わたしは激しく心を動かされ
- admin_ksk
- 9月9日
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2025年6月22日 主日礼拝説教 山本精一
聖書ホセア書 第11章1~9節
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは激しく心を動かされわたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。
彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。
剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち
たくらみのゆえに滅ぼす。
わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも
助け起こされることは決してない。
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
10日前の6月13日、イスラエルは、イランの核開発を阻止するという名目で、具体的な核兵器の証拠を挙げることなきままに、夜間に突如、イランの複数の都市に、空から一斉に襲いかかりました。それはまた、カナダで開かれることになっていた「G7(「先進国」首脳会議)」開催のほんの2日前のことでした。この二つの出来事の時間的近接性に、私は素人なりにきな臭さを感じています。というのも、イスラエルが今回の戦争行為に対して、「先進」七ヶ国からの支持と承認の声明を取り付けることを視野に置いて、この攻撃開始日を選んだのではないかとの疑念を拭うことができないからです。むろん、その実態は知る由もありません。それゆえ、今申し上げたことは単なる個人的憶測でしかないことは、申すまでもありません。とはいえ、その後この会議が発表した声明が、このイスラエルの獰猛(どうもう)な先制攻撃にお墨付きを与えるものであった事を見る時、この二つの出来事は、イスラエルの思わくに沿ったかたちで展開しているという事実は、動かしがたいと言わねばなりません。
じっさい、中東全域を、いや世界に戦火を及ぼす可能性をもった、新たな戦争開始という局面のなかで開催されたG7 は、そちらへと視線を向ける代わりに、このイスラエルによって行われ続けている、パレスティナの人々に対する無数の無法な残虐行為については、何ら触れることさえありませんでした。かえって、今回のイランに対するイスラエルの大々的な軍事行動を、「イランの核開発に対するイスラエルの自衛権の行使」と言って、一致団結して下支えする事に終始するものでありました。
パレスティナの人々の生命を絶対的な飢餓と渇きと破壊という極限状況の中に追いやり、その上でその人々に対するジェノサイド(集団虐殺)を一方的に行い続けているイスラエル。その出来事が打ちつづいているなかで、世界の「先進国」を自称する者たちが一所(ひとところ)に集まるというのならば、そこで真っ先にしなければならないこと、それは、イスラエルへの軍事的・財政的支援を直ちに打ち切り、その蛮行をやめさせ、それに法的な処罰を課して、この非人間的状況を押しとどめるという事以外に何があるというのでしょうか。少なくとも、「国際法」に則って、イスラエルに対して、その不正義の処罰と制裁と賠償に向けて、共同で圧力をかけていくことこそが、今最も緊急にそして真剣に求められていることです。しかし結局、G7はそのことには頬被りをしたまま、イスラエルの後ろ盾であるアメリカへの忖度に終始しました。それどころか、例えばドイツの首相フリートリッヒ・メルツは、今回のイスラエルのイラン攻撃に関して、「われわれみんなのために汚れ役を引き受けてくれた」との、イスラエルへの全面的に倒錯した謝辞を、自国メディアからのインタビューのなかで答えています。
