あめんどうの枝
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2025年3月23日主日礼拝説教 山本 精一
聖書
エレミヤ書 第1 章1~12 節
エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
主の言葉がわたしに臨んだ。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
わたしは言った。
「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」
しかし、主はわたしに言われた。
「若者にすぎないと言ってはならない。
わたしがあなたを、だれのところへ
遣わそうとも、行って
わたしが命じることをすべて語れ。
彼らを恐れるな。
わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す」と主は言われた。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。
見よ、今日、あなたに
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。」
主の言葉がわたしに臨んだ。
「エレミヤよ、何が見えるか。」
わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」
主はわたしに言われた。
「あなたの見るとおりだ。
わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと
見張っている(ショーケード)。」
第20章7~9節
主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
あなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。
わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。
三月に入ってからも、今年は余寒の日々が続きました。そのせいかそこここに咲いた梅の花が長持ちをして、どこからか仄かに運ばれてくる香りに慰められることしばしばでありました。ところで、ただ今お読みいただいた旧約聖書エレミヤ書冒頭部にも、ある木のことが記されています。それは梅ならぬ、あめんどうの木です。新共同訳では「アーモンド」と訳されています。学生時代、敬愛してやまない信仰の先達澤崎良子さんから、パレスティナに自生するあめんどうの木の写真を頂くことがありました。それは、春浅い山野で、あめんどうの木々が、一斉に美しい花を咲かせている様を写したものでした。書斎の壁に掛けてあるこの写真を見ると、私は、澤崎さんのこと、そしてエレミヤ書のこの箇所のことを想起します。
エレミヤ書において、あめんどうの木は、一つの出来事と深く結びついています。それは、年若く繊細な青年エレミヤが、「万国の預言者」(1 章5 節、協会訳)としてヤハウェに召し出されたという出来事です。古代中近東世界の弱小国ユダ。そのユダが滅びへと転落していく危機の時代。まさしくそのような時と所の真只中で、エレミヤは、主の言葉を語り伝える預言者として召し出されます。しかしその彼の言葉は、当のユダ一国にとどまらず、万国の運命に関わるものになる。主はそうエレミヤに語りかけています。弱小国ユダのほんの片隅で起きた一つの出来事が、世界の運命を貫いていくものになるというのです。
旧約聖書学者にして伝道者、教育者であった浅野順一は、エレミヤ書を終生特愛の書とした人でありました。その彼が、エレミヤの召命経験を次のように語っています。
エレミヤに於ても彼の精神生活の転回は、彼の全生涯を決定せしむる羅針盤であった。
而して此の転回とは、実に彼の召命経験に他ならない。 (全集一巻、112頁)
エレミヤの召命経験とはエレミヤの全生涯を決する転回点であった。この浅野の言葉に
は、エレミヤ書を読む者にとって、繰り返し味わうべき含蓄深いものがあります。
ところで、この出来事そのものは、若き日のエレミヤに訪れたただ一回きりの出来事でありました。その一回的場面に、「あめんどう」という樹木が決定的な仕方で立ち現れてきています。エレミヤの召命が、このようにして、天然自然と深く結び合う出来事であったということに、私はかねてより心動かされるものを感じてきました。本文に入ります。
