キリスト者の生活
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- 4月29日
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2025年3月16日主日礼拝説教 下村 喜八
聖書
コロサイの信徒への手紙I 第3章12~17節
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
はじめに
私は奈良県の御所市に住んでいます。生まれ育だった所でもあります。過疎化が進み、市の人口は50年前には約38,000人でしたが、現在は23,031人に減りました。昨年末、御所市には書店が一つもない状態になりました。本屋さんが無くなるのは寂しいものです。仕方がないので、自動車で30 分程かかるモールに行きました。そこにはかなり大きな書店があり、マザー・テレサの『日々のことば』(女子パウロ会)を見つけました。何が幸いするか分かりません。すばらしい本で、以来毎日読んでいます。読みやすい本です。
実践に裏打ちされた言葉ですので力があります。記述が具体的で、日々の生活と密接に関わる言葉であるため、生きるうえでの示唆や助言や勧めを与えてくれます。また、このようなことであれば自分も実行できそうだと思えてくるから不思議です。今日はこの本をご紹介したいと思います。ただ感銘を受けた箇所をアトランダムに紹介するのではなく、今日の聖句と関連づけてお話しできたらと思っています。
1. マザー・テレサ
マザー・テレサ(1910~1997)については皆様よくご存知のことと思いますが、少し思い起こしておきたいと思います。訳者(いなますみかこ氏)の「あとがき」を参照してお話しします。
マザー・テレサは、1910年にスコピエ(現マケドニア)の裕福な家庭に生まれました。カトリック信者である母は、いつも食卓に貧しい人を招き入れ共に食事をするような人でした。18歳のときにアイルランドの修道会に入会、その後インドへ派遣されました。38歳の夏、ダージリンへ向かう車中で神の声が聞こえてきたと言われています。そして38歳のときに、たった5ルピー(約150円)を手にひとりでスラムに入っていきました。一九四八年に貧しい人たちのためにはじめたこの行動は、半世紀を経て全世界120の国に広がりました。彼女が創立した「神の愛の宣教者会」の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されない人、誰からも世話されない人のために奉仕すること」でした。貧困や病気でなくなる人を見取るための施設「死を待つ人の家」、児童養護施設「子供の家」、そのほか修道院、医療施設、リハビリ施設等を設立しました。神の愛の宣教者会は今では6,000人のシスターやブラザーを擁し、現在も多くの若者をひきつけ、いつも世界中から集まるボランティアでいっぱいだということです。1979年にノーベル平和賞を受けました。その他たくさんの顕彰を受けています。
先ほどお読みいただいた聖書の箇所は、私の好きな聖句です。キリスト者のあるべき生活、ありたい生活を簡潔・明快に語っていると思われます。前述のマザー・テレサの本を読んでいますと、聖書のこの箇所の見事な注解あるいは解説であることに気づきます。
3章12~13節をお読みします。
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、
慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっ
ても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同
じようにしなさい。
「聖なる者」というのは、コロサイ書では、「義とされた者」とほぼ同じ意味で用いられています。
ここに憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という五つの徳目が並べられています。「忍び合う」、「赦し合う」をも加えると七つになります。どれも、私たちもそうでありたいと思うものばかりです。そしてこれらの徳目を前後から挟む形で、その理由、および実行を可能にする力が書かれています。前には「神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されているのですから」とあり、後ろには「主があなたがたを赦してくださったように」とあります。神に愛されているから、罪を赦されているから、上記の徳を身につけることが可能となります。私たちは自分を律して自分の能力だけでそれらの徳を実行することはできません。マザー・テレサは次のように語っています
