闇の中に響く歌
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2025年6月18日 主日礼拝説教 髙橋 伸明
聖書 創世記 第1章 1~5節
初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
ヨハネによる福音書 第 1 章 1~14 節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあっ
た。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光
を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。
光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼
は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべ
ての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかっ
た。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け
入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってで
はなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の
独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
だれにでも夜は来ます。周りが真っ暗になって、何も見えなくなる時があります。夜は
必ず明けて、朝がやって来ます。でも、そのことが見えなくなる時があります。長い長い
夜がいつまでも続いて、光が差し込まないと思える時があります。
日本語で「創世記」と訳されている題名は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の言語、ヘブ
ライ語では「はじめに(ベレシート)」という意味です。初めにあったこと、それは順番
として最初ということです。同時に一番大事なことという意味でもあります。
創世記の一章、最初の言葉は
初めに、神は天地を創造された。
です。これは、世界がどのようにして誕生したのかという科学を説明する言葉ではありま
せん。
聖書は闇を知っています。創世記の冒頭の言葉がまとめられたのは、イスラエルが当時
の大国であったバビロニアによって滅ぼされ、遠く砂漠を越えて捕囚に連れて行かれた後
でした。
神の恵みのうちに歩いていると人々は信じていました。しかし、自分たちの国が滅ぼさ
れ、神殿は崩壊しました。信じていたものがひっくり返され、すべては闇に帰してしまっ
たようでした。これは崩壊期に生きた人々が自分たちの混沌の中で、闇の中で聞いた言葉
でした。
一番最初に語られる言葉、一番大切なこととして伝えられるのは、「神が創造された」と
いうことです。闇ではない。確かに地には闇が覆っていました。混沌と虚しさです。しか
し初めに語られるのは、私たちの闇がいかに深いかということではありませんでした。ど
れ程私たちの闇が深くとも、神の働きがあった、そして今もその働きが継続されており、
私たちの闇に光が灯されている。
私たちは混沌の中に突き落とされることがあります。親しい人の死や病の現実。私た
ちは闇の中に立つ者です。しかし、私たちのさまざまな混沌状態へ神が介入してくるとい
う事実を、ヘブライ語聖書(旧約聖書)は語っているのではないでしょうか。
闇が立ち込める中で、人々は礼拝に集いました。そして、聞きました。
初めに、神は天地を創造された。
神は祝福してこの地を創造された、私たちも神が創造された。祝福しておられるのだ。今、
目の前にはどれ程闇が広がっていても、神が見捨てられたからこの状態があるのではな
い、と。
そして、一番初めに語られたことは「光あれ」でした。この後、第四の日に太陽と月、
星が創造されたとあります。ですから、「光あれ」の「光」は太陽などの自然光ではありま
せん。闇を歩いているような状況にも、光がある。どれ程暗さが深くとも、光があれば、
私たちは歩いていくことができます。この光は希望と言ってもいいかもしれません。
神は光を見て、「良し」とされました。「良い」というのは、美しい、欠けがないという
ことです。完全な状態といってもよいと思います。神が創られたもの一つ一つは美しく、
欠けがない。
夕べがあり、朝があった。
印象的な言葉です。ヘブライ人の一日は夕べから始まる、と聞きました。聖書の世界は、
夕べから一日が始まります。挫折や絶望が支配する夕暮れの中で、彼らは神からの息吹を
吹きいれられて、「夕べがあり、朝があった」と語るのです。
そして、この創造の言葉は礼拝で共に聞かれました。
混沌の中であてどのない思いを抱き、深い闇に道を見失っている。その民が朝の光、神
が与えられる希望の光を迎えて賛美したのです。聖書が伝える創造は、絶望し、膝を折
