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天に我らの宿る家があり 木村 一雄

admin_ksk
4 時間前
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2026年6月14日主日礼拝説教 木村 一雄


聖書 ヨハネによる福音書第14 章1~8 節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』というのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


私たち、新しい命を戴き、6 月第2 主日の朝を迎え、新しい「今日」という日を迎えています。私たちにとって「今日」という日は、「きのう」とは違います。「今日」は「新しい日」です。その私たちにとって「今日」は、どのような日でしょうか。そして色々な思いを抱いて、ここに集っていると思います。「きのう」とは違う新しい「今日」を迎え、それも「きのう」とは違う「いのちを生きている」ということです。そして、礼拝を終え、私たちひとり一人が「きのう」までと違う何かを心に感じる歩みとなっていることでしょう。


 そういう何かを感じる私は、聖書を読んでいる時、想い出す人がおります。その人は、精神科医の神谷美恵子(1914~1979)が『生きがいについて』(みすず書房、1980)を執筆するにあたり、大きな示唆を受けた人物の一人で、詩人で音楽家・楽団指揮者の近藤宏一(1926~2009)です。彼は、かつてハンセン病を患っていました。1938(昭和13)年、11歳で岡山県の国立ハンセン病療養所・長島愛生園に入園、2009 年に83 歳で没するまで70余年その地で暮らしました。彼は、失明と四肢障がいというハンディを負いながら、ハーモニカ演奏家となり、視覚障がい者仲間によるハーモニカバンド「青い鳥楽団(英語では“Aoi Tori Band”)」を結成しました。同園の先達者で、歌集『白描』を世に出し、1939(昭和14)年、37 歳の短い生涯を閉じたハンセン病の歌人・明石海人の「深海に生きる魚族の様に、自らが燃えなければ何処にも光はない」という言葉を胸に自由闊達な精神で歩み続けた人でした。今、ハンセン病は完全に治癒する病で発症する可能性も極めて低くなっていますが、彼が若い時は状況が違っていました。彼は病のため、視力や指の感覚も失ってしまいます。

 目が不自由な人は、点字で書物を読みますが、指を使えない彼は、点字を読むことも難しいのです。ある日、心の友が聖書のヨハネによる福音書9 章1 節以下(生まれつきの盲人をいやす)を読んでいたことが、その読むという使命へのイコン(イメージ)となり、自らの舌と唇を使って、「どうしても自分で聖書が読みたい」という内面からの強い促しに突き動かされ、舌で点字を読むという手段を取るのです。点字には凹凸があり、コンクリートのように固い点字の上を僅かな触覚を頼りに、口から血を出しながら読み進めるのです。やがて舌は傷ついて血塗れになってしまいます。それでも構わず、読み続けました。その思いを『闇を光に── ハンセン病を生きて』(みすず書房、2010)という自伝の一節に、こう記しています。


私は聖書をどうしても自分で読みたいと思った。しかしハンセンで病んだ私の手は指先の感覚がなく、点字の細かい点を探り当てる事は到底無理な事であったが、知覚の残っている唇と、舌先で探り読むことを思いついた。これは群馬県の栗生楽泉園(くりうらくせんえん)の病友が始めたことで、私にも出来るに違いないという一縷の望みがあったからである。(近藤宏一『闇を光に』みすず書房)


 近藤宏一の『聖書』を読む姿は「御言葉を食べている」すさまじい気迫を感じます。「読むこと」が人間にとって、どれほど高貴な使命、召命であることを私に考えさせてくれるからです。しかも、彼の試みは、「頭」で言葉を理解しがちな現代人への良き戒めになっているように思うからです。ロシアの文豪ドストエフスキーがある手紙の中で、「真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです」(『フォンヴィジン夫人への書簡』)という言葉と、何処か共感する処があるように思うからです。

 評論家の若松英輔のコトバからも教えられますが、本を読むとき、「わかった」と思うことは、とても恐ろしいことなのかもしれません。「わかった」と感じるとき、人はそれ以上に探求しなくなるからです。『聖書』を読むときも同じです。大切なのは「わかった」という過去形ではなく、常に「わかりつつある」という状態に自分を置いておくことなのかもしれません。