このようにしてG7は、イスラエルの軍事侵略と今回もまた共同歩調を取る姿勢を公式に表明しました。欧米日の「先進国」なるものの政治家たちが徒党を組んで繰り返すこのイスラエル擁護の大合唱は、そのまま返す刀でパレスティナの人々をさらに一層切り捨てていくものでしかありません。それは、イスラエルの非人間的な残虐行為を、ことごとく追認・黙殺するものだからです。
G7サミット(その構成メンバーは、米・英・独・仏・伊・加・日の七か国)の基本理念のうちには、「自由、民主主義、人権という基本的価値を共有する」ということが誇らしげに謳われています。しかしその表看板とは裏腹に、その実態は、自分たちの経済的繁栄の確保を至上命題としながら、その大枠のなかで国際的時事問題に関してグループのなかで利害調整をなしつつ、国家間の取引き(ディール)を行い、できるだけ足並みを揃えて会を閉じるといった、政治的寄り合いの場でしかなくなっています。そこで演じられる三文芝居を、メディアもまた毎年恒例のネタにして、年に一度にぎにぎしく取り扱っては事足れりとしています。
ところで今回、このG7 の集まり以前に、英・仏・独の首相たちが、パレスティナの人々に対するイスラエルの蛮行に対して、それぞれいささかばかりかの批判を口にするということがありました。しかしいざ本番の会合の場では、そうしたことはおくびにも出てきませんでした。
そうしたなか、「自由、民主主義、人権という基本的価値を共有する」との言葉は、今回もまた空しく宙に浮いたまま、その会議は終わりました。そうしたなか、また新たに胸をかきむしられる出来事が伝えられてきました。御承知の通り、今年になってしばらくしてから、イスラエルは、ガザ地区全体に対して、食糧と水と医薬品の搬入とエネルギー供給を全面的にストップさせています。四方をすべて封鎖したうえで、そこに閉じ込められたパレスティナ難民の人々を今度は餓死させていく、イスラエルによる国家的な戦争犯罪行為です。そのような戦争犯罪を、国際的な非難にもかかわらず、今なお公然と行い続けています。そうしたなか近時、イスラエル当局が唯一認めた、実体不明のある団体によって、ガザ南部のごく限られた地点で、到底必要を満たし得ないレベルでの食糧配給が行われています。そこには極限的飢餓状態に追いやられた、そしてそれでも何とか自分で動くことのできる人たちが残余の力を振り絞って殺到したのにもかかわらず、これまでのところ少なくとも何度にもわたって、イスラエル軍の兵士たちがこの人たちを狙い撃ちにし、その場に多数の犠牲者・重篤なけが人が出ているという事が伝えられてきました。このような残虐を平然と行うイスラエル国家を覆う道徳的荒廃=非人間化は、筆舌には尽くしがたいものです。このとき、イエスはどこにおられるのか。
この事が起きているときに、G7は開催されていました。そうであるのにもかかわらず、その事について、G7はこの国家犯罪に言及さえしませんでした。そのようなところに、イエスの姿を見出すことはできるでしょうか。否です。そうではなくて、飢え渇きのなかで虐殺されていったパレスティナの人々、その人々のなかの一人としてイエスは飢え、渇き、殺されています。そのイエスの最後の息遣いに私は、われわれは、そして「自由、民主主義、人権という基本的価値を共有する」世界は耳を塞いではいないでしょうか。聞くには聞くが理解しない。見るには見るが、決して認めない。その世界、その私。イエスに
よって語られた預言者イザヤの言葉が迫ってきます。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」(マタイ福音書13:14~15 参・イザヤ書6:9~10)
3年4ヶ月前から続いているもう一つの残虐な侵略戦争、ウクライナに対するロシアの軍事侵略が始まって間もない時のことであったと記憶していますが、東欧スロヴェニア生まれのスラボイ・ジジェクという思想家は、「基本的には第三次世界大戦はすでに始まっている」と当時語っていました。いま私は、その言葉を思い起こしています。この言葉に初めて触れたとき、正直言って、あまりにも不穏で不気味なその言葉を、私は誇張表現の一種としてやり過ごしました。しかし私は今、あらためてこのジジェクの言葉に向き合わざるを得なくなっています。
