いかに幸いなことか
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2026年1月11日 主日礼拝説教 片柳榮一
聖書 詩編 第1編1~6節
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。
新しい年を私たちは迎えています。この新しい年を象徴するような出来事がヴェネズエラで起きました。2年前アメリカ大統領選挙の最中に、アメリカの高名な経済学者が、自分たちはトランプが返り咲くのを阻止するために、死に物狂いの戦いをしているのだと語っていました。トランプ再選が意味することの深刻な影響を見据えたその憂いを帯びた言葉をあらためて思い起こしています。今年が、ヒトラーが台頭した1933年の再来にならないことを願いつつ、薄暗がりの中、手探りの歩みを始めたいと思います。
今日は、様々な危惧を孕(はら)みつつも、なお新しい年が始まったことを思いながら、詩編の最初の1編を取り上げてみたいと思います。この詩編は詩編の冒頭を飾るものとして、或る意味で、詩編全体を代表しているとも言えるように思います。この詩編を読みつつ、全150編の詩編を編集した人が、その最初にふさわしいと感じつつ、この詩編を冒頭においたその思いを噛みしめながら、学びたいと思います。
私たち現代人にとって詩を読むというのは、「詩集」として本にまとめられたものを一人静かに読むというのが最も通常の在り方かと思われます。しかし聖書の詩編はそのようなものではなかったようです。その詩のほとんどはイスラエル宗教の儀式において、集った人々が、共に唱和したものだと言われています。そしてその詩の内容において意図されているのは、人々、殊に若い人々の宗教的情操を育(はぐく)み育(そだ)てることであったと言われます。内容としては、教訓、知恵の重要さ、しかも主なる神への信仰に基づいた知識、知恵の重要さが殊に強調されることになります。
「いかに幸いなことか」という言葉で始まるこの第1編において詩人が強調しているのは、この人生において「幸福とは何か」ということです。私たちが心の底で最も願っていることとしての「幸い」が何であるかを、感嘆の表現を用いて「いかに幸いなことか」と述べています。私たちには新約聖書の山上の垂訓で馴染みになっているこの表現は、新約に始まったのではなく、旧約の詩編に源があることを示唆(しさ)されます。そして詩編の中で、何度もこの表現は用いられています。懺悔(ざんげ)の詩編としてよく知られた 32編も
いかに幸いなことでしょう
背きを許され、罪を覆っていただいた者は。
で始まっています。33編12節にもあります。そして34編9節は印象深く
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
と歌っています。84編6節では
いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は。
と語られます。心に広い道を見るという表現は、はっとさせられます。そして最長の詩編である詩編119編も
いかに幸いなことでしょう
まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
と歌います。128編にもあります。
私たちは文字を伝達手段の基本にした、いわば文字文化の内で生きています。印刷技術の発展によって、ふんだんに書物を与えられています。しかし500年以前はそうではありませんでした。ほとんどの人は文字を読めず、伝達は音声にほとんど限られていました。文字にとどめられず、言葉はすぐに消えてゆきます。記憶に留められるのはほんの少数の印象的な言葉だけです。ですから大事なことは簡潔な言葉で短く表現されねばなりません。語呂合わせや韻を踏むなど、人々の記憶に容易に残るように工夫されなければなりませんでした。「詩」という文学ジャンルはそうした制約の中で生まれてきたものと思われます。そのように人々に印象深く伝えるための一つの工夫が、対立を際立たせるということです。第1編もそのような対立の形式で、1~3節で、幸いな人として主の教えを愛する人が語られ、それに対して4~5節で「神に逆らう者」が語られ、対立が示されます。しかもこの1編の作者の詩人としての技巧は、この「幸いな者」を語る最初の一節の中で、対立する者もすでに語られていることの内に見られます。
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道に留まらず
傲慢な者と共に座らず
という否定的表現において、「幸いなる者」に対立する「神に逆らう者」が、五節を待たず、すでに示されています。
「神に逆らう者」と新共同訳では訳されていますが、前の口語協会訳では「悪しき者」と訳されています。私は長らく口語訳に慣れていましたので、詩編第1編の冒頭では「悪しき者」と「善き者」という道徳的な対立が示されているのかと思っていましたが、この箇所では、新共同訳の「神に逆らう者」の方が相応しいように思えます。詩人は単に道徳的な評価ではなく、宗教的心情に関わる信仰を明らかにここでは問題にしているからです。
