汝らが暫く受難(くるしみ)をうくる後
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2026年1月4日 主日礼拝説教 山本 精一
聖書 ペトロの手紙一 第5章8~11節
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているので
す。それはあなたがたも知っているとおりです。 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
クリスマスの恩寵のうちに年を越し、2026年の第一主日を迎えました。しかしながら、歯止めを完全に失った国家暴力、そしてそれがもたらす限りのない人間破壊と環境破壊。そこから噴出している重畳(ちょうじょう)たる闇が、既にして、この年の始まりを暗く覆っています。そして、この恐ろしい破局的状況(カタストロフ)からの脱出と回復の道筋を、世界は何一つ見出せずにいます。そのことのなかで、どれほどの人々が、煩悶と焦燥と憤怒と悲嘆のうちにあることでしょうか。かくいう私自身、その一人に他なりません。
これまで、ロシアとウクライナとの間で、イスラエルとハマースとの間で、和平のための交渉と銘打ったものが度々企てられようとしてきました。その一々の詳細は分からぬものの、しかしそれらはどれも、暴虐を終わらせ和平をもたらすものとは程遠いものでした。それどころか、武力で圧倒する側がそれに抵抗する側に対して、自らの言い分を、恫喝(どうかつ)とともに一方的に主張するだけのものでありました。というのも、そこでは、前者が、自らの正しさと自衛権をまくし立て、翻(ひるがえ)って非は全て後者の側にある、だから俺たちの言う事をお前たちは言われた通りに聞け、さもなければ軍事的殲滅行動を直ちに再開すると凄(すご)むパフォーマンスが繰り返されてきたからです。その醜悪なパフォーマンスを演じているのは、獰猛(どうもう)な侵略・殺戮(さつりく)を行い続けている側、かつまた無防備な市民・難民への無差別攻撃を続けている側、すなわちロシアであり、イスラエルです。しかも国際法を踏みにじり続けているそれら両国の侵略・破滅行動を、二大超大国たる中国とアメリカが、前者はロシアを、後者はイスラエルを、軍事・経済両面にわたって、陰に陽に莫大な規模で支援し続けています。
この世界史的破局の進行のただなかで、われわれは2025年のクリスマス礼拝を守りました。その際、何よりもまず、このとき、われわれ自身、クリスマスに到来された無力な赤ん坊の救い主に宿った、そして無力な羊飼いたちに臨んだ静謐(せいひつ)な恩寵に身心を集中させ、その恩寵に深々と与(あずか)るということ。かつまた破局の闇に覆われたまま始まった2026年を、しかしそれにもかかわらずそのなかに到来された「主の2026年」として感謝も新たに歩み出していくということ。それゆえ時代がいかに悪くとも、その時代のなかにこそ到来された飼い葉桶のみどりごによって、この年へと一歩踏み出していくべく呼びかけられているということ。そのクリスマスの呼びかけのうちで、この年の歩みを新たに始めたいと思います。「傷める葦、ほの暗い灯心」そのものであるわれわれの時
代の底なしの破れに向かって発せられている、クリスマスという出来事からの呼びかけを、新たな年の始まりのなかでいま初めて出会うものとして、原初の驚きをもって聞き、その偉大な出来事への畏れと感謝を、一人一人のそして共同の告白となしていきたいと
思います。その祈り願いを込めて、今朝の新年礼拝においては、クリスマスの讃美歌二曲( 101 番(いずこの家にも)、102 番(もろびと声あげ))を選びました。
しかし同時に、このクリスマスの恩寵のうちにあって、今われわれに臨んでいる世界史的破局をいささかでも直視するならば、そこで先ず直面することは、申すまでもなく、この破局が自然の成り行きで生じてきているものではないということです。というのも、この破局は、武力と金と地下資源でこの世界を牛耳ろうとする権力者たちの飽くことのない貪(むさぼ)りと驕(おご)りとによって徹頭徹尾駆動されているからです。