1章1節から3節の出だしは、後代の編集者がエレミヤ書の序文として記したものと思
われます。アナトトという所は、エルサレムより北東に約六キロ強のところにある町で
す。歩いて二時間とかからぬほどのところです。そこは歴史的には、統一イスラエル王国初代の王サウルを輩出したところにして、ベニヤミン族ゆかりの土地でありました。
エレミヤはその地の祭司ヒルキヤの子でありました。つまり彼は、アナトトで代々祭司
職についていた、押しも押されもせぬ由緒正しき祭司の家系に生まれた人でありました。しかしその彼は当の祭司職に就くことなく、あるとき「主の言葉」が彼に臨み「預言者」として召し出されたとの出だしの記述は、「祭司の家系」にあったエレミヤが、しかし祭司にはならずに、「預言者」へと召し出されたということ、言い方を変えれば、ある種「出家」の如き事態が起きたということを示唆しています。
2節では、エレミヤの活動した時代が、主として南王国ユダの三人の王、ヨシヤ、ヨヤキム、ゼデキヤの時代であったということ、さらにはユダの滅亡とバビロン捕囚の時代にわたるものであったということが述べられています。それは具体的には、ヨシヤの治世第13年(紀元前625年)からユダ王国の滅亡(紀元前586年)まで、およそ40年にわたるものでありました。彼はその後もなお、エジプトで殉教死するまで預言者として活動し続けているので、その活動期間は40年を優に超える長きものでありました。そのことのなかでエレミヤは、祖国の滅亡とバビロン捕囚というユダ史上最大の危機の時代をその内側から経験しています。そのような歴史的破局の時代のなかで、しかしその時代の深淵のただなかに立って、主の言葉を命懸けで同胞に、そして万国に向かって告知すること、エレミヤはそのことへと召し出された人でありました。
ヨシヤ以前、ヨシヤの父にしてその二代前の王であったマナセの50年を超える治世期は、政治的にも宗教的にもユダの衰退著しい時期でありました。すなわち、政治的にはアッシリアの属国同然となり、宗教的にはそのアッシリアで行われていた天体礼拝を自ら盛んに行い、偶像崇拝が国中に広がっていった時代でありました。エレミヤは、2章26~28節で以下のように語っています。
盗人が捕らえられて辱めを受けるように
イスラエルの家も辱めを受ける。
その王、高官、祭司、預言者らも共に。
彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い
石に向かって、「私を産んだ母」と言う。
わたしに顔を向けず、かえって背を向け
しかも、災難に遭えば
「立ち上がって
わたしたちをお救いください」と言う。
お前が造った神々はどこにいるのか。
彼らが立ち上がればよいのだ
災難に遭ったお前を救いうるのならば。
ユダよ、お前の神々は町の数ほどあるではないか。
しかしそのアッシリア帝国もまた没落していきます。代わって北方にはバビロニア帝国が勃興し、また南西からは同じく強大なエジプト帝国が変わらずこの地域を勢力下におくべく、この地域一帯の状況を絶えず窺っています。それら大帝国に囲まれたイスラエル・ユダ両王国は、それらからの圧迫と侵略に晒され脅かされ続けていました。
そのなかで、人心は目先の刹那的安逸に流れ、その結果、人々の信仰生活は浮つき形骸化していき、口先だけの神信仰が蔓延していきました。エレミヤは同時代人の信仰の不真実を徹底的に指弾し告発していきます。この偽善と不真実から離れなければ、祖国ユダはお前たちもろとも必ず滅ぶ、と。しかし彼のその預言は、己れの安逸と慰撫のみを求める圧倒的多数の民からの、激しい反発・嘲り・脅迫・迫害の的となります。それを一身に引き受けねばならなかったエレミヤの苦悩と悲哀は、量り知れないものでありました。
しかし、彼にそのような道を歩ませたもの、それこそが「主の言葉」(1章4節、9節、11節)でありました。しかもエレミヤに臨んだ「主の言葉」とは、桁外れのスケールをもつものでした(「万国の預言者」(5節))。それは年若いエレミヤにとって、およそ耐え難い言葉でありました。
「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」(6節)
この「ああ」という言葉にならぬ呻きに、このときのエレミヤの魂の叫びとでも言うべきものが凝縮されています。そしてエレミヤのその呻きの核心にあったもの、それが、八節、一七節の主の言葉「彼らを恐れるな、彼らの前におののくな」にはっきりと示されています。すなわち、年若いエレミヤは、「主の言葉」を語りかけるべき民の実態を念慮するとき、これを彼らに語ったならばどうなるのか、その火を見るよりも明らかな結末を、おののくほどに恐れていたというのです。
