2025年1月26日主日礼拝説教 木村 一雄
聖書
エレミヤ書第31 章15~17節
主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む
息子たちはもういないのだから。
主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る。
エフェソの信徒への手紙2章14~16節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
新しい年に入ってひと月が過ぎようとしています。今日の旧約聖書のテクストに「あなたの未来には希望がある、と主は言われる」とあります。「希望がある」「希望をもって生きる」ということは大切です。そして、今、与えられているものに感謝して、今を全力で生きることは大切なことですが、昨今の政治の抱える問題について思う時、この「希望」という言葉が虚しく響いて来たりします。声音(こわね)の甘さに引き摺られて、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、そんな移ろいやすく流れていく毎日の変化に無関心であってはならないと思うのです。私たちは、時代の暗がりの中、隔ての壁を取り壊してくださった神様に我が足元を照らされて歩むものでありたいのです。
真に日本の状況を考えるとき、「希望」は中国の小説家、翻訳家、思想家である魯迅
(1881~1936)の言葉を借りれば、「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。」と、人間の希望と道筋について、当初は空疎で存在しなかったが、人々が通り始めると、自然と道ができ上がってくると「希望」について語っているのですが、私は「希望」とは聖書の御言葉から探し求める長い旅の列車に乗るような気もします。
このような私たちに対して、聖書は、はっきりと「あなたの未来には希望がある」と宣言します。この言葉が語られたときの「状況を考えるとき」、そのメッセージには特別な重さがあります。この言葉は戦争によって祖国が滅ぼされ、多くの同胞が殺され、またバビロン捕囚となった破局の真只中で語られているからです。
その破局の真只中で語った預言者エレミヤは、戦争によって子どもを殺された母親たちの中に、愛する者を奪われた人々の間に、すべてを失って茫然自失する人々に向けて、もはや生きる希望もないと嘆き悲しむ人々の傍で、「苦悩に満ちて嘆き、泣く声が聞こえる」その只中から悲しみの余り、もはや神さえも信じられない人々に向けて、次の言葉を語り
ます。
泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある。
彼は神様からの希望の言葉を伝えます。しかしその言葉は悲嘆に暮れる人々には理解
されませんでした。彼は激しい非難に曝され孤立します。彼もまた「苦悩に満ちて嘆き」
悲しみ涙します。「泣くな。目から涙をぬぐえ。苦しみは報われる。希望はある」という
慰めは誰よりもまずエレミヤその人をも励ます言葉です。彼自身がこの言葉によって支え
られ、未来に希望を抱いて立ち上っていればこそ、この言葉を人々に伝えずにはいられな
かったのです。
エレミヤが生きたのは今から2600 年前ですが、その時代の人々も今の私たちと同じよ
うに、経済力や政治力、軍事力こそが国家の要(かなめ)であると考え、神様によって生
かされていることを自覚して慎み深く生き、お互いを労わることを疎んじました。
人は兎角、自らの力のみに依り頼み、それが危うくされると無力感に苛まれ、希望を見
失ってしまいますが、そうであればこそ、私たちは命の源である全能の神の揺るぎない御
支配のあることを心に刻み、「あなたの未来には希望がある」と告げる神に応えて、今こ
こでその責任を果たす者でありたいと思います。箴言24 章14 節に
魂にとって知恵は美味だと知れ。
それを見いだすなら、確かに未来はある。
あなたの希望は断たれることはない。
とありますように、畏れと慎みを知る真の「知恵」ある者には未来があり希望があるとい
うのです。
今年は、アジア・太平洋地域で侵略戦争を重ねた軍国主義・日本の敗北から80 年です。
この節目の年に、日本は痛苦の教訓から真摯(しんし)に学び、間違いのない道を歩ん
でいるのか、厳しく問われています。そんな私たちは2025 年の新しい歩みは始まってい
ます。「新しい」という言葉に私たちはいつの時代も希望に期待と祈りを込めて漕ぎ出す
のです。新しい年は、私たちにどのような歩みが待っているのでしょうか。私たちは先の
見えない時を生きていると言っても過言ではないかと思います。突然予測しないことが目
の前に現われてくるということがあっても、去年とは違う新しい、別の事がきっと起こっ
てくるだろう、という気配を感じるものです。しかしその一方で、そのような思いの中に
あっても、今これまで普通のことと感じていた状態から、次第に「混迷の時代」の波がヒタヒタと足元に近寄って来ているような気がします。(「危機」は: 英語「クライシス」、ギ