しかし、その彼ら一人一人のうちに憑(と)りついているものがあります。それは、彼らを奥底から突き動かしている、彼らならざるものです。その「突き動かすもの」──それを今朝のペトロ前書は、「悪魔」と喝破しています──からは、濃い暗闇がこの世界全体に向かって激しく噴出しています。その濃い暗闇は、さながら出エジプト前夜のエジプト全土に臨んだ「三日間の暗闇」に匹敵するもの、あるいはそれ以上のものだと言わねばなりません。
三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がる事もできなかった。 (出エジプト記 10:22)
出エジプト記は、ここでヤハウェから送られてきた暗闇に人々が覆われたとき、人々は「互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がる事もできなかった」と述べています。
これは、そのまま、現在のわれわれ自身の姿、さらには現在の世界の有様の陰画(ネガ)でもあります。
なぜなら、自国ファーストが世界的に猖獗(しょうけつ)を極めているなかで、われわれは、もっとも本質的な意味で「互いに見ること」ができなくなっているからです。自分にとって自分たちにとって、都合のいいことだけを延々と見続ける。しかしそれから外れたものに対しては、つまりは自分にとって異質にして不都合だとみなしたものに対しては見向きもしない、いやそれどころか排除・征服の暗い欲望を起動させていく。この自国ファーストの蔓延のなかで、「互いに見る」ことが激しい勢いで失われていっている。それは、今や、出エジプト前夜の古代エジプト帝国一国の話にとどまるものではなく、様々な分断が進行する現今の世界の至る所で、われわれは遠い隣人との間でも近い隣人との間でも「互いに見る」という経験を、それこそ見失っている。そのことに思いを巡らすとき、私はシモーヌ・ヴェイユの言葉を思い起こします。
隣人愛の極致は、ただ「君はどのように苦しんでいるのか」と問いかけることができるということに尽きる。すなわち、不幸な人の存在を、なにか陳列品の一種のようにみなしたり、「不幸な者」というレッテルを貼られた社会の一部門の見本のようにみなしたりせずに、あくまでわたしたちと正確に同じ一人の人間と見て行くことである。その人間が、たまたま、不幸のために、他の者には追随することのできないしるしを身に帯びるにいたったのだと知ることである。そのためには、ただ不幸な人の上にいちずに思いをこめた目を向けることができれば、それで十分であり、ただそれがどうしても必要なことである。その目は何よりも注意する目である。
(『神を待ちのぞむ』)
われわれ一人一人が、今このとき、「濃い暗闇」に呑み込まれてしまっているのかどうかということは、「注意する目」(ヴェイユ)をもって、「自分のいる場所から立ち上がって」(出エジプト記)、「不幸な人の存在」に向かって「君はどのように苦しんでいるのか」と「いちずに思いをこめた目を向けることができる」かどうか(ヴェイユ)、そのようにして「互いに見る」(出エジプト記)事へと心を開いているのかどうか。それら一つ一つのことによって、問われそしてはっきりと明らかにされてくる。出エジプト記とヴェイユの言葉は、このように相呼応しながら、われわれ自身の現在の「互いに見る」ことができなくなっている有様を、どこまでも冷静に正確に、すなわちありのままに正見(しょうけん)することをわれわれに教えている言葉、砥石(といし)の如くにわれわれの「互いに見る」あり方の実相を吟味する言葉となっています。
しかしながらわれわれは、現在、まったく見透しの利かない時代のなかで、濃い暗闇のなかに閉ざされていると言わざるを得ません。じっさい、その見透しの利かなさのなかで、明日突然、何か途方もなく恐ろしいこと、人類史上三発目の原爆が炸裂(さくれつ)するかもしれない。そしてそれに対して、直ちに対抗原爆が連鎖的に次々と発射されるかもしれない。その核の狂気が爆発するおぞましいシナリオは、今や決して荒唐無稽(こうとうむけい)なものとは言えないほどに、時代の危機は煮詰まってきている。