現在起きている二つの大きな戦争は、決してウクライナ、そして中東という地域でのみ
起きている、遠くの地域の出来事でしかないなどと嘯(うそぶ)ける人は、今や恐らくどこ
にもいないでしょう。じっさい、その戦争には、端的に言って、世界を三分するブロック
(国家群)、すなわち米(欧・日・イスラエル)ブロック、ロシアブロック、中国ブロック、これら核兵器を大量に保有する三つの軍事超大国を筆頭とする国家群が、それぞれ自らの生存圏の確保と拡張を強言して、現在の戦争に当事者として、あるいは武器や資金の提供
者として、軍事的・経済的・政治的に深く関与しています。その点で、これらの戦争は、
既にこれら三つのブロックを通して世界的な規模で行われています。そうしたなか、世界
全体を滅亡させる核戦争の危機到来を示す世界終末時計は、今から36年ほど前の冷戦終
結時には、世界の終末まで17 分と表示していましたが、しかし、昨2024年の段階ではそ
れが90秒というところにまで縮減されてきています。恐らく今年は、事態の一層の悪化
に伴い、さらにその残り時間は短縮されることになるでしょう(『原子力科学者会報』)。
われわれは、パウロとはまったく異なった意味で、人間の悪が「時の縮まり」を激しく呼
び寄せている時代、終末的絶滅危機のとば口に立たされています。
われわれは今、核戦争がいつ勃発するのか分からない危機の時代に生きています。ダ
チョウは自然界で何がしかの危険を察知したとき、砂の中に頭を突っ込んでその場をやり
過ごすという事を聞いたことがあります。真剣極まりないダチョウには甚だ失礼な物言い
となってしまいますが、その姿にはどこか微笑ましさを感じます。かつて南アフリカの喜
望峰に向かう道中、ある平原地帯で、野生のダチョウを見たことがあります。そのとき、
その雄然と野を疾駆(しっく)するダチョウの姿に畏敬の念と感動を覚えたことでしたが、
その雄姿とは似ても似つかぬ、ある意味ユーモラスでさえある先の危機対処法の事が思い
出されてきて、思わず微笑みもしたことでありました。
私は、砂の中に頭を突っ込んで危うきをやり過ごすというダチョウの姿に、ある種の
ユーモア(ゆとり)を感じます。そしてそのようなユーモアへと誘(いざな)ってくれる動物たちの生きる姿を、こよなく愛おしく思います。しかし人間が地球上で現在とめどなく展
開している悪は、申すまでもなく、そのような動物たちが示すユーモアを一瞬にしてこと
ごとく灰燼(かいじん)に帰すものです。ダチョウの無垢とは似ても似つかぬ集団的意図的
な見て見ぬふりが、先のG7 に見られるように、この全地球的な規模での戦争危機のなか
で静かに深く広がっています。そのような時代の危機のなかにあって、われわれは、今朝
まず、詩篇の詩人とともに、その危機に対するまことの「砦」を求めて、聖書の言葉に耳
を傾けたいと思います。
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる。
(詩篇46:1)
この詩人の告白賛美を心深くに聞きながら、今朝は、古代北イスラエル王国にあって、
その国が歴史的に瓦解していく時代のただなかで、神に召し出され、そしてその召しに応えて生きた預言者ホセアの言葉に、これから少しく耳を傾けてみたいと思います。
ホセアは、旧約聖書の預言書に収められている記述預言者(その預言の言葉が文書とし
て残されている預言者)たちのうちで、唯一北王国イスラエル出身の預言者でありまし
た。ホセアの直前に活動したアモスもまた北王国で活動した預言者でありましたが、しか
しアモスの出身地は南王国ユダの寒村テコアでありました。そのアモスは、農民牧夫であ
りました。その彼が、預言者として北王国イスラエルに行け、そしてそこで預言せよとの
召命を受けて、故地を離れて北王国イスラエルへと赴き、その地に蔓延する社会的不正義
に向かって、全身全霊で厳しい審きの預言を語り続けました。ホセアはこのアモスから霊
