そしてその信仰に倣おうとする者には、そのような驕り高ぶった力は、張り子の虎でしかないことを見据えています。現在の世界は、強大な力が大手を振るい、軍事力をもって、力なき人々を蹴散らし、死の暗闇に追いやっています。そのような現代の世界に生きる者への語り掛けとして、五一節からの言葉は、いまこそ心に留めたいとひときわ思います。

 マリアの賛歌を貫く基調は、「主のはしためにも目を留めてくださった」というそのへりくだりの心にあります。砕かれた心とも言えます。その砕けにおいて、霊の大いなる喜びを与えられ、この世でおごり高ぶる者がやがて打ち散らされ、引きずりおろされることを洞察し、静かに耐え忍んで待つのです。しかしこの静謐な喜びは、また大きな代償によって得られたこともよく知り、覚悟の備えをしなければならないことも明らかです。そのことを示唆する箇所があります。幼子イエスが神殿で捧げの儀式を受けた時、傍らにいた老人シメオンが語るルカ福音書の預言です。シメオンは母親マリアに、次のように語ります。


「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対をうけるしるしとして定められています。──あなた自身も剣で心を刺し貫かれます──多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 (ルカ2 章34~35 節)


 この幼子は成人して、人々の中に大きなうねりを引き起こすと言います。人々はそれによって倒れ、また立ち上がるようになり、同時に大きな反対を受けると言います。反対を受けるという言い方には不吉な死の蔭さえうかがえます。そしてマリア自身の心が剣で貫かれる、そのような苦痛と悲しみを味わうと言います。そこにも死の蔭が浮かびます。神がマリアの上に為した「偉大なこと」は、マリアを幸いな人として、代々の人々がほめたたえることですが、マリア自身の心は剣で切り裂かれるような悲しみを味わうというのです。彼女が受胎告知のこの賛歌において、どれほどその覚悟があったかは知られ得ませんが、このへりくだった、砕かれた心は、この悲しみをも受けとめうる静けさを備えているように思えます。

 そのことと関連して、先ほども述べたように旧約でよく使われる「御腕の業」という表現の一つの特異な箇所について触れておきたいと思います。れは「苦難の僕」について語り出すイザヤ書53章1~2節です。


わたしたちの聞いたことを誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。


新約聖書の福音書は、主イエスの活動と十字架の死のうちに、この苦難の僕を読み取りました。この「軽蔑され、人々に見捨てられた人」のうちに神の「御腕の力」を見たのでした。「誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」との第二イザヤの問いかけに応じるかのように、原始教会の人々は、暗がりのうちで信じたのでした。マリアの賛歌を、マリアと共に歌う者は、主のなさる「偉大なこと」「御腕の業」を、人々から隠され、人々から見捨てられた方のうちに認め、そのことにおいて「主をあがめ· · · · · ·神を喜び讃える」ことができたのでした。マリアの賛歌を覚え、共にマリアの賛歌を生きようとする私達も、この私達の暗がりの中で、誰が信じ得ようかとの問いかけに、応えてアドヴェントのこの時を歩みたいと思います。

 
 
 

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