そのようなとき、われわれは、「炭鉱のカナリア」の声に、深く耳を澄まさなければなりません。なぜならわれわれの時代に与えられている「カナリアの声」こそが、終末の接近を誰よりも鋭敏に、そして命懸けで告げ知らせているからです。一昨年のクリスマス礼拝で御紹介した日本被団協の田中煕巳(てるみ)さんの言葉は、私にとって、まさしくそのような「炭鉱のカナリア」の声でありました。今このとき、核がもたらす世界の終末の切迫を震え慄きながら全身で感知しているカナリアの声にわれわれもまたいささかでも鋭敏でありたく思います。そしてそのカナリアの受難(くるしみ)の声に目覚めさせられるものでありたいと思います。
今朝のペトロ前書の箇所は、紀元一世紀前後の、小アジア地方に成立していたキリストの諸教会に、恐らく帝国ローマの皇帝ネロないし皇帝トラヤヌスによって加えられた激しい迫害を背景にして書かれているものだと言われています。そうしたなか、今朝の箇所は、目覚めへの呼びかけから語り始められています。
身を慎んで目を覚ましていなさい。 (8)
「身を慎んで」とは、元来は、「酒に酔うことなく」、あるいは「熱狂に酔うことなく」といった意味合いの言葉です。キリストの教会に、熱狂的迫害者たちが怒声を張り上げて襲いかかってくるとき、その教会のなかに、それに対抗するようにして、ある種異様な熱狂が生まれ得る。そのようなことは、熱狂の渦の中に身を置くとき、誰しもが多かれ少なかれ経験することです。熱狂は、敵味方を問わず、人から人へと伝染するからです。
それに対して本書簡は、「熱狂に酔うことなく」という一語から語り起こしています。それすなわち、クリスマスの深く充実した静謐(せいひつ)へと通じている言葉です。熱狂ならざる、天来の声に充たされた静謐(せいひつ)のうちでの「目を覚ましていよ」との呼びかけ。
しかしそれではこの場合、「目を覚ましていよ」とは、いかなる事でありましょうか。誰しもが知っている通り、われわれには十分な眠りが必要です。仮に一睡もできない日が何日も続くならば、それは生命体にとって直ちに極めて危機的な事態をもたらします。
それゆえここでの「目を覚ましていよ」とは、四六時中のべつ幕なしに起きていろということではありません。そうではなくて、明らかにある事態に対して霊的に集中する姿勢を求めているものです。それではいかなる事態に対して「目を覚ましていよ」と言っているのでしょうか。
それが直後に語られています。
敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
この表現は、旧約聖書以来の伝統を踏まえて語られています。それはとりわけ、獅子の洞窟に投げ込まれた預言者ダニエルが経験した迫害の出来事を、この言葉を聞いた人たちに直ちに連想させるものであったはずです(ダニエル書 6 章)。その連想のもとに、ペトロ前書の方は、「ほえたけり、だれかを食い尽くそうと探し回る獅子」ということで、さらに、その時代のローマによる苛烈(かれつ)な迫害のなかにある小アジアの諸教会の苦しみと恐怖を暗示しています。「ほえたける獅子」とは、この書簡の受取人であった諸教会の人々にとっては、彼らを探し回る世界帝国ローマの権力者たちの事を指す、旧約聖書を踏まえた合言葉のようなものであり、怖ろしい迫害経験を暗示する符牒(ふちょう)のようなものであったことでしょう。
しかしここで、ペトロ前書はローマによる残忍な迫害の総元締めである皇帝たちの名を具体的に挙げることはしていません。そうではなくて、「敵である悪魔」とだけしか語っていません。すなわち、ペトロ前書にとっては、「悪魔」こそが、神に対する真の敵、さらには、神を信ずる人間に対する真の敵でありました。ここで本書簡は、その一点を見据えています。エフェソ書もまた、ペトロ前書とまったく同じく、この一点を見据えています。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エフェソ書 6:11~12
「悪魔」とは、合理主義一本槍を決め込む人々にとっては、お伽話のなかに出てくる夢想的な存在でしかないでしょう。しかしペトロ前書は、その「悪魔」というものをこそ、彼らの歴史的現実の奥底で蠢(うごめ)いているものとしてありありと覚知しています。それは、「神に敵するもの」にして、それゆえその「神とともにある人間に敵するもの」と