2.愛
「マザー・テレサ、
あなたは、何でもただで与えて、
貧しい人たちを甘やかしています」と言われたとき、
わたしはこう答えました。
「神ご自身以上に、
わたしたちを甘やかしている方はありません。
神は、いつでもわたしたちに、
ただで与えていらっしゃいます。」
わたしたちの持っている物はすべて、
神からの無償の贈り物です。(234頁)
また神の愛は、「命の活力で満たしてくれる太陽の光のようなものです」(402頁)とマザー・テレサは言います。
「互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように。」(ヨハネ13章34節)
イエスさまは、わたしたちのために
十字架上で苦しみ、死んでくださったほどに、
わたしたちを愛してくださっているのです。(163頁)
この(次の)言葉はわたしを満たし、わたしを無にしてくれます。
「わたしの神、主よ、
他に何もなさることがないかのように、
あなたのすべてを傾け、
こんなにも目を凝らして求めておられる人間の心とは、
いったい何なのですか……?」(190頁)
詩編8にあるように、神はご自身のすべてを傾けて、人間を顧み、私(神)のもとに帰れと人間の心を求めておられます。
3.謙遜
「この言葉はわたしを満たし、わたしを無にしてくれます」とありますように、神の愛は私たちを謙遜にしてくれます。ところでこの本の翻訳では謙虚という言葉が用いられていますが、謙遜と同じ意味であると考えられます。今日のお話では謙遜と謙虚が混在することになりますことをご了承ください。
もし、わたしたちが罪でいっぱいなら、
神はわたしたちを満たすことはできません。
たとえ神さまでも、
すでにいっぱいのものを満たすことは、
おできにならないからです。
ですから、わたしたちは空っぽになるために、
ゆるしが必要なのです。
そうすれば、
神がわたしたちを、ご自身で満たしてくださるでしょう。 (169頁)
「わたしたちは空っぽになるために、ゆるしが必要なのです」という言葉は不思議な印象を与える言葉です。かつ意味深長です。立ち止まってよく考えてみる必要があります。「ゆるし」とあるのは、キリストの十字架による罪の贖いのことです。「空っぽになる」とは、何も持っていないこと、何もできないこと、無になるということでしょう。生まれながらの私たちは罪でいっぱいの状態です。神は、その罪を赦すことで取り除き、空っぽにしてくださいます。そして空っぽになった私たちを神ご自身で満たしてくださいます。
空っぽになった私たちを愛でいっぱいにしてくださいます。
謙遜になることは非常に難しいことです。皮肉なことに、心にゆとりがあるときは謙遜
でいることはできます。しかし、相手にないがしろにされたり、ぞんざいな扱いを受けたりすると怒りと傲慢が頭をもたげてきます。そして自分の心を治めることができなくなることがあります。82歳にもなってなんと情けないことかと思います。
「コロサイ書」に「偽りの謙遜」という言葉がでてきます。戒めや教えを実行することによって神と人の前に自分の正しさを主張する人々が見せる謙遜な態度に対して、この言葉を使っています(2章18、23節)。謙遜は美徳ですので身につけたいと思います。しかし、なろうと努力してなれるものではありません。この世で見かける謙遜は、ほとんどすべて外見だけの謙遜です。人に良く思われたいから、人望を得たいから謙遜な振舞いをします。自分の欠点を隠すために、あるいは小心者であるためにそうします。せいぜいところ人間関係を良好にしたいためにそうします。そして人前で謙遜な振舞いができたら、人から好感をもたれますから、自分のことをまんざらでもないと思い、自己満足をし、そのような自分を誇ります。それゆえコロサイ書は、そのような人は、「肉の欲望を満足させるだけである」(2章23節)と言います。自分に得るところがあるから謙遜に振舞っているのであります。ルターは次にように言っています。ルターは実に人の心をよく知っています。
真に謙遜な人は、結果には目もくれません。真の謙遜はそれみずからを知らないので
す。もし知っているとすれば、美徳を誇らざるをえないでしょうから。 (『クリスマ
スブック』)
イエス・キリストに出会い、自分の罪深さを知らされ、自分が無であることを知らされ
て、はじめて私たちは謙遜になることができます。そのとき自分は謙遜であることを知りません。マザー・テレサは次のように言います。
