人里離れた所に出て行き
- admin_ksk
- 10月2日
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2025年8月3日 主日礼拝説教 片柳 榮一
聖書 マルコによる福音書 第 1 章 35~39 節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イ エスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのために わたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
今年も8月を迎えました。今年は戦後80年の年であり、あらためてあの敗戦とその後の日本の歩みを振り返る時を迎えています。今世界中に新たなナショナリズムの動きが広がり、日本でも先の参議院選挙でも示されたように、日本人ファーストを叫ぶ不気味とも言える右寄りの動きが勢いを得ている感がします。この動きは戦後80年の日本の歩み全体に疑問符を投げ、否定しようとしています。そのような中で、自らも問われていることを覚えつつ、心を静めて神の御前に立つ礼拝をなしてゆきたいと思います。
今日は敗戦に至る日本の歩みの中で、大陸蒙古伝道に殉じた澤崎堅造の歩みを覚えたく思います。私達北白川教会の創立委員でもあった澤崎は、1942(昭和17)年、中国の万里の長城の北側、熱河省に渡り、さらに北に進み、荒涼たる内蒙古の伝道に献身し、敗戦まぢかソ連参戦の混乱の中で、消息を絶ち、侵攻してきたソ連軍によって殺害されたことが 後に明らかとなりました。澤崎堅造のことを御存じない方もおられるかと思いますので、簡単な略歴を述べておきます。
澤崎堅造は1907年東京に生まれました。教育のため福井市の伯父の下で、尋常小、旧制中学校に通いました。1925年東京外国語学校(英語部貿易科)入学。翌1926年フレンド派の礼拝に出席、受洗。1927年京都大学経済学部に入学します。そして京都共助会の交わりに加わり、1930年京大を卒業します。そして東京市役所統計課に就職します。1934年東京市役所を辞し、京大大学院に戻り、北白川教会創立委員の一人となります。1935年、今西良子と結婚。1940年京大の支那慣行調査会から中国視察旅行に派遣されます。そして熱河の承徳に福井二郎師を訪ねます。1941年京大人文研、助手。1942 年助手を辞め、 嘱託となり、単身大陸伝道に向かいます。家族(夫人、長男望さん)は同年秋、後を追います。1943年赤峰から林西に、さらに奥地の大板上に移る。1944年6月次男新さん死亡。1945年8月3日退去命令により、家族、大板上を去る。後に残った堅造は、参戦したソ連軍により、殺害されました。
澤崎を蒙古伝道に駆り立てていたものが何であったかを窺わせる文章があります。それ をまず紹介したいと思います(以下における澤崎の記事からの引用のうち、記事のタイトルとページが記されているものは全て『新の墓にて』(未来社、1967年)からです)。
私も亦私ながらに主の後を随いて往きたい、主の路を歩んで往きたいと心から願った。それは何時頃から特に強く私の心に起こったのであろう。確かとはわからない1が、先年中国旅行に出たとき、その途次熱河にいられる福井先生を訪ねた。そして共に毎朝早く山に祈りに往った。山に於いて確かに一種の霊感を受けた。再び此処へ祈りのために来るべきであると感じた。私の旅行はそれから蒙彊、北支、中支と続いたが、常にイエスの御姿を追いたい気持ちで一杯であった。私の友が、漢口陥落の日に、それを知らないで大別山の山奥で戦死した。その友は大学の最終学年にあった。卒業後は伝道に身を献げる積りであった。それが御召を受け勇躍戦線に向かったのであるが、彼の日夜の祈りは、東亜永遠の平和のためにと云うのであったであろう。それを聞く由もないが、私はこの友の名誉の戦死を聞いて、実際愕然とし、悄然としたのである。彼の志を継がねばならないと、私は心に期したのであった。それは私をして中支の旅行に駆り立てたのであった。私は何か、死ぬ程満足した働き場を得たいとも感じた。併しそうした思いは、一切かかって主の道を懸命に追い往くことであると覚ったのである。
