命の言葉
- admin_ksk
- 6月17日
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更新日:6月18日
2025年5月18日 主日礼拝説教 山本 精一
聖書 フィリピの信徒への手紙 第2章 12~16節
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
今朝は、ただいま司会者に読んで頂いた、フィリピ書 2 章の 12 節から 16 節までの箇所を学んで参りたいと思います。ところで今朝の説教題は、16 節にある「命の言葉をしっかり保つ」というところから取っています。しかるに、この「命の言葉」とは、旧・新約聖書が、全精力を傾けて伝えんとしているものに他なりません。今朝は、その「命の言葉」という事を、パウロ晩年の書簡の一つ、フィリピ書に即して見て参りたいと思います。その際、今この時代のなかで言葉という事に関してわれわれが呑み込まれつつある恐ろしく困難な状況に心を留めつつ、聖書が語り伝えんとしている「命の言葉」の方へと心を向
け、その言葉を頂くとはどういう事なのか、その事をパウロの証言に聞いて参りたいと思います。
ところで初めから物騒なことを申しますが、われわれは、小さい頃から日常のふとした経験のそこここで、「人を生かす言葉」、そしてその反対に「人を殺す言葉」というものに出くわしてきました。あるいはこの事をもう少し婉曲(えんきょく)に言えば、「自分を生き生きとさせてくれた言葉」と「自分を凍りつかせ自分から生気を奪いとった言葉」と言い直してみてもよいでしょう
しかしそう二つに分けてみても、何よりも先ず言葉は生(なま)ものです。そうである以上、何が「人を生かす言葉」で何が「人を殺す言葉」なのか予め固定的に振り分けておくことはできません。なぜなら、現実の人間関係のあり方・動き方と時々刻々一体となって、言葉は人を活かしたり殺したりするからです。こうして人間関係の諸々の具体的なやり取りの中で、互いの間の信・不信の関係を映しながら、これらの言葉は、ある場合には力づけ励ますものとなって、またある場合には冷たく凍りつかせるものとなって、各々の場面に立ち現れてきます。しかしそのように状況依存的な面があるからと言って、言葉には命を与える質を持つものと命を脅かす質のものがあるという事自体は、動かしがたい事だと言わざるを得ません。その事を、われわれは、心霊上の事実として経験すること度々だからです。
このように言葉には人を生かし殺す力があるということを、例えばわれわれは、小さな子どもたちから教えられます。じっさい小さな子どもであっても、いや小さな子どもだからこそ、彼らは自分に語りかけられている言葉に命がこもっているかいないかということを、恐るべき率直さでもって、それこそ炭鉱の中のカナリアの如くに、その小さな素振りを通して示しているからです。じっさい子どもは、面と向き合っている(あるいは斜め向かいでも後ろ向きでもいいのですが)相手が、自分の事に注意と関心を注いでいるのかそれともぞんざいにあしらっているだけなのかという事を全身で感じ取り、そのそれぞれの場合に応じて子どもは子どもなりに、その姿勢や言葉の発し方を通じて様々なシグナルを発しているように思われます。子どもたちのそのシグナルを通して、大人であるわれわれは、この「生かす言葉」「殺す言葉」という事の初発の場に、当事者の一人として一緒に居合わせています。そして、彼らのそうした全身的挙措(きょそ)から、大人である自分の言葉そして在りようが逆に探り返されてきてもいるのだと思います。こうして子どもたちは、言葉というものが、生きることを励ましゆくものとしてどれほど豊かな可能性を有しているものであるのか、かつまた逆に、その可能性を立ち枯れにさせるほど暴力的なものともなりうるのか、その事を一つ一つの具体的な場面で、全身で告げ知らせている存在なのだと言うことができるのではないでしょうか。
とはいえ、当の子どもでもないお前にどうしてそんなことが言えるのかと伬(いぶか)しく思われるかもしれません。それは至極当然の疑問です。しかし翻って、われわれ自身が幼い頃から言葉に関して経験してきたことを振り返ってみるならば、言葉に関するこの子どもの直感的な把握には、しっかりとした根っこがあるという事に気づかされます。その根っこは、「命」ということと切り離しがたく結びついています。すなわち大人であるわれわれも、幼時より、言葉によって励まされ、元気づけられ、養われ、生きる力を与えられてきたこともあれば、しかし同時に、言葉によって傷つけられ、挫(くじ )かれ、抑えつけられ、生きる力を奪われてきたということをも、相ともに経験してきているからです。