リシア語「クリシス」に由来)「不確実と危機の時代」と言われている世界は今、どこに行こうとしているのでしょうか。
私たちはその膨大な情報の中で自分が溺れそうになり、大切なものを失っていく恐れを
感じます。その危機に直面した時に試されているのが、私たちの想像力、すなわち考える
力です。その想像力を鍛えるのに最も重要なのは、批判(クリティーク)する力。批判す
る力とは「よく吟味して分析する」という力を意味しています。
情報サービスを提供する巨大IT企業による監視が極めて問題なのは、生きるのに必要不可欠な「内面性」を私たちから奪うからだといわれています。その一方、巨大IT企業のサービスを利用せずに生活するのは、現実的に不可能になっています。今、私たちに必要なのは、「個人の内なる聖域」を守る権利は手放さないということです。そして、この「危機の時代」の今、ウクライナ・パレスチナへの侵攻とその戦禍の悲劇、気象変動、パンデミック、テロリズム、国際協力の停滞、民族問題・・・・・・数え上げると切りがありません。私たちの2025 年に付き纏う不安は真剣に生きようとするなら、どうしてもそれは考える時間と批判的(クリティーク)な想像力が伴います。
この問いに聖書は正面から答えてくれています。今日のもう一つのテクスト、新約聖書
のエフェソの信徒への手紙を見てみますと、ここで問題になっているのは民族間の問題で
あります。とりわけ、ユダヤ人とユダヤ人以外の異邦人と呼ばれる人たちとの間に平和で
ない状況があったとされます。そういう不幸な状況に対して、イエス・キリストの出来事
によって、不幸な民族間の関係は既に破棄されているとして、
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉
において敵意という隔ての壁を取り壊し (14 節)
と語りかけ、「敵意」という「憎しみ」を乗り越える根拠がキリストであると、パウロは
主張するのです。すなわち、「危機の時代」に「敵意」という「憎しみ」を乗り越える根
拠と力が、キリストにあるということです。
そして、聖書の言葉は「二つのものを一つにする」とあります。イエス・キリストは、
被害者と加害者の双方を御自分において一つにするお方です。分断を壊し、憎しみの壁を
壊し、一つにするのです。その新しい人に新しい関係にもう一度、創り直すのです。この
様にして、イエス・キリストによって平和を、和解を実現するのです。
ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻、ガザでの虐殺や戦火は一時停戦ですが、ま
だ本当に和平は不透明で火種は燻っています。ほかの地域で紛争が相次ぎ、止まることを
知りません。こんな酷く冷酷で、愛なき闇の中で、私たちは国と国を考えると同時に、私
には何ができるのかを自分に問いたいのです。私たち一人ひとりにも、和解が難しいと思
う相手はいるでしょう。また、うまくやっていくのが難しいと思う人がいるでしょう。そ
んな時、私たちはもう一度、十字架の前に進み出たいのです。それは、主イエスの痛みを
知ること、相手の痛みを知るために進むのです。そこで、憎しみの相手の人間性に気付く
のです。十字架の前で、必ず、お互いの痛みと人間性に気づかされる筈です。十字架の前
ならば、それも主の十字架の前ならば、その人と必ず一つになることができるのです。
〈十字架による和解〉、それは隔ての心の壁を乗り越えて、負い目を、痛みを十字架の
前に持ち寄ることから始まります。互いの痛みを知ることで、相手の人間性を超えた人格
に気付き、憎しみを持っていた人が互いに一つになってゆく、互いの十字架を負って共に
生きる、それが神の和解です。
この「互いの十字架を負って共に生きる」ということで想い起すことがあります。今か
ら36 年前になりますが、1989 年3 月、私は東京神学大学を卒業して四国の琴平教会に赴
任する直前、詩人の島崎光正・キヌ子ご夫妻をお連れして、スイス・ギリシア・イスラエ
ルの一五日間の旅に行ってきました。そのギリシア・イスラエルの旅をした際に詩作され
た作品を詩集『風のしおり』(教団出版局)に二四編収録され、1992 年に島崎氏の5 番目の詩集として出版されました。島崎光正氏が一五日間という短い旅にもかかわらず、24 編というこれだけ多くの詩を書き得た理由は、それだけ問題意識を抱えていたことによるも
のでありましょう。そしてこれらの詩は、単なる外国の風景描写に終わらず、そこには長
い間、聖書研究の蓄積ともいえる深いキリスト者の信仰の魂を静かに読む想いがするので
す。その旅の詩集の一編をご紹介致します。
その上を
されこうべの丘に向かって
みずから十字架を負いながら
イエスが歩まれた
ビア・ドロロサの道
長い石畳の
ドロロサの道
切れ目のなかった
登りの
ドロロサの道
日蝕に向かい
黙殺と
疑惑と嘲笑の視線を浴び
花影をふりかえるいとまもなく
刻まれた道
誤解の目を上に向け