それから後は、ただ主の路を尋ね求めることに務めた。イエスは今東亜の一角を歩みつつあり給うと云うことは明らかである。イエスの路は、苦しんでいる淋しい人々へと向うのである。死の蔭の谷を往くのである。多くの人に顧みられない捨てられたような処にこそ、主は進み給うのである。かくて私は主の路を何処に求めようとしたのであるか。初め大陸と思ったが、また南洋とも思った。併し南洋は何か物が豊かな感じがする。住民は貧しいとしても、兎も角ものが豊富だと云う感じがする。これに対して北の方はどうであるか。まず寒い。寒いと云うは不毛を意味し、多くのものを逆に費消しなければならないところである。私は躊躇なく、南を捨て て北の方を見ることにした。北と云っても満州を見るより外はないが、その中でも人の心の最も苦悩なる地を求めた。長い歴史の変遷を見ても如何に多くの民族が混交し葛藤し幾つかの国家が興亡した西南国境方面に特に眼を向けざるを得ない。熱河は今は満州国の中にあるが、昔は東蒙古と称され、特殊な風土を持った土地である。(「曠野へ」176~177 頁)
死と真向かうことを迫られた戦時下の緊迫した精神状況の中にあり、そして親友を失うという衝撃もあったでしょうが、澤崎を荒涼たる蒙古の地へ駆り立てていた根本にある求めは、「私ながらに主の後を随いて往きたい、主の路を歩んで往きたい」という願いであったことが知られます。「イエスの路は、苦しんでいる淋しい人々へと向うのである。死の蔭の谷を往くのである。多くの人に顧みられない捨てられたような処にこそ、主は進み給うのである」と澤崎は呻くように述べています。「主の後を随いて往きたい」という澤崎の願いは、具体的には「苦しんでいる人、淋しい人々へ向かう」ということであることが次第に明らかになってきます。彼の目は、大陸、或いは南洋へと向けられています。しかし南洋は、人々が貧しいとしても、ものが豊かであるということから、除外され、大陸、しかも北が目指されます。北はまず寒い、そして寒いということは、即不毛ということを意味します。そのことから満州、そして蒙古に目が向けられます。澤崎にとって主イエスは、単に客観的真理として、神の子であったという教義に尽きるものではありません。澤崎にとって主は今も生きていたもう方です。それならその主は今、何処を目指して歩みたもうか、自分はその主を何処に見出し、その主に従うかを、ひたすら尋ねたのでした。
澤崎のこのような求めを読む者は、その凄まじいまでの決意に圧倒されますが、そのように一筋の道が明らかに彼に示されて行くには、「迷いに迷いを重ねて」と彼が記す、血の滲むような手探りがありました。それを垣間見せてくれる文章を紹介しておきます。澤崎の心が定まって行くのは、1940(昭和15)年に為された中国旅行においてです。彼は記します。
熱河は、かくて色々な条件を備えられた処である。寒冷な自然、· · · · · · 複雑な民族、苦悩多き生活等は国境の土地として一層この感を深くする。私は料(はか)らずも此の土地に福井先生を見出して、尤もだと肯くことが出来たのである。此処こそ、主が最も愛して歩み往き給う処であるに違いないと思った。長い間迷いに迷い尋ねに尋ねた挙句、私は主の路を一途に熱河に思い定めた。そして先ず福井先生の下に往きたいと願った。そこで主の路を見出そうとした。曠野を往くイエスの姿をかく先ず熱河に見定めた。 (「曠野へ」177~178 頁)
「違いないと思った」「一途に思い定めた」「見出そうとした」といった表現からも推し量られるように、手探りの思いで、推し量り、自らに説得し、或る意味で賭けをなすように身を乗り出し、冒険に踏み出していることが窺われます。