「もしあなたが、がっかりしたのだとしたら、
それはあなたのうぬぼれの表れです。
それは、あなたが、
あなた自身の力を信じていることを表しているからです。
あなたの自己充足感、あなたの自己中心、あなたの知的なプライド、
それらは、
神があなたの心の中に訪れてくださることを抑えてしまうでしょう。
神はすでにいっぱいのものを満たすことはできないからです。
それは、ほんとうに単純なことなのです」。(386頁)
ルターと同様、マザー・テレサも人の心をよく知っています。私たちは何かを企てて、それがうまくいかなかったとき、がっかりします。また人の役に立ちたいと思って行ったことであっても、報いられないときにがっかりします。しかしそれらはうぬぼれの表れだとマザー・テレサは言います。その通りであると言わざるをえません。思い当たることがたくさん浮かんできます。
ある神学者は、「謙遜とは、贖われた魂の自己自身の前での驚きである。いな、むしろ、自分自身の内なるキリストの前での驚きである」(ピーター・フォーサイス)と述べていますが、このように取るに足りない、罪に沈んだ者のために、キリストが十字架にかかって贖ってくださったことは、驚き以外の何物でもありません。ちなみに、この言葉に私が強く心を惹かれた理由は、驚きが完全に受動的な感情であるという点にあります。キリスト教は徹頭徹尾、受け身の宗教です。初めに神の愛があります。私たちは神に愛され、罪を赦されたがゆえに、人を愛し、人を赦すことができるようになります。多く赦された者が、多く愛することができます(ルカ7章41~48節)。私たちは、「コロサイ書」の筆者のように、キリストの愛と真実によって打ち勝たれ、圧倒されたときにはじめて、他者のために苦しむことを喜びとし(1章24節)、他者の罪の重荷を担うことができるようになります。私のように引っ込み思案の人間でも、積極的、行動的になることができます。
あなたの目を、あなた自身に向けることをやめ、
あなたが何も持っていないこと、
ましてや何者でもないこと、
何もできないことを喜びなさい。
あなたの無があなたを脅かすときはいつでも、
イエスさまに向かって大きくほほえみなさい。
ただイエスさまの喜びだけを持ち続けるように。
それがあなたの力ですから。(172 頁)
「イエスさまの喜び」はイエスさまが与えてくださる喜びのことです。「わたしは柔和で謙遜な者である」(マタ11章29節)と語られたイエス・キリストは、自己を無にして、取るに足りない、罪人に過ぎない私たちのところに降りてきてくださいました。人間の最も暗い状況にまで、すなわち神のおられない場所にまで降りられました。そして罪と、そこから生じる苦悩とを担ってくださいました。そのようにキリストは自己を無にして、私たちの罪を贖ってくださいました。自己を無にすることはギリシア語でケノーシス(自己無化)と呼ばれています。そしてケノーシスは日本語で謙遜と翻訳することができます。キリストのケノーシスを通して神の眼差しは貧しい者、虐げられたもの、当時罪人とされていた人たちに注がれます。そしてキリストの謙遜による罪の贖いの中に神の愛が啓示されています。したがって、キリストの謙遜と愛は切り離すことはできません。むしろ両者は一つです。ケノーシスはキリスト教の本質であると言えます。キリストに倣って生きたいと願うキリスト者にも同じことが言えるはずです。15節に「愛はすべてを完成させるきずなです」とありますが、愛を謙遜と言い換えて、「謙遜はすべてを完成させるきずなです」とすることも可能です。謙遜は、愛と同じようにすべての徳を生み出し完成する源であり、すべての徳をたばねると同時にすべての人を結び合わせるきずなとなります。マザー・テレサは「謙遜の徳のみが私たちに一致をもたらし、一致のみが平和をもたらすのです」(『愛と祈りのことば』PHP、108頁)と言います。
謙虚さはすべての徳、純潔さ、慈愛、忠実の母です。
謙虚のうちに、
愛は本物で、献身的で、熱烈なものになるのです。
もし、あなたが謙虚ならば、
ほめ言葉も不評も、あなたを害するものではありません。
あなたは自分が何者なのかを知っているからです。
もし、あなたが非難されても、失望することはありません。
もし、あなたが聖人と呼ばれたとして、
いい気になることはないでしょう。(344頁)
ほめられてもいい気になることなく、けなされても落ち込むことがない。そうでありたいものです。私たちが空っぽになるとき、自分が何者でもないことを知るとき、キリストが私たちの中に生きてくださいます。ですから、逆に、ほめられていい気になり、けなされて落ち込むときは、私たちの中にキリストがおられない証拠であると言えます。