われわれはみな、育ちのなかでそして人との関係のなかで、この両様の事を幾度も幾度も経験してきました。そしてこの喜びと蹉跌(さてつ)の経験の積み重ねを通して、「生かす言葉」と「殺す言葉」ということについて、各自ある基礎的な感覚というものを、誰かから教えられずとも身に着けてきているのだと思います。
特に情報革命という世界史的大変動の渦中にあるこの時代、言葉は、大量生産・大量消費の度合いを、史上類を見ぬほどの規模で増大・亢進(こうしん)させています。そしてそのことのなかで、力ある者たちは、一人でも多くの人間を自らの支配体制に組み込むべく、この情報システムを徹底的に管理・支配・操作せんと躍起になっています。彼らはそのようにして支配欲の虜となって、他の人々を大々的にかつ巧妙に操作(コントロール)する体制を国の内外に網の目のように張り巡らしています。その動きは、情報戦略の名のもとに、軍事国家、独裁的国家を筆頭に、今や地球の隅々にまで広がっています。戦争プロパガンダ、政権プロパガンダ、選挙プロパガンダ、原発プロパガンダ等々、数え上げればきりがないプロパガンダが、各種情報ツールを通じて、怒涛の如くに押し寄せる時代のなかにわれわれは身を置いています。
その結果、言葉はいよいよ大衆支配のための具と化し、その道具と化した言葉からは
瑞々(みずみず)しいいのちが抜き取られ、それらは次から次へと編み出されそして使い捨てられていきます。こうして、われわれの日々の静かな生活の中に、土砂降りのようにして情報が押し寄せています。しかもそれらは自分に届くよりも前に、その情報の大元の管理者であるプラットフォームによる選別が加えられており、かつまた一人一人の消費嗜好(しこう)目がけて特化された情報が頼みもせぬのに振り分けられてくるといった、情報の切り詰め・囲い込みのなかに知らぬ間に投げ込まれています。かくして振り返ってみれば、わが身の回りには、使い捨てられ消費されていった言葉の残骸が、バベルの塔よろしくうずたかく積み上げられています。しかしその幾つもの残骸の山々の間を日がな右往左往(ネットサーフィン)するだけであるとするのなら、われわれはこの操作・管理された情報の囲い込みの柵の中をぐるぐる歩き回るだけの、ある種自縄自縛(じじょうじばく)の状態に陥るばかりとなっています。
以上の事はまた、善男善女の魂と財産をつけ狙うフェイク情報・特殊詐欺が横行するこの時代に生きる者にとって、願わずとも突きつけられている誘惑であり問題となっています。そうした時代の大変動のなかで、われわれにとって言葉の問題は、前代未聞の規模で、死活の問題となっています。そうしたなか、聖書は、「命の言葉」ということを語ります。それでは、その「命の言葉」とは一体どんな言葉なのでしょうか。それによって、子どもの顔がパッと明るくなるような言葉、命の瑞々しさを宿した言葉とはいかなるかたちで発せられてくるのか。そのような「命の言葉」への問い求めのなかから、今朝のテクストに向かって行きたいと思います。
フィリピ書は、キリスト信仰のゆえにそしてその宣教活動のゆえに獄に囚われていたパウロが、彼の最晩年に書いたとみなされている書簡です。今朝の箇所は、およそ一年前にここで取り上げた「キリスト讃歌」(2: 6~11)の直後、それにすぐ続くところです。これから見ていくように、ここには、そのキリスト讃歌の響きが深いところで谺(こだま)しています。その響きのうちで、この 12 節が語り始められています。しかしそれだけではありません。そのキリスト讃歌以前の箇所でパウロが語っていたこともまた、今朝の箇所の下敷きをなしています。こうして、12 節冒頭の「だから(ホーステ)」とは、それ以前の
パウロの語り全体を受けとるようにして発せられている「だから」です。その「だから」に続けてパウロは、フィリピの信徒たちに向かって、「わたしの愛する人たち」(12)と呼びかけ、彼らに対する励ましと勧めの言葉を語っていきます。
この「わたしの愛する人たち」という呼びかけの言葉は、パウロ書簡のなかではかなり珍しい呼びかけの言葉です。しかしそのように稀な呼びかけの言葉が、フィリピ書には三回にもわたって出てきます(2:12、4:1ab )。これは、パウロとフィリピの教会の信徒たちとの間に、格別なる深い愛と信頼関係があった事を示すものです。
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 (12)
ここでパウロは「従順」ということを、立て続けに二度語っています。一つは、彼がフィリピの信徒たちと共にあったとき、すなわちフィリピの信徒たちに対してパウロが宣教と指導をなし、それがそこに一つの教会の群れを生み出していった。そのときに信徒たちが示した「従順」という事がここではまず語られています。しかしパウロと彼らとの直接的な交わりは、その後、パウロがエフェソで獄に囚われたことによって、危機的なかたちで切断されます。「いない今」とは、そのようにして彼らに襲い来った分離状態を指すものです。