けれども、そのような彼の「ああ」を、神の言葉は遮り突き破って、エレミヤにただひたすら迫ります。その場面で主は、恐れ尻込みするエレミヤに向かって、彼をどこまでも支えぬくと語りかけます(「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」8節参・19節)。その直前の七節の後半を、ある英訳本は「誰であれわたしが遣わす者のところにあなたは行け。何であれわたしが命ずることをあなたは語れ」と訳しています。エレミヤに托された使命とは、「誰に対してであれ、またどんな事であれ、すべて語れ」というものでありました。
彼に託された使命とは、それほどまでに徹底的なものでありました。ここで「救い出す」と語られていることは、そのエレミヤの使命がどれほど危険なことと背中合わせであるのかを、逆に強く暗示してもいます。その危地へとエレミヤを送り出すことを見据えて発せられたヤハウェのこの言葉、「われ汝と共に在り」「なんじを必ず救い出す」こそ、恐れ逃げんとする若者エレミヤの存在まるごとを突き破って、預言者エレミヤの誕生を告げる言葉に他なりません。それは、エレミヤの生涯を決する、盤石の重みをもつ言葉です。
預言者とは、このように、主の言葉によって自らの一切を突破された人です。そのことを、この箇所は確と示しています。しかしそれは、本質的な意味で、われわれの信仰求道についても当てはまることです。自分自身の恐れが突破されていく、自己中心が突き破られていく。それは、どこをどう取っても、その自己中心性に骨の髄まで絡めとられている自分自身から出てくるものによって起きてくるようなことでは毫もありません。わが自己中心性を外から突き破ってくる神の言葉に出会うということ、その消息こそ、エレミヤの召命の出来事がわれわれに告げていることです。この経験は、預言者だけに限られたものではありません。われわれ一人一人に向かって、今このときも開かれているものです。
次に主は、エレミヤの口に手ずから触れたとテクストは記しています。神とエレミヤとの関係は、ここで「触れる」・「触れられる」関係として、象徴的に示されています。
主は手を伸ばして、わたしの口に触れ
主はわたしに言われた。
「見よ、わたしはあなたの口に
わたしの言葉を授ける。」 (9節)
聖なる神は人間が妄(みだ)りに近づいてよいものでは決してない。それは、旧約聖書の信仰の根幹をなすものです。(「汝の神、主の名を妄に口にあぐべからず」出エジプト20章7節)。しかしここでエレミヤは、自分ではなく、主こそが手を伸ばして自分に触れてきたと語っています。「主に触れる」とは、伝統的祭司の家に生まれ育ち、律法信仰を骨の髄にまで叩きこまれてきた青年エレミヤにとって、全身がわななくような戦慄驚愕の出来事であったはずです。このエレミヤの言葉には、自分が神を見出したのではない、神こそが自分を見出されたのだという逆転の出来事、その出来事に出会わしめられたエレミヤの畏れと驚きが烈しく脈打っています。この我ではなく神がという逆転、そこに信仰の一切の始点がある。エレミヤの召命は、その一点を示しています。
さらにエレミヤは、
あなた(エレミヤ)に
諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。 (10節)
という言葉を直ちに重ねて聞かされています。主とエレミヤとの触れ合いということは、両者の関係が人格的信頼関係のうちにあったことを、「触れ合う」というすぐれて人間的な表現で示すものでありますが、しかしそれは主とエレミヤとの二者関係の触れ合いのうちでめでたく完結してしまうようなものでは決してなく、混乱沸騰する世界に向かってエレミヤを全身全霊で立ち向かわせていく力動的な出来事でありました。それゆえ主との「触れ合い」とは、歴史の現実のなかでこそ、その真贋(しんがん)が試されるものとなっています。「諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる」というこの言葉は、そのことを示しています。主に触れられる。そのことの力動性こそが、エレミヤを、どんな国家・どんな民族に対しても怯まずに立ち向かわせていくものとなっています。