そして或る注解者は、幸いな者に対立する三種類の不信仰者の中に、段階が示唆されているのだと言います。つまりまず、神に逆らう者の忠告、教唆(きょうさ)に唆(そそのか)され、誘惑されて行く段階、そして唆されて迷いこんだ「罪ある者の道」から逃げられず、いわば囚われて身動きならず留まる者、そしてついには「傲慢な者」と共に座るという自発的な行動へと駆り立てられて行く者が、段階的に示されているとも言えます。「神に逆らう者」とは、根底において神を信ぜず、神を第一として己を突破して開かれることをせず、己を第一としているものです。「罪ある者」とは、さらにその神への不信が、罪として形をなして現れている者と言えましょう。「傲慢(ごうまん)な者」と訳されているのは、先の口語訳では「嘲(あざけ)る者」と訳されており、罪が己の内に留まらず、共なる共同性の地平で、他者を見下し、尊重しない「傲慢」として、また「嘲り」として、罪が現れ出てきています。
さらにここで気づかされることがあります。この幸いな人に対立する神に逆らう者が、一歩一歩、さらに深い泥沼の中にはまり込んでゆくことが示唆(しさ)されましたが、そのことが起こるのは、切り離された個人のうちではなく、今述べた人と人とのまさに共同の場においてであることです。人は決して単独で、迷いの中に落ちて行くのではなく、その泥沼の深みもそれぞれ、共同の場をもっています。「傲慢な者と共に座らず」と訳されたところは、直訳すれば、「傲慢な者の『集まり』に参加しない」です。その共同性の中で、神への逆らいが深まってゆくことを示され、深い恐れを覚えます。
続いてこの詩編前半の核となるものが示されます。「いかに幸いなことか」と述べられた人は、
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。 (2 節)
と言われます。まさにこの詩が、人々、殊に若者を訓育することに主眼をおいた教訓詩であることをよく示しています。幸いな人とは「主の教え」を愛する人だと言います。「教え」と訳された言葉は、「トーラー、律法」ですが、その意味は、決して新約のパリサイ主義によって空疎にされてしまった律法ではなく、人がそれによってのみ生きうるような生の源たるものです。私たちがそれに従うことによって初めて「人間」たりうるものです。そして「口ずさむ」という表現もよく考えられた翻訳と言えます。熟考する、深く思いめぐらすという意味もあるようですが、主の教えを大事にして、文字通り記憶にとどめ、昼夜繰り返し、そのようにして、主の教えの意味の深さを味わい知っている姿が目に浮かびます。
詩人が「いかに幸いなことか」と感嘆の言葉を述べたその人が、さらに譬えとしての表現で述べられます。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。 (3 節)
日本のように周囲を海に囲まれて水に恵まれた私たちには考えられないような乾燥した砂漠地帯に住むパレスティナの人々にとって、「流れのほとり」とはまさに生の源とも言えるものであったでしょう。この源に支えられ植えられた木は、日照りで涸(か)れることはなく、一定の時間をへれば果実をもたらすことを、何らの危惧を覚えることもなく、
期待することができると言います。「葉もしおれることはない」(3 節)。まさに樹木の勢いは葉の生い茂りに直接現れます。葉を見れば、その樹木の状態が知られるのです。そしてこの流れは単なる水なのではなく、生けるものの存在の根底を支える「生ける水」なのです。このことをエレミヤは鋭く語っています。
あなたを離れ去る者は
地下に行く者として記される。
生ける水の源である主を捨てたからである。
(エレミヤ書 17 章 13 節)
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 (詩編 1 編 3 節)
「繁栄をもたらす」という繁栄を期待して主の教えを愛するようにと勧めているかのような言葉に注釈者は苦心します。もちろん詩人はここで、何か現世的利益を求めて、信仰を考える御利益宗教を勧めているのではないでしょう。「繁栄をもたらす」と訳された言葉は「ことがうまくゆく」ことです。「うまくゆく」とはかならずしも、現世的な繁栄とはかぎりません。道理にかない、ことわりにのっとって成し遂げられるということが根底にあるはずです。主の教えとは、根本的な道理であり、秩序であり、これに従うことをせず、これを外れるなら、どのように表面的にうまくいっているとしても、根本的なところで、踏み外しており、深い混乱と乱れとがやがて必ず生じてこざるをえないような、「ことわり」なのです。私たちの先人が言い慣わしてきた表現を用いれば、「人の道」ともいえるものです。
4~5節において1~3節において主の教えを愛する者と讃えられた人と対立する人が登場します。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 (4~5 節)