的に深く影響を受けています。そしてホセアもまた、祖国北イスラエルの同胞・王・祭司
たちの驕り高ぶった現実に徹底的に立ち向かっていきます。
ホセアは、紀元前750 年頃からほぼ30 年の長きにわたって預言者として活動した人で
ありました。その活動時期は、直近の隣邦南王国ユダで預言者として召されたイザヤやミ
カと、部分的には重なってもいます。またエレミヤは、ホセアより後代の預言者でありま
すが、エレミヤの預言にはホセアの影響が明らかに認められます。このようにホセアはア
モスとともに、紀元前八世紀から七世紀にかけてイスラエルとユダ両国に陸続と現れた偉
大な預言者たちの先駆けとなった人でありました。
北王国イスラエルはと言えば、この時代、歴史的激動のなかで浮沈を繰り返したあげ
く、弱体化の一途をたどり始めます。ホセアが活動したこの時期、北王国イスラエルの王
は、「ヨアシュの子ヤロブアム」(1:1)でありました。
ヤロブアム(=ヤロブアム二世(在位紀元前787~747 年))は、先代の王であった父ヨアシュが始めた領土奪回を引き継ぎ、それをさらに推し進めました。その結果、近隣の諸
民族によって支配されていた多くの領土を奪回し、それに伴ってこの地域の主要通商ルー
トを手中に収め、交易や通行税などから莫大な富を手に入れ、イスラエルは空前の経済的
繁栄に酔いしれるようになります。
しかしヤロブアムの後継の王の時代になると、事態は一変します。すなわちヤロブアム
以後の25 年間で6 人の王が入れ替わり、しかもそのうちの4 人は権力闘争のなかで暗殺
されるという政治的混乱と空白が続きます。そうしたなか、王国はとみに弱体化していき
ます。そして遂に紀元前722 年には、北方の帝国アッシリアの侵略によって首都サマリア
は占領され、北王国イスラエルは名実ともに滅びます。
ホセアは、まさしくこの北王国イスラエルの束の間の経済的繁栄、その後の内政の深
刻な混迷、そして遂には亡国へと至る国家の激動的衰退期に、預言者として召し出され、
その没落していく国のなかで30 年内外にわたって預言者として生き抜いた人でありまし
た。北王国衰退の背景には、経済的な繁栄のもたらす富が、この王国において少数の特権
階級に集中したということが第一に挙げられねばなりません。それは、王国内に貧富の激
しい格差を生みだしました。それによって社会の分断は深刻化し、最終的にはそれが北王
国を内側から蝕(むしば)み、その基盤を掘り崩していきました。少数の富裕階級はますま
す富を独占し、大土地所有者となっていく。それに反して、社会の中の圧倒的多数を占める農民たちは土地を取り上げられ、一層零細化して、遂には没落奴隷となっていく。この格差分断の進行のなかで、社会的不正義がこの国の隅々に広がっていきます。
その状況下で、ホセアはアモス同様、強者による社会的弱者への圧迫・抑圧を、徹底的
に告発していきます(4:1~3)、(12:8~9)、(12:8~9)。さらにホセアの告発は、当時の形骸化した宗教信仰に向けられ(8:11~14) 、豊饒多産を司る土着の神々(バール神)への異教信仰にわれもわれもとなびいていく民の現実を厳しく撃つものとなっています(4:11~14)。こうしてホセアは、祖国イスラエルに対する神の徹底的な審きを告知します。
しかしその告知とは、想像を絶するほどに困難で危険な使命を預言者ホセアが引き受け
たということを意味するものです。ホセアにとって、預言者への召命とは、彼自身、この
国家・民の現実に根本的に対決していく、その深い苦しみを引き受けるということと一体
のものでありました。そのなかにあってホセアを預言者たらしめたもの、それは人間的計
算をもってしては決して推し量れるようなものではありません。預言者の召命ということ
の内には、こうして人間的思量のレベルを根本的に突破していくもの、すなわち、神共に
いますという事の途方もないリアリティーがどくどくと脈打っています。預言者の言葉と
は、そのリアリティーから発せられているということを忘れてはなりません。