それに続けて、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」の四語と「建て、植える」の二語が、一気呵成に語られます。否定・破壊を示す審きの言葉がはじめに四度も重ねられているところに、当時のユダ・イスラエル社会の虚偽と暴虐に対する神の怒りの大きさがはっきりと示されています。事実マナセ王治下の偶像崇拝と無辜(むこ)の民の虐殺は、消し去りがたい記憶となって旧約聖書中に記録されています(列王記下21章、エレミヤ書2章26節~29節)。しかしこの厳しい審きの言葉と並んで、「建て、植える」という立て直し、回復の言葉をも、エレミヤはこのとき主から聞きとっています。後にエレミヤは、この立て直し、回復の預言を、捕囚の民に向かって語りかけていきます。
11節。ここで主(ヤハウェ) はエレミヤに問いかけます。ここでは真っ先に「エレミヤよ」というエレミヤその人に対する呼びかけが発せられています。そしてそれまでの一方的な主の命令的な断言が、ここにおいて一転して、エレミヤへの問いかけへと切り換っています。それまでひたすら黙って聞くのみだったエレミヤは、ここではじめて応答を求められています(「何が見えるか」)。しかも主は、エレミヤに対して、ただ漫然と問いかけているのではありません。
ここでの「エレミヤよ」との呼びかけは、恐れと怖じ惑いのうちにあって尻込みするエレミヤを、全面的に主の前に呼び出さんとするものです。「エレミヤよ、何が見えるのか」という問いでまず注目すべきことは、この冒頭一語、「エレミヤよ」という主ご自身の、エレミヤへの呼びかけの言葉です。「エレミヤよ、何が見えるか」との問いには、その意味で、「人よ、おまえはどこにいるのか」(創世記3章9 節)という、創造物語での神の呼びかけと深く通じ合うものがあります。
このエレミヤの召命経験では、「見る」ことと「聞く」こととが深くつながり合っています。主の呼びかけを「聞く」ことを通して、エレミヤは「見る」ことの方へと促されて動き始めています。この両者が切り離されて、「見ること」が見る者自身の思惑のうちでだけ一人歩きする事を、イエスは預言者イザヤの召命時の言葉を引いて「彼らが見るには見るが、認めず」(マルコ福音書4 章12 節)と激烈に批判していました。われわれは目があっても見るべきものを何も見ていない。聖書はそのことをわれわれに一貫して突きつけています。「エレミヤよ」との呼びかけは、その「見るには見るが、認めぬ」ところから、エレミヤを呼び出す、決定的な呼びかけでありました。
このときエレミヤは「あめんどうの枝」と答えます。あめんどう、あるいはアーモンドの木は、冬なお去りきらぬ早春に、薄桃色の可憐な花びらを咲かせます。時には極寒の一月にさえ花をつけることがあるとのことです。古のパレスティナの人々にとって、このあめんどうの花は、厳しく辛い冬をじっと耐えた後、待ち望んだ春の訪れを告げるものでありました。冬が去り、野の花が再び咲き初め、空に鳥が飛び交う季節が到来する。この点にだけ注目すれば、あめんどうとは、春到来の喜びを先駆けて象徴するものです。
しかし、このエレミヤの答えに対する主のさらなる応答を知る時、そうした自然界のイメージを遥かに超えて、あめんどうにおいて、主とエレミヤとの間で一層深い対話が起きていることに気づかされます。主はまず、エレミヤのこの応答に対して、「あなたの見るとおりだ」(12節)と答えています。すなわち、主は、エレミヤのこの答えを「よし」とされたのです。しかし事はそれで終わってはいません。ここから新たな語りかけが始まります。
わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと
見張っている。 (12節)
ここにいう「わたしの言葉」とは、まさしく10節で言われていた審きと回復の預言を指しています。その預言を、主は「成し遂げようとして見張っている」というのです。「あめんどう」という語と「見張っている」という語の原語は、本文括弧の中にあるように、それぞれ「シャーケード」と「ショーケード」というごく似通った発音の言葉です。
ここでエレミヤは、あめんどうを確と「見た」経験のうちで、自分を呼び出した方の大いなる「目覚め」「見張り」ということを、二重(ふたがさ)ねに経験させられています。