 血塗れの舌で聖書を読んでいる近藤宏一の姿は、容易に「わかった」ということの危うさを教えてくれると思うのです。彼にとって「読む」とは、意味を味わうことでした。「読む」ことをめぐって、彼は次のようにも書いています。


ある者は点字聖書の紙面に舌先を触れて、直接神のコトバを味わうでしょう。

(近藤宏一『闇を光に』)


 私たちも『聖書』を読むときは、書かれていることを単なる情報として受け止めるのではなく、言葉だけでなく、その奥にあるコトバを深く味わいたいと思います。「読む」という営みそのものが一つの経験となって、これまでの自分を超えた「本当の自分」に私たちを導いてくれる。そのように、『聖書』を読みながら、深く心で味わい、生涯読み終えることができない一冊、『聖書』は我が『いのちの書』であることを「経験」し続けてみたいと心がけているのですが。


 今日与えられた聖書のコンテクスト、ヨハネによる福音書14 章1~14 節は、いわゆるイエスの「告別説教」の始まりです。十字架に架けられる前夜に弟子たちを慰め励ます場面です。

 ここの主なポイントは、次のような流れです。

「心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1 節)

「父の家には住まいがたくさんあり、イエスはそこに場所を備えに行く」(2 節)

「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(4 節)

「トマスの問いに答えて『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことはできない。』」(6 節)

「イエスを見た者は父を見たのであり、イエスの業は父が内におられてなされている」(9 節)

「イエスを信じる者は、イエスのしておられる業を行い、さらに大きな業も行う」(12 節)

「イエスの名によって求めることを、父が栄光を受けるためにイエスがかなえる」(13 節)


 ここには、慰めと約束、そしてイエスを通して〈父に至る道〉が示されている箇所であります。


 そこで、「今日」のコンテクストの前半部分、一節から六節は、葬送式の聖書朗読箇所の一つとして指定されていますが、『日本基督教団』の「式文」でも、この箇所が用いられています。

 私は、葬送式の中で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と読む度に、「神(父)の国(天国)には、すべての人を受け入れる十分な場所と安らぎがある」んだ。私たちキリスト者は、ここに最終的な救いと平安(平和)が保証されている、確かな約束と安心感があるんだと、とても力付けられ、そのあとの葬送の営みをすべて神様にお委ねして安心していけるのです。そして、この世の現世の苦難の中での安らぎや死後の「永遠の住まい」が既に用意されているということは本当に心強いことです。そこには、神様の愛や慈しみは限定的ではなく、無限で一人ひとりにふさわしい場所が神様によって用意されていることを信じていきたいのです。


 ここで、「わたしの父の家」(2 節)とありますが、これは「神の国、天国」のことです。イエスは「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言われ、そしてそこに彼らのために場所を用意するために行かれると言われたのです。つまり、私たちが生きているこの世にあっては、悪魔が支配している所である以上、心を騒がせなければならないことが沢山ありますが、それを悪魔の支配するこの世という視点で見るのではなく、この世を超えた視点、すなわち「天国」という視点で、また現在という時間を超えた「永遠」という視点で見るなら、今まで問題だと思っていたことが全く問題ではなくなってしまうのです。

 この「天国」「永遠」という視点でみることは、とても不思議ではないでしょうか。あれほどイライラしていた気持ちが、いざ天を仰ぎ見上げた途端、スーっと静まっていくのを感じることがあります。これが、イエスが教えてくださった秘訣です。天の御国を見よ· · · · · · と。天を仰ぐのです。


 私たちは、漏れなく神様の許、「天の故郷」「神の家」に帰っていきます。どんな人生を通っていても最終的に行き着く処は神様の許であり、一人も取りこぼされないという希望が、そして、やがて「天の故郷」「神の家」に迎え入れられるという信仰がそこにあります。そのような私たちに、イエス様は次のように言われました。ヨハネによる福音書14章2~3 節、

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 イエス様は、今日の聖書箇所で、私たちが天の我が家に帰る道について話されています。そこは神様が、イエス様が共におられる世界であります。「今はさびしくても、迷っているように感じても、最後は必ず神様の愛の中に帰り着く」