しかし先にも指摘しましたように、詩人の巧みさによって、この対立者が如何なる者であるかは、既に一節のところで示されています。「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」です。この三者を譬え的表現で「風に吹き飛ばされるもみ殻」と一括(ひとくく)りにします。この時代パレスティナの農業でどのようになされていたのか、詳しくは知りませんが、収
穫した小麦をうち叩いて、表皮をとり、それを木を編んでつくった用具で、空中に放り上げ、重い実だけが下に落ち、軽いもみ殻は風に吹かれて外に捨てられてゆくのでしょう。そのように所詮(しょせん)、実を欠いている故の「軽さ」のゆえに、放り上げられるなら、つまり試練に直面するなら、堪える力を欠いて、吹き飛ばされ、捨てられるに過ぎないものだというのです。どのように一時、華々しい振る舞いをして、人々の喝采を浴びるとしても、やがて風に吹き飛ばされて行くにすぎないと語ります。
「裁き」と訳されたのは、まさに告訴人と弁護人を交えて争われた法廷の討論の末、出された「判決」と言えます。前の節の譬えで言えば、小麦が高く放り上げられ、風に晒(さら)されて、吹き飛ばされることと言えます。本当の重みをもった実があれば、風に抵抗して下に落ちるのでしょうが、実のないもみ殻なので、風にあおられ、吹き飛ばされるのです。「堪えない」とは「立っていない」ことであり、吹き来たる強い風に立ち向かい、その場に留まることができず、消え去ってしまうことです。それが「裁き」です。この裁きが如何なる形で生じるかは、私たちに隠されているとしても、信仰の目を持って、神に逆らう者が「裁きに堪えない」ことを深く洞察しておくことを詩人は求めています。
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 (5 節)
先に述べましたように「罪ある者」というのは、「神に背く者」より一段階、不信の度合いが高まった状態であることが示唆(しさ)されました。先に信なき者の三つの段階が示される際に、そのどの段階も「共同の場」において生じていることを指摘しました。私たちの不信、罪は単に単独に生じているのではなく、長く重い罪の共同の流れの中にどっぷりと巻き込まれて生じていることを見ましたが、不信、罪に対立する「神に従う」「正しい」在り方も、それが成り立ち生じる「共同の場」があり、「罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」と言われています。ここでの「集い」は、先の一節で傲慢な者の「集まり」について述べられましたが、その「集まり」とは違った言葉が用いられています。この五節の「神に従う人の集い」の「集い」は、イスラエルの信仰共同体が「部族連合」として結集し、定期的に各部族が集合して祝祭の集まりを開いて、結束を確認し強めたその集まりをも、この言葉で示しています。その意味でこの五節の「集い」はより公共性の強い言葉です。罪ある者は、そのような、いわば社会、国家を根本から支えるような「共同体」の構成員となりえないことを語っています。六節は、この詩編の結論を述べています。ここでも二つの根本的な対立が強調されます。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。
ここでは対立が、二つの道として示されています。対立は単に人間の二つのタイプの問題ではなく、人がそこを踏みしめて行く「道」の対立として示されています。私たち東洋、日本の伝統においても「道」は最も重要なものとして尊重されてきましたが、聖書、ことにイスラエルの宗教的伝統の根底にこの「道」の考えがあると言われます。預言者の書から二つ印象的なものを選んでおきます。一つはエレミヤ書6章16節です。
主はこう言われる。
「さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ
どれが幸いに至る道か、と。
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
もう一つは第二イザヤの最終章イザヤ書55章8~9節です。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道はあなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを高く超えている。
詩編の記者はそのような高きにいます神がなお、神に従う人の道を知ってくださると、きっぱり語ります。神は、神に従う人の道を知り、その道を照らし出して下さることを詩人は確信しています。そして反対に、神に逆らう人の道は、どれほど繁栄し、勢いに満ちているように一見見えても、その先が断崖であり、滅びにあることを洞察しています。
この新しい年は、その先行きの困難さを改めて示すような事件で始まりました。しかし地を高く超えた主の道を信じ、如何に幸いなことかと主から親しく呼びかけられた者として、畏れを抱きつつ、歩み出したいと思います。




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