自分の「見る」ことが、自分の「見る」事一つで終わっていないのです。彼は、主の「目覚め」「見張り」ということを、このとき心底はっとするようにして覚知させられています。「あめんどうの木」とは、春の到来を先駆けて知らせるというところから、「目覚めの木」とも呼ばれていました。まさしくこのとき、天然自然の目覚めの動きと、青年エレミヤの目覚めと、主の大いなる目覚めとが、天地を貫いて一つに結ばれています。初めに、エレミヤと自然との交感ということを申しました。しかしその交感・交流とは、単にあめんどうに陶然(うっとり)とするといったことにとどまるものではありませんでした。エレミヤとあめんどうとの交感のその根底のところで、エレミヤは主の大いなる目覚めを覚知しています。自然と一体となって、しかしその自然(あめんどう)と自分(エレミヤ)との一体に臨んでいる天地の主の大いなる目覚め、その主こそが人間世界の傲慢醜悪な歴史を見張っている。その主の目覚めということにエレミヤは、このとき深々と出会っています。
エレミヤはこの箇所の少し前で、与えられた主の召命の言葉の余りのスケールの大きさに、
「わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎません。」 (6節)
と、悲鳴と言ってもよい拒みの言葉を発していました。しかしそのエレミヤに対し、主は
「彼らを恐れるな。
わたしがあなたと共にいて
必ず救い出す。」(8節)
と語りかけ、さらに手を伸ばし、エレミヤの口に手ずから触れ、その言葉をいよいよ確かにエレミヤの口に封じ込めました。のみならず、その言葉を成し遂げようと能動的に目覚め見張っているというのです。このヤハウェの言葉と目覚めの出来事に動かされて、エレミヤは、当初のか細く臆病な嘆きとは異なって、ただ一言「あめんどうの枝」と簡勁に答えています。私は、このエレミヤの応答のシンプルさに心打たれます。贅言はすべてそぎ落とされています。あるのは、「あめんどうの枝」という一語のみ。おそらくこの時、エレミヤは、本当にあめんどうの木を生まれて初めて見るような新しさの中で見ていたのでしょう。そしてその「見る」ことのなかで、「主の目覚め」に忽然と打たれ、その深い驚きに震われつつ、全身全霊を挙げてこの一語を発しているのだと思います
このエレミヤ書の消息から、主の言葉に触れるということ、否、主の言葉がわれわれの魂に触れてくるということ、そのことのかけがえのない重さというものを教えられます。初めに紹介した浅野順一の「全生涯を決定する羅針盤」という言葉が思い返されてきます。思い起こせば、私は、この破れた生涯のなかで、しかし「主の言葉」に触れて生きるということを実証する先達たちに出会わしめられてきました。その雲のような証人たちの「日々、分かっても分からなくても聖書にこつこつと触れ そして祈る」姿を、このエレミヤの召命の消息に即して思い起こさずにはいられません。
エレミヤにとって、いつもは何気なく見ていたであろう「あめんどうの枝」が、この時ほど深い意味と輝きとをもって迫ってきたことはなかったのではないか。日常の生の真只中でわれわれがまったく見ていないものに、何か本当に自分自身が森と静まり返るようなかたちで出会い直していく。その経験そのもののなかで、主の大いなる「目覚め」というものにはっと気づかされていく。そして一人一人がその「目覚め」を覚知しつつ新たに生きるべく呼び出されていく。そうした事の一切が、実は、信仰の眼を与えられるということを貫いているのではありますまいか。エレミヤは、そのことをこのとき一身で経験しています。「あめんどうの枝」との一語は、その経験の一切を静謐に示す言葉に他なりません。
しかし同時に見落としてはならないことがあります。それは、主との対話のうちで「目覚め」へと導かれていったエレミヤが、「諸国民」「諸王国」に対して立てられた「万国の預言者」として、この主の言葉のみを頼みとして、歴史の危機の渦中で「堅固な町」「鉄の柱」「青銅の城壁」(1章18節)となさしめられたということです。主の目覚めに深く与る召命のうちで、苦難と嘆きに身を粉々にされ続けたエレミヤ。しかし、あめんどうの枝をリアルに見た者の歩みは、そのようにしてなお歴史の現場で、主の目覚めを生きぬくものでもありました。