して働いているというのです。
悪魔とは、新約聖書においては、突きつめたところ、信仰者を「神共にいます」信から引き剥(は)がし転落させんとするものです。そのようにして「神共にいます」信からこの人あの人を引き剥(は)がすことに成功したならば、次に悪魔は直ちにその人たちの魂を恣(ほしいまま)に食い尽くす=滅ぼすものとなる。ペトロ前書にしろ、エフェソ書にしろ、こ
れら円熟の書簡は、神の敵、イエスの敵なる悪魔の誘惑あるいはその食い尽くしというものの恐ろしさを、人間が非人間的なものへと転落・破滅していく諸々の具体的事実に即して、骨身に沁みて知っていたのだと思います。
神の国の到来を告げ、その福音に御自身の生涯を賭けて歩み出されたイエスに先ず最初に接近してきたもの、そのイエスに憑(と)りつかんとしたもの、それがまさしく悪魔(サタン)でありました。ペトロ前書は、その悪魔が、今や自分たちを食い尽くそうと探し回っている(歩き回っている)のだということを、現実の迫害状況に即して痛切に覚知しています。そこで用いられている「食い尽くそうと歩き回っている」という表現には、単なる比喩ということでは済まされない、激しい切迫感が漲(みなぎ)っています。
鈴木大拙という仏教徒にして、優れた仏教思想家が、戦後間もないとき(一九四六年九月)に『霊性的日本の建設』という書の序文として「戦争礼賛 Laus belli (魔王の宣言)」という奇妙なタイトルの文章を書き残しています。大拙の意図は、そのタイトルとは全く逆で、この文章のなかで、日本の敗戦に至る戦争遂行に対する徹底的な批判を行うというものでした。その詳細についてここで触れる時間的余裕はありませんが、しかしその中で彼は、戦争に雪崩(なだれ)を打って走っていった日本人に憑(と)りついていたものとは何なのか、その正体を「魔王」と道破(どうは)した上で、その「魔王」なるものの特性を五つ挙げています。(1)力、(2)無意識、(3)狂信、(4)嘘、(5)恨(うら)み・驕(お
ご)り。
この「魔王」の特性への洞察とは、いまこの危険な時代のなかで、繰り返し味わうに価するものです。その内容に少し触れておくならば、戦力も権力も財力も、「力」を頼みとするところ、そこに「魔王」の本性が露わとなる。それらの「力」によって、他人を屈服させ、隷属させ、支配しようとするのが「魔王」である。それゆえ「魔王」は、あらゆる力と力とのぶつかり合い、すなわち戦争を、抗争を、闘争を待ち望む。そして「無意識」の奥底から人をコントロールして、「狂信」の闇の中に陥れる。「嘘」を好み、詭弁(きべん)を弄(ろう)し、「恨(うら)みや驕(おご)り」に憑(と)りついていく。その魔王が最も嫌うものを、大拙は「霊性」だと語り、以後、彼の仏教信仰に基づいたユニークな霊性論を
展開していきます。
この大拙の語る「魔王」を、今朝のペトロ前書の「悪魔」とそのまま単純に同一視することは出来ません。しかしそこで「魔的」なものの特性として大拙が挙げていることからは、深く学ぶべきことがあります。それに対して、ペトロ前書が直視している「悪魔」とは、神に敵するものであり、かつまた産声を上げたばかりのキリスト・イエスの教会を
迫害するものであり、人間と神との関係を断ち切るべく、食い尽くすべき人間を常に探し回っている存在(もの)でありました。
深い交わりのうちにあった小アジア地方の諸教会が今どのような迫害を経験しているのか、そのことを並々ならぬ痛みと祈りのうちで知悉(ちしつ)しているペトロ前書記者にとっては、そのような敵である悪魔とは、それら諸教会に襲いくる迫害者たちの姿と一体となって把握されていたはずです。だからこそ
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。 (9)
という言葉は、迫害というその時代の教会にとって極めて切迫した具体的で危機的な問題に向かって発せられている言葉でありました。