古の預言者が対決したもの、それはまた、二十一世紀のわれわれがいま直面している現
実そのものです。強者が弱者を貪り食うという事、あるいは人が自分の生活の享受にのみ
明け暮れ(自国ファースト・自分ファースト)、社会の中で弱くされ踏みにじられている
人々の現実を顧みようともせずに、「自己責任」と事もなげに切って捨てること。それに
よって生じてくる社会的分断。その冷え切った酷薄な現実が、国内そしてグローバルに広
がっています。われわれはその事を、この国の内外で献身的に活動し抜いてこられた人々
から、例えば「絶対貧困」(湯浅誠)という言葉を通して、あるいは「アフガニスタンで
医師井戸を掘る」(中村哲)という言葉を通して、その尊い人々の命懸けの言葉から教え
られています。
いやそれだけではありません。われわれは、いかに幸いなことか、この教会の友たち御
一人御一人の見えざるお働きを通しても教えられています。次週神と会衆の前で信仰告白
をなされる若き友たちの裂帛(れっぱく)の受洗志願書をすでに読まれた事と思います。世
界の津々浦々で強者が弱者を貪り食うこの時代のなかにあって、呻きつつ、しかし主イエ
スに手を取られて、いま苦しむ御一人と共に歩まんと祈りつつ苦闘している友たちの信仰
告白に、私はただただ打たれています。このような友たちをいま新たに主がこの教会の肢
として下さることで、主はわれわれに一体何を語りかけんとされているのか。静まって、
真剣に静まってその声をおのがじし深く聞く者でありたいと思います。この時代の無惨の
なかにあって、しかしその友たちの洗礼において、先ず何よりも主の大なるお喜びが、そ
して友たちへの大なる祝福が、さらには教会への大なる励ましが与えられてくる事であり
ましょう。だからこそわれわれは心して、主のみがなしうるみわざの前で、一同深く砕か
れる時としてこの時に臨みたいと思います。
先ほど、ホセアは、形骸化した宗教信仰を告発しているということを申しました。し
かし、信仰の形骸化の問題とは、いつの時代をも貫通している問題です。その意味でそれは、直ちにわれわれ自身の問題でもあります。それは、とりわけわれわれの信仰生活が現
実の歴史のなかで起きている苦難から目を背け、お決まりの教会ごっこのなかに内向きに
安座し始める時、われわれ自身のただなかに必ずや生じてくる事態です。そのときわれわ
れは、預言者の言葉のもとに何度でも立ち返っていかねばなりません。教会は、これまで
の歴史のなかで、とりわけ戦争や差別といった歴史のなかで痛ましい過ちを犯してきまし
た。そのなかにあって、ただキリストの死と引き換えに与えられた贖いと恵みの絶大の前
で、何よりも自分自身の罪責告白から歩み直しへの端緒を与えられてきました。それは口
先一つで片がつくようなことでは決してありません。その一事を見失うとき、教会の集
いは、いつの世であれ瞬く間に騒がしい銅鑼(どら)となっていくばかりでありましょう。
この事への目覚め、そしてその目覚めの根本に注がれている主の贖いの血による赦しに、
われわれもまたいまこの歴史的文脈の中で、新たに連なるのか否か。深く問われていると
いう事を畏れをもって胸に刻みたいと思います。
初めに司会者に読んで頂いたホセア書11章の出だしで、ホセアは神とイスラエルとの
関係を、親子の関係に譬えています。1節は、出エジプトの解放の出来事を想起しつつ、
イスラエルを幼子に譬え、そのときその幼子を「わたしは愛した」と語っています。しか
しその直後では、「イスラエルを、· · · · · · エジプトから呼び出し、わが子とした」と語ら
れています。すなわち、血のつながった親子の自然的な情愛によって神はイスラエルを愛
したのではない。否、もともと子ではない者を神が「わが子とした」というのです。つま
り、神ヤハウェの愛とは肉親の自然的情愛に尽くされるようなものでは決してなく、その
親子の愛を譬えとして用いながらも、しかし実は子ではないものを子とする、そのような