り、不安とつぶやきの言葉しか出てこなかった人が、賛美する人へと変えられる、その賛
美の祈りです。
創世記が語る「創造」とは、嘆きと悲しみの中から、朝を迎える、主を賛美する人へと
変えられるということなのだと思います。
ヨハネ福音書の冒頭には、創世記の最初の言葉と対応する言葉が置かれています。この
福音書を生み出した教会の人々も、闇に放り出されるような経験をしていたのです。彼ら
は同胞であったユダヤ教の会堂から追放されました。当時、ローマ帝国ではユダヤ教は公
認されていましたが、イエスをキリストと告白するキリスト者たちはユダヤ教から排除さ
れ、迫害されることとなりました。
仲間から追放され、行き場を失い、命の危険にさらされていた人々が週の初めの日、イ
エス・キリストを信じて集まってきました。創世記のあの冒頭の賛歌を心を込めて、読
み、歌いました。
この教会は創世記の賛歌を受け継ぎつつ、新たな賛歌を生み出していきました。それ
がヨハネ福音書一章冒頭の言葉です。「私たちを生かす光」は与えられている。それは実
に、私たちの隣りに生まれられたのだ、と。イエスは一人の女性の胎に宿るのではなく、
私たちの間に宿ると語られます(14 節)。
私がこのヨハネ福音書一章の言葉に深く出会わされたのは、ある方の証言を聞いた時で
した。その方がインド南部のダリット(カースト制度の外に置かれた最下層)の村を訪れ
た時の話です。インド洋沿岸地域が大規模な地震と津波による甚大な被害を受けたのは、
クリスマス直後の日曜日の朝でした。2004年12月26 日のことです。海岸近くの教会で
は、礼拝をしていた多くの人たちが倒壊した礼拝堂の中で亡くなりました。子どもを抱い
たままの母親もいました。海辺では、船は打ち上げられ、網などの道具もぼろぼろのただ
の縄になっていたそうです。
クリスマスを迎えた喜びのうちにあるはずの礼拝が、その直後に弔いの礼拝となったの
です。
死の匂いが立ち込めているような、深い闇、暗さのただ中にいるように思われたその礼
拝。人々はそれを sit in the darkness 暗闇の中に座っている、と言いました。暗闇の中に
放り出されている、と。
だれも言葉を発することができないという思いに覆われていた礼拝の中で、その教会の
牧師は静かにヨハネ福音書から語り始めました。「神は私たちの間に宿っている」。形をな
くし、生きる術(すべ)を失い、もはや全く先行きが見えない。確かに私たちは暗闇の中に
座っている。
「しかし」とその牧師は続けます。神は初めに「光あれ」(創世記 1 章 3 節)と言われた
ように、絶望的な状況の中で、光があると語りかけられた。「神の独り子イエス・キリス
トが来られたことは、その神からの語りかけなのだ」と。
「私たちの間に宿られた」という聖書の言葉は、もともと「テント(幕屋・天幕)を張
る」というギリシャ語でした。動詞にすると「身を傾ける」となります。私たちの闇のよ
うな現実の絶望と不安、悲しみの中に「神が身を傾けて」おられる。ちょうどテントを
張って、明日の暮らしの確証がない難民の一人のように、私たちの間に宿っておられる。
何も生み出すこともできないかのような私たちの間に。
クリスマスを迎えた私たちは、もはや失われた民、光をもたない群れではない。私たち
は、ここから、私たちの間にイエス・キリストがおられることを生み出していく働きをし
よう。その私たちを生かす力、生かす方がまさに私たちの隣りに生まれられたのだ、と。
暗闇の中に光を灯す働き、言葉が受肉することの意味に触れたように思ったと言うので
す。そして、その言葉は確かに、人々がもう一度立ち上がるための支えとなったのでした。
創世記がその初めにおいて世界と人間の始原を語っていたように、ヨハネ福音書はイエ
ス・キリストにおいて新しい人間の始原について語り始めます。血縁によってではなく、
イエスを救い主と信じる信仰によって、神の民としてイエス・キリストを私たちの間に生
み出していく働きへ召されている。それは、新しい創造です。
『讃美歌 21』の 273 番「この聖き夜に」という賛美歌があります。この賛美歌を作詞したクレッパー(Jochen Klepper 1903~1942)はドイツの詩人で、第二次世界大戦下、ユダヤ人であった妻と下の娘を強制収容所に送らなければならないという限界状況に直面し、
自死を選びました。
この聖き夜に
われらに代わりて
苦しみ負うため、
御子は生まれたもう。
キリエレイソン。 (1 節)
キリエレイソン(キリエ・エレイソン)というのは、「主よ、憐れんでください」とい
う祈りです。闇が深まる。主よ、憐れんでください。しかし、その賛美歌は最後に「主に
ホサナ」と歌われます。「主をほめたたえよ」と。
よみがえりの朝に、そのような私たちにも主は救いのみ手を伸べてくださる。キリスト
が再び世に来たりたもう時に、私たちの業も、私の命も、つぶやきも、嘆きも、働きも、
すべてその完成された世界の一つのかけらとして用いてくださる。その新しい創造の朝を
私たちも待ち望みつつ、イエス・キリストを生み出す働きへ召されたいと思います。
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