 ここで「家」というコトバは、当時、天の御国を描写するのに使われたコトバです。また「家(ハウス)」ではなく、「家(ホーム)」には「プラットホーム、土台・基盤」という意味があり、「我が家(マイホーム)」と聴くと、私は五一年前、東京渋谷駅のプラットホームで本当の家(ホーム)、天の我が家に帰る導きを与えられる経験をしました。そのプラットホームでの経験が今、土台・基盤となって、ここに立たされて頂いています。

 そのプラットホーム、そう思い描いていると、「峠の我が家」(原題·· Home on the Range)という一九世紀後半のアメリカ民謡を想い出します。ある程度の年齢の方は、聴いた、歌った方も多いのではないでしょうか。日本語訳(岩谷時子による訳詞)の一部を紹介します。


あの山を いつか越えて 

帰ろうよ わが家へ 

この胸に 今日も浮かぶ 

ふるさとの 家路よ

ああ わが家よ 

日の光かがやく草の道 

歌いながら ふるさとへ帰ろう


 “Home on the Range” は、アメリカの伝統的な民謡で、日本では一般的に『峠の我が家』という邦題で親しまれています。この歌は広大な草原や牧草地(range)にある安らぎに満ちた家や故郷の情景を歌ったもの。アメリカ・カンザス州の州歌で、フランクリン・ルーズベルト大統領の愛唱歌としても有名。

 イエス様は14 章2 節で、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と我が家について話され、この父の家にあなたがたを連れていくと言われます。


 イエス様は「父の家」というコトバで、地上の我が家ではなく、天の御国である我が家を意味して言っているのです。そこには、私たちの「住む所」「住まい」がたくさんあるということです。

 「住む所」「住まい」〈モネー〉というコトバには、「永久に、いつまでも」という意味もあります。だから、イエス様が言われた「住む所」とは仮住まいではなく、永久的に住み住居(すまい)と言えるだろう。そう思うと、地上の我が家も、仮住まいにしか過ぎないことがわかるのです。

 この「住む所」「住まい」のギリシア語原語〈モネー〉というコトバは、ラテン語の“Manere”「住む」になり、さらに後に、英語の“Mansion” マンション(大豪邸、大邸宅)という単語の語源となりました。「モネー」は、「神様が私たちのために備えてくださっている、安心して滞在し、とどまり、住むことのできる大豪邸」を意味します。また、〈モネー〉には「永久」ということと共に、もう一つ、「いっしょに」という意味合いを見出すことができます。イエス様の父の家は、イエス様と一緒の世界であります。帰りを待ってくれている人が、そこにいて、「我が家(マイホーム)」となるのです。

 私たちは「天の我が家」「天の故郷(ふるさと)」へ帰って逝きます。自分の歩みや弱さに不安を感じている人にとって「漏れなく」「神の家」という表現は見捨てられないこと、帰る場所があることを静かに約束してくれる言葉です。人と神をつなぐ道、地上と天をつなぐ道。私たちは、イエス様を通していのちを持ち、天の御国に至ることができるのです。

 真のホームは、神様の懐にあり、天の我が家にあるのです。私たちは一人残らず、やがて地上を去る時が来ます。それゆえ、イエス様が言われた「わたしの父の家」「わたしのいる所」に心と思いを向けたいのです。そこが私たちの本当の我が家なのであります。

 私たちは皆、最後には神様の許、神の家へと迎え入れられていきます。そして、私たちは一人残らず、神様の愛の家に帰るよう招かれているのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である」 (14:6)

と言われた救い主イエス・キリストを通して、私たちは真の我が家に帰られることを願うのです。

 あなたがたは大切なわたしの子どもというイエス様の叫びが、「わたしにつながっていなさい、わたしの愛にとどまりなさい。」「慰めてあげよう」という言葉に込められています。


 私たち、神様から与えられている愛を、誰かの手をしっかりと握り締めることができる者となりたいのです。私たちの先達たちも神様から、既にしっかりと手を握ってもらっていると信じます。

 ここに集まっている私たちと、この時を大切にして、明日へと歩んでいきたいのです。そして、私たちもいずれ神様のもとに凱旋します。私たちよりいち早く神様のもとで憩っている先達たちと合い見(まみ)えることを信じます。

「わたしが道であり、真理であり、命である」(14:6)との御言葉に促されて、励まされて、主の招きに応えて、「いのちが何であるか」を深く心に刻んで、今日を生きるものでありたいのです。祈ります。

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