自分が見透かされるということは、恐ろしいことです。目覚めた者の前に立たされているということは、その意味でとても恐ろしいことです。誤魔化しがまったく効かないからです。しかしわれわれの現実は、この誤魔化しを他人に対して小利口にやりくりしながら生きていると言うのが偽らざるところではないでしょうか。エレミヤが経験したのは、そうした人間の不真実そのものに向かって、目覚め(ショーケード)の主が、われわれ一人一人の名を呼び出し、そして「何を見るか」と応答を求めているということに他なりませんでした。「目覚め見張る」主とは、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、建て、植える」主であるということを、エレミヤは示されています。この「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、建て、植える」主に畏れを深くするか否か。すなわち、そのことを、今まさしく、われわれの歴史的破局に向かって、万国に向かって発せられている言葉として聞くか否か。そこにまた、われわれの将来は懸かっています。
エレミヤが見ていたのは、あめんどうの枝だけではありませんでした。北から迫ってくる「煮えたぎる鍋」(13節)をも見ていました。「主の見張り(ショーケード)」を知り信ずる「万国の預言者」は、今ここに迫りつつある歴史的危機を、「主の目覚め」のもとで恐ろしいまでにリアルに感知しています。
こうして、エレミヤのあめんどう経験は、彼のその後の歩みにとって、一回的にして決定的な意味をもつものでした。ところで、エレミヤ書中には、「エレミヤの告白」と呼ばれる箇所が幾つか出てきます。先ほど司会者に読んで頂いたのはその一つです。
主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
あなたに捕えられました。
あなたの勝ちです。
私は一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
私が語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、私の心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
私の負けです。 (20章7節~9節)
エレミヤの肺腑を抉るような告白は、彼がこの主の召命に生きるとき、どれほどの困難と悲哀を経験したのか、そのことを痛切に示して止むところがありません。彼は、その生涯にわたった困難と悲哀の場面場面で、この一回的にして決定的な召命経験の意味をくり返し問い直し続けています。危機に直面するたびに、エレミヤは、自らの初めの召命経験を、それが決定的な重みを持っていたからこそ、それだけ真剣に「本当にそうなのか」と悲哀のうちに問わざるを得ませんでした。しかし、そう問い直す度ごとに、誰よりも当のエレミヤ自身が深く新たに問われていたに違いありません。預言者とは、その意味で、主の言葉と格闘し続けた人、そしてそのことのなかで自ら問われ探られ、そして新たに生かされていった人でありました。
われわれの人生には、そのときの本人の自覚の有無に関わらず、その生そのものの方向を大きく決定するような出会いの瞬間というものがあります。しかし、その出会いそのものの意味は、その出会いの瞬間には、まだほとんど隠されたままです。この出会いの意味とは、その後の自分自身の人生の歩みのなかで、深く気づかされていくこともあれば、逆に気づくこと一切ないままで終わってしまうこともあります。
預言者エレミヤは、その生涯を通じて、くり返し困難な問題に直面する度に、この若き日の召命経験、自らの人生を決した経験を、零地点に戻って深く問い直していたはずだと申しました。それは一面きわめて苦しい経験です。しかしそこには神とのなれ合いを破壊していくラディカルな信仰姿勢が息づいています。そのことのなかで、生ける神に呼びかけられたという出会いの恵みは、彼の苦悩と逡巡を突き破るものでありました。
荒地に立つあめんどうの枝のビジョンは、彼の生涯の節目節目において、主の目覚めを彼にありありと想起させ続けたものであったはずです。このエレミヤの信の真実にふれる時、われわれもまた、狂わんばかりに悪虐な今このときの歴史的破局のなかで、しかしこの「主の目覚め」によってこの歴史は見張られているのだということ、そしてその主の「あなたと共にいて、必ず救い出す」との言葉が語られているのだということ、その一事のうちに、わが底なしの不真実を破られる御方の約束を確と聞く者でありたいと願います。そのとき、われわれが、この時代のただなかで何を見るのかが深く問われているということをも、忘れずにいたいと思います。目覚めておられる主の呼びかけに与りつつ、畏れをもって、われらの時代の悪虐な不真実への審きの声をあやまたず聞く者でありたいと切に祈るものです。
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