しかしわれわれは「迫害」という歴史的危機の深奥にあるもの、迫害する人間の奥底に憑(と)りついて、その人間を狂信的迫害へと駆動しているものとは一体何なのかと、今あらためて一歩突っ込んで問うてみる必要があるのではないでしょうか。なぜならその迫害を駆動するものとは、一人迫害に息を弾ませる者だけの問題にとどまるものではなくて、われわれ一人一人の魂の奥深くに厳在している問題、歴史を揺るがす問題でもあるからです。先の大拙の「魔王」の五つの特性とは、まさしくそのようなわれわれ一人一人のうちに潜んでいる問題(もの)であり、かつまた、初めに触れたわれわれの時代のこの破局の根底で蠢(うごめ)いている問題(もの)です。こうして、底なしの悪虐を行い続けている権力者たちに憑(と)りついているものとは、ペトロ前書では「敵たる悪魔」として、大拙の言葉では「魔王」として、確と見据えられています。
この先達たちが苦しんだ「魔」の経験から、その「魔王」の特性、すなわち力、無意識、狂信、嘘、恨(うら)み・驕(おご)りというものを、この時代の破局の根底のうちに看取ることは、宗教間の違いを超えて、謙虚に受けとるべきことのように私には思われます。
今朝初めに漠然とした言い方で、「破局的状況からの回復・脱出の道筋は、何一つ見出すことができない」と申しました。その言葉は、この世界の現実、わが肉の現実に立つ限り、如何ともしがたいものです。然し上述の洞察に導かれるとき、その無力感に萎え果てた言葉は、この導きのもとでほぐされ、揺り動かされ始めます。というのも、少なくともわれわれがこの時代のなかで真に抵抗しなければならない魔的なものとは何なのか、それが五つの示しによって、まったくつかみどころのない不気味な問題としてではなくて、その洞察を、われわれがこの時代の「悪魔」に対峙していく上での、重大な足がかりとなし得るからです。
しかしそれだけではありません。悪魔、魔王というものの、五つの特性が切り出されたことで、われわれは、自分のうちに、この悪魔、この魔王の恐るべき特性が厳在していることにも気づかされます。神の敵は、まさしくこのようにして我がうちにいるのです。しかしそのとき、われわれはそこからどのようにして解き放たれることができるというのでしょうか。
ペトロ前書は、その悪魔からの解き放ちということを「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いて下さった神御自身」からの約束のうちに、深い喜びと安心(シャーローム)とをもって望み見ています。そこにこそ、人間に憑(と)りついてやまぬ悪魔を突破していく、われわれの最終最深の拠り所があるのだ、と。
しかし、その前に、ペトロ前書は、
しばらくの間苦しまねばならない。 (10)
と語っていることを見落としてはなりません。今朝の説教題は、この箇所の文語訳からとっています(「汝らが暫く受難(くるしみ)をうくる後」)。私はこの言葉に深く慰められ励まされます。いや、この言葉があるがゆえに、今朝の聖書箇所全体が、おとぎ話ならずして、それこそ内村言うところの「実験」を潜り抜けてきた言葉として、わが内に迫りくるからです。
その上でペトロ前書は、その「少しの間の受難(くるしみ)」というこの世のただ中での「実験」を、最終的に支えるものがあると言います。それが、「あらゆる恵みの神」と「キリスト・イエスにおいて」という言葉です。この「キリスト・イエスにおいて」という恵みゆえに、われわれにも、今眼前の破局の底に潜んでいる悪魔の特性を、ただぼんやりと恐れ苦しむのではなくて、大拙が敢行(かんこう)したように、自らの実験を通して、各自、徹底的にそして批判的に洞察していくところへと呼び出されているのだと思います。「あらゆる恵みの神」と「キリスト・イエスにおいて」に守られ導かれて、永遠の相(「永遠の栄光」(10))のもとで「信仰にしっかりと踏みとどまって、(わが内外の)悪魔に抵抗する」(9)道を、この年新たに呻き求めて参りたいと思います。そのとき、「少しの間苦しむ」ということが、「慰めと励まし」の言葉となって、はっきりと語り示されていることを忘れずにいたいと思います。その苦しみを共に苦しまれる神とキリストの永遠の招きへと顔を上げて、その約束に身を委ねて、堪忍し抵抗するものたらしめられていきたく祈り願います。




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