パウロは、その深刻な事態の渦中にありながら、しかしかえっていよいよ揺るぎなく、フィリピの信徒たちに向かって「従順」であるようにと勧告しています。しかし、この場合の「従順」とは、一体どういう事を言っているのでしょうか。フィリピの信徒たちに対して教会の指導者にして、いま獄に囚われている自分への忠良なる姿勢を一層に強化せよと言っているのでしょうか。まったくもって否です。
その「従順」ということは、直前の「キリスト讃歌」の中で、キリストの姿を示す決定的な一語とされていたものでありました。
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (8)
パウロは、キリストの「従順」、しかも「十字架の死に至るまでの従順」という一点をこそ見つめています。獄中にあって、いつ殉教の時を迎えてもおかしくはない切迫した状況のなかに置かれていたパウロ。それに対して、「福音の信仰のため共に戦って」(1:27) いるフィリピの信徒たち。その彼らもまた、パウロ同様の迫害・殉教の危機のうちにあります。パウロとフィリピの信徒たちは、そのような殉教という状況を現実のものとして覚悟せざるを得ないところに立たされています。そのなかにあって、さらにはその事を突き抜けて、自分たちを根本的に救って下さったキリストの「十字架の死に至るまでの従順」という事に、パウロは深く思いと心を集中させています。このキリストの従順に従う信仰、その従順の信仰を、パウロは自分自身に対して、そしてフィリピの信徒たちに対して、キリストの十字架の迫りのもとで求めています。
そこには、キリスト讃歌が深々と響いています。その深い響きのなかで、「わたしが共にいた時も、共にいない今も、キリストの十字架の死に至るまでの従順」に倣(なら)いゆく信仰を、パウロはここで彼らを励ますようにして語り勧めています。その意味で、この「従順」とは、十字架のキリストへの従順であり、そのキリストへの徹底的従順のゆえに、神が「キリストを高く上げ」(9)られた、その神のみわざに従う従順でありました。
パウロはそれに続けて、「自分の救いを達成するように努めなさい」と語っています。しかしここは、原文通りに訳すと「あなたがた自身の救いを達成するように」となります。すなわち、パウロはここで誰にでもすぐ当てはめられる一般的・抽象的な話(「各自の救いの達成」)をしているのではなくて、フィリピの信徒たちが直面している具体的な状況に的を絞り込んで、この言葉を語っています(「あなたがた自身の」)。しかもここでパウロは、迫害・殉教を単なる悲劇的で忌むべき呪わしい出来事と見なしてはいません。
そうではなくて救い主キリストの死に至るまでの従順に倣うことこそが、「あなたがた自身の救いを達成する」ことなのだと、深い確信のうちにこの言葉を語っています。そのとき、パウロ自身、何よりも魂の目をかっと見開いて、死に至る殉教の時、さらには終わりの時を見据えつつ、この勧めの言葉を発しています。その意味でこれは、並外れた言葉、ただならぬ言葉です。「恐れおののきつつ」とは、そのただならなさがどれほどのものであったのか、その事を示す特段の言葉です。
この凄まじいまでに高揚したパウロによる従順の勧めは、13 節ではそのパウロ個人の思いをすら離れて、つまりパウロは自分自身の極度の高揚感にとどまることなく、「神の御心のままに」という、パウロの信の究極の一点、「神の御心」という大きく深く広いところに立っています。パウロのただならない従順の勧めは、この「神の御心のままに」という神の絶対的自由のもとに置かれています。
確かに、フィリピの教会の信徒たちを覆っている状況は、極めて危機的なものでした。その状況のなかで、パウロは、極限的な従順をフィリピの信徒たちに対して求めています。しかし彼はその事を、自分一人高みに立って傲然(ごうぜん)と求めているのでは決してなく、どこまでも「御心のままに望ませ、行わせておられるのは神」と、その神への立ちかえりを強調しています。すなわち、あなたがたに事を起こさせるのも起こさせないのも、それは私ではなく神の御心によるものであって、それ以外の何ものでもないというところに、パウロは立ちきっています。パウロは、この極限的な場面で、神のみわざ、神の御心に、人間の思いはからいが先回りすることを、先ず自分自身のところから徹底的に却けています。
その際、この「神の御心のままに」という言葉が、イエスのゲッセマネの祈りの中の重大な一語であるということを、パウロはその身に深く覚えていたはずです。
「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 (マルコ福音書 14:36 協会訳)