神と顔と顔を合わせるとき、
わたしたちは誠実であるしかない状態になり、
自分自身がまったく無であることを知るでしょう。
わたしたちが、
自分自身の無価値や、はかなさに気づいたときにのみ、
神はご自身で、わたしたちを満たしてくださるのです。
わたしたちが神でいっぱいになったら、
わたしたちのすることはすべて、
何でもうまくいくことでしょう。(362頁)
そうなれば「すべてよし」です。しかし私たちの生活を省みると「言うは易し」です。
ただ、次の言葉にこれを実行するヒントがあるように思われます。ちょっとしたことに心
をかけることから始めることが大切だと分かります。
神の優しさの、生きている表現でありなさい。
あなたのまなざしに神の優しさが、
あなたの表情に神の優しさが、
あなたのほほえみに神の優しさが、
あなたの暖かいあいさつに、神の優しさが表れますように。
わたしたちは、皆ほんの少しお役に立ち、
そして、過ぎていく神の道具なのです。(122頁)
最後の二行は実につつましい謙虚な言葉です。マザー・テレサは自分を神の愛の運び
手、道具だと考えています。
わたしはマザー・テレサという名前を使っていますが、
それは単なる名称であって、
ほんとうは神の愛の共労者であり、神の愛の運び手なのです。
今日、神はわたしたちを通して、
この世界を愛しておられます。
特に人々が、
神を過去のものにしてしまっているこんな時代には、
あなたやわたしが、
愛する心、生活の純粋さ、深い思いやりの心を通して、
神は、今もいらっしゃるということを世界に証明するのです。(19頁)
最後の一行がとても印象深い言葉です。私たちもまた、現代の神なき世界にあって、神は今もいらっしゃることを世界に証明したいものです。そのために用いられたいと思います。
わたしはいつも、
自分は神の御手にある小さな鉛筆であると言っています。
神がお考えになり、神がお書きになるのです。
神は、すべてのことをなさいます。
でも、ときには、とても大変なはずです。
わたしは折れてしまった鉛筆で、
神はときどき、少し削らなければならないからです。
神の手の中の小さな道具になりましょう。(251頁)
4.すべての人の中にキリストを見る
わたしは、わたしが触れるすべての人の中に、
キリストを見ています。
彼は、こうおっしゃったからです。
「わたしは飢えていた。わたしは渇いていた。
わたしは裸だった。わたしは病気だった。
わたしは苦しんでいた。
わたしには家がなかった。
そしてあなたが、わたしの面倒を見てくれた」
(マタイ25章35節~36節参照)(117頁)
マザー・テレサはどのような人と出会うときにも、ほほえみ、目をきらきらとかがやかせていたそうです。自分を意地汚くののしり、批判する人に会うときも同じきらめく目をし、ほほえみをたやさなかったそうです。マザー・テレサは相手がだれであれ、相手の心にイエス・キリストが宿っておられることを信じ、その人がもっている「神の似姿」としての尊厳を見ていました。そのようなマザー・テレサの態度は、相手の中に眠っている神の子としての姿をめざめさせ、引き出してくる働きをしたものと思われます。
5.つつましい日々の行いに愛を込めて
マザー・テレサはマハトマ・ガンジー(1896~1948)について次にように言っています。
ガンジーは、神が彼を愛したように人々を愛しました。
(……)
ガンジーの非暴力主義は、
わたしの理解では、
銃器や爆弾などの武器を使わない、というだけではありません。
まず、わたしたち自身の家に、
愛と平和とあわれみが必要だと言っています。
そして、もしその同じ愛や、あわれみの心を
家の外でもお互いに持つことができれば、
非暴力主義が広がっていくということです。
イエス・キリストは、何度も繰り返しおっしゃっています。
「互いに愛し合いなさい、
わたしがあなたがたを愛しているように。」
(ヨハネ13章34節参照)(62頁)
この箇所を読んで私は昨年いただいたある方の年賀状の文言を思い出しました。その人の友人が言ったそうです。「世界中で起こっている悲惨な現実を知ってしまったのに私は何もできない。苦しい」と。同じ思いの筆者は、「ハチドリのひとしずく」という南米の古い話を思い出したそうです。森が火事になり、動物たちが皆逃げ去っていくのに、ハチドリは、くちばしで一滴の水を運んで火に落とし続けました。ほかの動物たちは、「そんな無駄なことなぜやるのか?」と、あざ笑いました。ハチドリは答えます。「私は、私のできることをやっているだけ」と。話はこれでおしまい、結末は書いてありません。「どうせ変わらない」と開き直るか、無駄に見えても「私にできる事をする」かのどちらかである。後者でありたい、と。