すでに
投げられていた道
外(そ)れることのなかった
ドロロサの道
足腰立たぬ
僕を負い
その上を歩いてくれた
(初出『共助』1992 年2 月号)
この短い詩の中に、ビア・ドロロサ(ラテン語Via Dolorosa(「苦難の道」の意))が四度も出てきます。
「ドロロサ」は「苦しみ」「悲しみ」のラテン語。「ビア」とは「道」「行き先」。キリ
スト教世界(主にカトリック)で、磔刑判決を受けたイエスが十字架を背負って処刑場ま
で歩いた道のり。すなわち、ポンテオ・ピラトの館からゴルゴダまでの約700メートルの
道のり。
この詩の〈イエスが歩まれた〉とは、そのまま光正氏と重なります。悲しみの中の愛を
見つめている眼が自然に伝わってきます。光正氏は、イエスの歩いた悲しみの道を、彼自
身は「足腰立たぬ/僕を負い/その上を歩いてくれた」と結んでいます。彼の実感であっ
たと思うのです。80kg あったずっしりと重いからだをある処では背負い、またある処で
は車椅子ごと抱えて移動するために、ほかに三人の神学生の協力を得て旅路を続けること
が出来ました。そのように支えられた光正氏の心の中は祈りに満たされ、顔は静かに祈り
の中に入っている様になりました。ゴルゴダの道を歩むことは、悲しみの道であり、生き
る道であったのではと想像します。光正氏にとっては友の背を借りて、共に歩いた私たち
も「いのち」の輝き、尊厳に深く感動しました。
〈されこうべの丘に向かって〉の道は、それぞれの位置に矢印のような順路が示され、
迷うことなくゴルゴダの丘に到着できるように案内されていて、ゴルゴダは広くはない
が公園になっていて散策できるようになっています。いろいろの国の巡礼者たちが階段に
なった丘に立って、ある時は五人、ほかの時は十人前後の人々が讃美歌や聖歌を合唱して
いた。この「その上を」の詩の終り三行の詩句に詠われているように、十字架について光
正氏は現代の十字架の意味を、もっと、人間に近い処から語っています。彼は、「今の時、
十字架を負うとは」で、次のように述べています。〈……そして先ほど、十字架を負うこ
との意味を、それによって人間の弱さを味わい、神に信頼を移すことだと申し上げました
が、ここにおきましては、隣人の存在に目覚め、そのために少しでも十字架を負う、その
ような積極的な内容へと変化があるべきではないでしょうか〉。(島崎光正著『神は見て
良しとされた』新教出版社、1991年)
この光正氏の受け止め方は、大上段に構えた十字架の問題としてではなく、もっと身近
な、一種の思いやりの心ともとれる具体的な言葉で語っています。〈隣人の存在に目覚め、
そのために少しでも十字架を負う〉。このことは、少なくとも「共に生きる」人間のルー
ルともいえる事柄として挙げています。
また、ある神学者の話のなかで、一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリスト
を信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、ひと言、「キリストは、
私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語ったとあります
(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。
このように、私たちも、十字架の前に進み出たいのです。そこで、主イエス・キリスト
の痛みを知ること、相手の痛みを知るために進み出るのです。そこで、憎しみの相手の人
間性に気付くのです。十字架の前で、必ず、お互いの痛みと人間性に気づかされるのです。主の十字架の前ならば、その人と必ず一つになることができるはずです。〈十字架による
和解〉は、隔ての心の壁を乗り越えて、痛みを十字架の前に持ち寄ることから始まり、互
いの痛みを知ることで、相手の人間性を超えた人格に気付き、憎しみを持っていた人が互
いに一つになってゆく、それが神による和解です。
この2025 年の初めに、しばし立ち止まって、神様が私たちの罪をその度にゆるし、す
べての負い目をゆるして下さる神様の恵みを思い起こすなら、私たちの心は希望と平安で
満たされるでしょう。だからこそ、主イエスは、「主の祈り」に要求の厳しい文言を入れ
ています。私たちの負い目をゆるして下さいと御父に願った後で、「わたしたちも自分に
負い目のある人をゆるします」と加えています(マタイ六12 参照)。他者の負い目をゆる
し、その人に希望を与えるには、まさしく、神の慈しみから齎(もたら)される同じ希望
で、自分の人生が満たされていく。この神の与える希望は、勘定を抜きにした寛大さの中
に溢れ、債務者からの支払いに執心せず、自分の利益を案じずに、一つの目的だけを見据
えています。
倒れた人を立ち上がらせ、折れた心をいやし、いかなる形態であれ、奴隷状態から解放
する希望です。祈ります。
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