肉親の愛を遥かに突破していく愛、それこそが神の愛なのだ、ホセアはそう強調していま
す。その意味で神がわれわれを子とするという事で、ホセアは、神の愛の恵みの出来事と
は尋常ならざる出来事なのだ、その尋常ならざる愛へとわれわれを目覚めさせようとして
います。
ホセアは、また、祖国の同胞たちを深く心に懸けていますが、しかしそこでも神の愛は
自民族の枠に閉じ込められるようなものとはなっていません。むしろそれを突き破ってい
くもの、民族的な愛をも突き破っていくものでありました。
こうして、親子の愛、夫婦の愛、自民族への愛を身近な譬えとして用いながらも、ホセ
アは、神の愛とは、それらの人間的情愛のうちにとどまるようなものではないということ
を、彼自身の、世にはあり得ない結婚経験を通して、激烈に体得させられていました(1
章、3章)。だからこそ彼は、祖国イスラエルに対して厳しい審きの言葉を容赦なく発す
る神の愛の自由のうちに、召されそしてそれに生きる者でありました(11:5~6)。しかしその審きを突き動かしているものの根底に、神ご自身、自らの身を焦がすような憐み=神
の愛があるということ、ホセアはその事をここで、極めて生々しい言葉によってわれわれ
に伝えんとしています。
ホセアは8節で、神が「激しく心を動かされている」そして「憐れみ=愛に胸を焼かれ
る」と、度を失わんばかりの強烈な言葉によって、神の愛を語っています。じっさいこの
8節は、私には、ホセア書全体のクライマックスをなしているものと感じられます。
しかしこのクライマックスには、さらに一層驚嘆すべきクライマックスが控えていま
す。それが9節です。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
「神であって人間ではない」と宣言する神。しかしその神は、そうであるのにもかかわ
らず、「お前たち=人間のうちにある」というのです。何ということでありましょうか。こ
の前・後半二つの文は、本来その真ん中のところで、徹底的に隔てられるべきものであり
ます。両者は、決して一つながりで語られ得るようなことではありません。なぜなら、神
と神ならぬ人間との間には、断絶があるということは、旧約聖書、いや聖書の宗教の根幹
を貫く信仰であるからです。それは人間が、自らを神の如くになす事(自己神格化・偶像
崇拝・高ぶり・傲慢)を徹底的に審く洞察、人間が決して見失ってはならない、恐るべき
重みをもった神からの「否」でありました。
しかしここでホセアは、そのような深淵によって決定的に隔てられたわれわれ目がけ
て、神は、「お前たちのうちにあって聖なる者」と宣言されていると語っています。しか
もその聖なる方は、親子を越え、夫婦を越え、民族を越えて、この世界の現実に「激しく
心を動かされ 憐れみ=愛に胸を焼かれる」、その愛そのものとなって、人間の歴史のな
かに到来されるというのです。その時、われわれは、この歴史の堪えがたい無惨のなかに
あって、しかしなお、この愛なる御方の到来に全身を開きつつ、この愛なる御方が負われ
た苦しみ、死、そして甦りのもとで、この御方から贈られてくる「平安シャーローム」と
「まことエメット」のなかで、望みなき世界、望みなきわれ、望みなきわれわれのただな
かにあってなお、しかしまったく出処の違う望みを贈られてきている事に確と目を上げた
くおもいます。そのとき、たとえ残り90 秒の世界であろうとも、真に恐るべき方をこそ
畏れ、浮足立つことなく、かつまた歴史の残虐からふらふらと目を逸らすことなく、真に
連帯すべき人々に繋がらせたまえと祈りつつ踏み出していくことができるよう、かつまた
時代の惨虐のなかで、他ならぬキリスト・イエスのとりなしの内へと、ダチョウに倣(な
ら)って、怯(おび)え惑った頭を安んじつつ突っ込んで、しかしそこからキリストに愛さ
れ導かれて、ダチョウのような足どりで、新たな一歩を踏み出していく者とされたく、切
に祈るものであります。
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