私たちは、テレビ等で世界の悲惨な現実を知って心を痛めますが、自分には何もできない苦しさを感じます。祈る言葉も失ってしまいます。また私たちの行動が、悲惨な現実を少しなりとも変えることができるとは思えません。たとえそうであっても、キリストの愛と平和の福音に生かされている私たちは、家庭や職場や地域社会において、ハチドリのように愛と平和の滴を落としながら生きるしかないと思われます。
アメリカファーストを掲げるとんでもない独裁者が現れてきました。マザー・テレサの言葉を読むと、トランプ大統領の言動のすべてが否定されるように思えます。他面、自分第一とする勢力は、トランプだけではなく、世界中に広がってきているようにも思われます。利潤追求と人間不在の社会の中で、弱い者、貧しい者、そして少数者は差別され、無視され、切捨てられていきます。ある意味でトランプは、グローバル資本主義の申し子であるとも言えます。根本的には社会のシステムを変える必要があります。そのために社会科学を中心とした人類の英知を結集して事に当たらなければなりません。しかしそれはすぐには不可能に見えます。では、どうすれば良いのでしょう。この状況の中で求められるのは、マザー・テレサやガンジーの思想であり働きであるように思われます。このような世界であるがゆえに、なおのこと愛と平和とが必要とされるのではないでしょうか。家庭や職場や地域社会において、それらを体して生きたいと思います。
マザー・テレサはノーベル授賞式後のインタビューの中で、「世界平和のために私たちは何をしたらいいですか」と尋ねられたとき、「家に帰って家族を愛してあげなさい」と答えました。
行いに愛を込めましょう。
わたしたちの愛の奉仕は、
平和の働き以外の何ものでもありません。
一人ひとりが、より大きな愛と効果的な働きをもって、
仕事や家庭、周りの人たちにかかわる
日々の生活の一つひとつの行いに愛をこめましょう。 (212頁)
マザー・テレサもガンジーも、世界に影響をおよぼす偉大な働きをした人ですが、身近な人に愛をもって接すること、日々のつつましい仕事に愛を込めて行うことを勧めています。
わたしたちのランプの油の滴は、
何でしょうか?
それは毎日の生活の中の小さなこと。
誠実さ、ちょっとした優しい一言、
少しは人を思いやる心、
このような、
ささやかな沈黙や、表情や、思いや、言葉や、しぐさです。(249~250頁)
ここでは私たちがキリストの灯りをともすランプにたとえられています。私たちのちょっとした優しい行為が、たとえ消え入りそうな光であったとしても、私たちはキリストの灯りをともし続けることができるのだと言おうとしているように思われます。
親切で慈しみ深くありなさい。
あなたと会った人はだれでも、
きたときよりももっと気持ちよく、
もっと幸せになって帰るようにしましょう。(277 頁)
私はこの言葉と出会ったとき、はたと膝を打ちました。その通りだと思いました。このようなことであれば、私にも実践できそうに思えてきます。さらに彼女は次のようにも言います。
あなたの家の中で毎日会っている家族を、
思いやりをもって、
優しく、ほほえみを忘れずに愛しつづけることは、
とてもむずかしいことです。
特に疲れていたり、イライラしていたり、
機嫌が悪かったりするときは、なおさらです。
だれにでも、そんな時があります。
そんな時こそ、苦しむ姿のうちに救い主が、
わたしたちのところにきておられるのです。(36頁)
疲れていたり、いらいらしていたり、機嫌が悪かったりするとき、ふつう私たちはイエスをすっかり忘れています。私は今まで苦しみや病がキリストと出会う契機になると何度も語ってきました。また書きもしてきました。しかし、疲れているとき、機嫌が悪いときに、苦しむものと共に苦しむキリストが、そばにおられるとは思いもしませんでした。これは私にとって衝撃的な言葉でした。
うぬぼれたり、人に厳しかったり、
わがままでいることは、とても簡単なことです。
けれども、わたしたちは、
もっとすばらしいことのために創られています。
わたしたちはそれぞれに、
たくさんのいいところも、
同様に、悪いところも持っています。
一人ひとりの成功を、ほめ称えるのは止めましょう。
その称賛は、すべて神に帰すべきです。(236 頁)
私たちは神の愛を伝える道具ですから、すべての功績は神に帰すべきものです。