淋しき貧しき人の友でありたいとの澤崎の願いは、彼がまだ東京市役所に務めていた頃の文章にも窺えます。澤崎は23 歳から東京市役所統計課に在職しますが、彼は、市役所が1931(昭和6)年3 月に実際に調査した2 万人の職業婦人の家庭環境・勤務関係などに渡って調査したものを入手し、それを紹介、分析した後、次のように記しています。これは『共助』誌第6 号(1933 年、昭和8 年8 月)に「職業婦人の宗教心」と題して掲載されたもののまとめの部分です。
特に『基督教信仰』を持つものについて述べます。その総数が多いせいもありますが、百貨店の店員の中には基督者が仲々多くいるものだといふ感じを持ちました。そしてその多くは比較的に教養が高いと云ふことでした。基督教といふものが教養ある社会に多くして、この調査の範囲を以て見ても未だ広く社会一般には行きわたっているものではないといふことを感じました。ただ併し、二三の貧しい職業にあって尚信仰に生きる姉妹のあることを知って何とも云へぬ力強さを覚えると同時に主のみ恵のいや豊かならんことを祈るものがありました。その一は牛込神楽坂のある活動写真館の案内人でした。その家庭は貧しい大工職で、而も失業状態にあるので、家計の手助けにもと務めに出ているとのこと。勤務時間が非常に長くて平均一日十時間以上だといふ。しかも暗い館内のことゝて、また空気も悪いところとて、随分云ふに云はれぬつらいものがあるらしく、紙面にも現れていました。而も宗教の欄には明瞭に「基督教」とあり、休日利用法としては「教会へ」と書いてあるのを見て、私は何かなし目頭が熱くなるのを覚えるのでした。も一つは女工さんでした。
それも明瞭に「キリスト教」と書いてあったのを覚えています。その家は左官屋です。学校は小学校だけ。仕事は早稲田辺(あたり)のある万年筆工場で、ペン先けずりの様な仕事をするらしいのです。大変こまかい仕事で、甚だしく目を使ふらしいのです。労働時間が長いことを訴へてありました。また周囲の者や上の者の無理解が苦しいらしく見えました。· · · · · · 私達は帝都の産業界の中に、かうした無理解と云ひ知れぬ困難と戦ひつゝ働いている婦人の群の中に、その数は少ないけれども処々に基督教信者が散在しているのだといふことを、確(しっか)りと頭に入れて置かなければならないと思います。
北の、貧しい淋しき処に踏み出し行く澤崎を駆り立てているものを、澤崎は次のようにも記します。
曠野へあこがれる心、それは何か人の心の奥底にいつもあるものの様に思われる。砂漠の荒漠たる平原を見渡すと、それが写真や画であっても、我らの心に、何か云い知れない遠いものへの思慕の心を呼び起こさないではいられない。郷愁と云うものに近い心かも知れない。心の古里を思う心だ。どうして曠野がこうした心を呼び起こすのだろうか。 (「曠野へ」168 頁)
曠野とは如何なる処か。私の興味は次第にここに集中してきた。調べてみると、曠野とは原来「語る」と云う動詞から出ている。声の有る処という意味になろうか。それは如何なることか。曠野とは人無き声なき処であると誰もが考えるであろうのに。私は不思議に思ったので、更に調べ考えて見た。私が朝早く独り遠く曠野に出るのは、全く人里離れた静かな処が欲しいからである。静かに祈り独り聖書に親しみたいからである。然るに声のある処と云うのはどう云う意味であろう。私はやがてその意味がわかった。それは神語る処神の声の有るところと云う意味である。神の声である。 (「曠野へ」171~172 頁)
曠野は、澤崎にとって、人なきところですが、同時にそこでこそ、神に出会い、神の声を聞くところなのです。そして先ほど司会者に読んでいただいた聖書の箇所にもみられるように、澤崎は、主イエスが、繰り返し、人里離れた曠野へ出て、祈ったということに大きな意味を見出します。主イエスにとっては、そこで神と親しく語る場でありますが、澤崎にとって、そして私達にとっても、「曠野」は、神にして人なるイエスに出会い、イエスに親しく交わる処であることが次第に明らかになります。それゆえに、澤崎は自らの「曠野」を主イエスに出会う場として、必死に求めたのです。もう一つ澤崎の文章を紹介します。