6.喜び
マザー・テレサの言葉を読んでいて特に気づかされることは、喜びや快活さが何度も繰
り返されていることです。
神は喜び、喜びは祈り。
そして喜びは、寛容さのしるしです。
あなたが喜びでいっぱいのとき、
もっと身軽に動くことができるし、
何かよいことを人のためにしたい、と思うものです。
喜びは、今ここにおられる神との一致のしるしなのです。(242 頁)
「喜びは祈り」とはどのような意味でしょう。祈りは神と心を通わせることです。また神の愛から私たちの喜びが出てきます。ですから喜びは神とつながっていること、心を通わせている証拠であるといえます。「喜びは祈り」はそのような意味なのでしょう。イエス・キリストは高みにおられる方ではなく、罪に苦しむ人間と共におられる方です。私たちと同じ罪人にまでなって共にいてくださいます。そのキリストのインマヌエルの内に生きることは、いつも満たされた心で、喜びにあふれた日々を生きることではないでしょうか。そしてその喜びは他のひとと分かち合ことができます。多くを与えることはできないかもしれませんが、「いつも神と共にいる愛のうちにわき上がる喜びを、与えることができるのです」(404 頁)。
わたしたちの中におられるイエスさまは、
わたしたちの愛であり、
わたしたちの力であり、
わたしたちの喜びであり、
わたしたちのあわれみなのです。(353 頁)
マザー・テレサの信仰生活においては、キリストから与えられる愛と力と喜びとあわれみの心は、ただ受けるだけにとどまらず、満ちあふれて必ず外へとあふれだします。「何かよいことをしたい」という切実な思いとなり、行動となります。
平和と、喜びと、愛のために祈りましょう。
イエスさまは福音をもたらすためにこられた、
ということを忘れてはいけません。
「わたしの平和をあなたがたに残し、
わたしの平和をあなたがたにあたえる。」
(ヨハネ14章27節)
イエスさまは、
わたしたちが互いに傷つけあわない
というだけの平和を与えるために、
こられたのではないのです。
彼は、愛することから、
つまり、他の人たちによいことをするところから生まれる
心の平和を与えるために、いらしたのです。(382頁)
コロサイ書3章15節に「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」とあります。この平和はけっして消極的な、いわば休戦状態にすぎない平和ではないとマザー・テレサは言います。他の人を愛することから喜びが生まれ、平和が生まれます。愛する人にも愛される人にも、双方に喜びと平和が与えられます。そして神への感謝と賛美が生まれます。
いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしな
さい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝し
て心から神をほめたたえなさい。そして何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イ
エスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3章
15~17節)
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(16節)と教えています。キリストの言葉とは、単に彼が語ったことだけでなく──彼においては語ることと生きることとの間に隔たりはありませんので──その生涯、人格、行為、特に十字架上の苦難と死、それらすべてをひっくるめて「キリストの言葉」と考えることができます。そして「宿らせ」という言葉の意味は、家族が共に暮らすように永続的に共存する、共に住むことだそうです。そのような事態を、マザー・テレサは「神がわたしたちを、ご自身で満たしてくださる」「神があなたの心の中に訪れてくださる」「今ここにおられる神との一致」あるいはまた、内と外が逆転して「神の愛のうちにいる」と表現しています。「主イエスの名によって行う」は──聖書では名は、「名は体を表す」に似て、その人物の本質を表すものと考えられていますので──「キリストによって行う」と同じことです。それは、私たちが空っぽになって、キリストが私たちを満たしてくださり、何をするにも、キリストが生きて働いてくださることです。そこから喜びがあふれ、感謝があふれ出します。
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