兎に角、イエスが祈りに屡々(しばしば)退いたところは、何か人影の全く絶えた淋
しい凄い恐ろしい処だったと思う。陰惨な谷または山の陰であったと思う。私はイエスをこうした処に見出すのである。そうした処は荒野である。悪魔の跳梁(ちょうりょう)しそうな処は、却って聖霊の最も豊かに働くところである。神はこうした処に帰ってその声を聞こえしめるのである。(「曠野へ」175 頁)
そして澤崎にとって曠野こそ、主イエスが私達罪人に先立ち、我々を背負って往かれる処とさえ感じられています。感銘深い文章を引用します。
基督はいつも淋しき人の友である、淋しい処へ往き給う。基督の路は、だから此の様な淋しい処に在る路である。城外の灰捨所のある辺りに下り往く路である。基督に負われ、基督と共に往かざるを得ない光栄と苦しみとを同時に心に感ずる私達は、今もこの路を歩まねばならない。
私は基督の路をまず東蒙古(熱河)に求めた。そして先ず承徳に来た。そして山の祈りに基督の姿をあざやかに見た。併し主はやがてその路を北にとって歩み出し給うた。そこで私もまた懐かしい山また山の南熱河を去って、平原の展(ひら)く北熱河の中心赤峰に往った。基督はなお続いて往き給うとしたが、私達は「強いて止め」(ルカ24:29)たのである。主は暫く留まり給うたが、またまた北進の一途を続け給う。私もその後を追った。かくて主は興安嶺近くに留まり給う。そこには淋しき人々の群が待っている。自然の酷烈もさることながら、世の人の鞭に苦しめられた処でもある。併し人の心は却って主の恵みを渇望している。貧しき人、心の清き者、義を求めるに熱心な者達、基督の言葉に耳を傾けているのである。(「曠野へ」183 頁)
澤崎は仏教との相違を、蒙古の村人との対話において、いわば素朴に述べた文章があります。
基督教が仏教と異なる大きな点は、救いの方法であると私は云った。仏教の仏は船の上に座して、罪の海に浮きつ沈みつしている人々を、手を伸ばして救い上げるのである。しかし基督は、自らの衣を脱いで、船から海中に飛び込んで、底まで潜って、そして沈める罪人の脚を以て押し上げ支え給うのである。これが十字架の救いであると語った。 (「巴林伝道記265 頁)
澤崎にとってイエスは我々に先立って、我々の苦悩と悲惨の唯中に降りてきて、その底べに立ち給うのです。「罪人の脚を押し上げ、支え給う」のです。この基督に背負われて、私達自身は進むのであると言います。
澤崎は、福音を自らの国以外へ伝えようとする者の使命と定めをよく心得ていました。彼は次のように記しています。
もっと簡単にいいますならば、私達は大陸の教会の中に祈りつつ消えて行くものです。この地に、よき信徒がよき伝道者が現れるよう、私達は祈りと奉仕を続けるものです。こうした願いが祈りが、単に熱河に限られる筈のものではありません。もっとどこまでも広げられて往くものでしょう。私達は唯主の御跡に従うのみです。主は今日もまた先立ち往き給う。ああ主よ、あなたは今日もまた何処へ往き給うか。振り返り給うその御眼の如何に厳しく如何に憐みに充ち給うことかよ。主よ、あなたは今日もまた、愈々(いよいよ)淋しき処へと、十字架を負って往き給うか。 (「熱河伝道について」136 頁)
こうして澤崎は深い覚悟の上で、蒙古の曠野の中に、人知れず消えて往きました。消息が途絶え、跡を辿ることのできない沈黙の空間そのものが、私達一人一人に人知れず語り掛けるものをもっているように思います。世界中で、自国ファーストの狭隘なナショナリズムが高まりを見せる中、改めて、二十世紀の半ば、狂信的軍国主義が吹き荒れる中、おのれを何処までも他者に仕える者として、自分自身は消えゆくものとして覚悟していた澤崎の姿勢に身震いさせられます。そのような中で主の眼差しを覚え、自らの歩みを見定めたく思います。
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