パウロのフィリピ書での「神の御心のままに」という言葉と、イエスのゲッセマネの祈り、さらにはイエスがわれわれのために与えてくださった主の祈りの言葉(「み心が天になるごとく地にもなさせたまえ」)は、どれもみな分かちがたく一体のものです。
しかし他面パウロは、自分という人間において、「望むこと=欲すること」と「行うこと」とが、どうしようもなく乖離(かいり)しているということ、その自分の根本的破綻に呻(うめ)き苦しんだ人でありました(ロマ書 7:19)。しかしそのいかんともしがたい乖離の無惨から解き放ち救い出した御方、イエス・キリストに対して、今やパウロは、その御方の名を呼び、その御方を通してこのわが悲惨のなかに注がれた神の恩寵に向かって、
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 (同 7:25)
と、キリスト讃歌、神讃歌の声を高らかに上げています。己が無惨のただなかから、キリスト讃歌、神讃歌へ。
その「主イエス・キリスト」とは、「みこころのままに」神に従った御方、「十字架の死に至るまで従順」な御方であった。パウロは、その御方に出会い、その御方を通して、自分にしがみつき続けるあり方から、遂にそして決定的に解放され、かつまた、神の御心のままに生きる服従の生へと招き出され、今こうして獄中にあって深い喜びのうちにこの書簡を書く者となった。ゲッセマネのイエスからただならぬ仕方で贈り与えられた「神の御心のままに」という祈りと讃歌が、思いと行いの分裂に苦悶する彼をその分裂から解き放ち、その解放によって今度はその分裂を蹴破って、新たに「神の御心のままに望み、行う」者へと彼を打ちかえていった。そのパウロ自身の救いの経験が、フィリピ書の初めから終わりまでを貫いています。
しかしわれわれの現実は一筋縄ではいきません。とりわけ迫害・殉教という歴史の闇、歴史の無が迫りくるとき、われわれの内には、神への不信と疑いが一気に湧き起こります。そのわれわれの現実に向かって語られている言葉、それが
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 (14)
でありました。協会訳では「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい」となっています。
この協会訳を読むとき、イザヤ書の「苦難の僕」のことが思い起こされてきます。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。 (イザヤ書 53:7 )
この苦難の僕の歌と重ね合わせながらここでのパウロの語りを読み直すとき、それは単なる一般的な教訓、あるいは処世訓などと言ったものとはおよそ異なるものである事に気づかされます。ここでパウロは、へりくだるキリスト(「へりくだって、死に至るまで」(2:8))のうちに、苦難の僕の姿を重ねつつ、そのキリストの従順にパウロ自身心を震わせながら、そして打ち砕かれながら、われわれもまたこのキリストに従おうではないかとの呼びかけ、否、祈りのなかで、この 14 節の言葉をフィリピの信徒たちに向かって語っているのだと思います。
15節と16節では、二つの時を互いに深く関係させた語りがなされています。一つは「よこしまな曲がった時代」(15)、すなわちパウロたちが生きている時代です。今一つは「キリストの日」(16)すなわち終末の時です。今朝は、前者の時に絞って見て参りたいと思います。
ここでパウロが語っている「よこしまな曲がった時代」とは、パウロたちの時代だけに限られるものではありません。それは、「この世」の時として、現代の、われわれの時代をも本質的に含みこんでいます。じっさいわれわれの時代の邪悪と不正は、どれほどのものであるでしょうか。パレスティナの無辜(むこ)の民に対するイスラエルの軍事的殲滅行動の邪悪と不正が審かれぬままの時代、この集団的無差別殺戮(さつりく)が放置され続けている時代、それが「よこしまな曲がった時代」ではなくて何であるというのでしょうか。15 節は、まさにこの時代に生きている、われわれ目がけて、この私目がけて語りか
けられている言葉です。
パウロはそのような「よこしまな曲がった時代」のなかで、その邪悪と不正の真只中に追いやられ、それがゆえにどうしようもなく不平や疑いを呟かずにはいられないフィリピの信徒たちに向かって、これまで述べてきたキリストのヘリくだり、キリストの死に至る服従・従順に倣うならば、あなたがたは「傷のない神の子」(協会訳)となり、邪悪と不正の真暗な世の真只中にあって「星のように輝く」と、驚くべき励ましの言葉を発しています。その励ましは、光と闇の強烈なコントラストのなかで語られています。かつまた、ここでの言葉遣いには、詩的な美しささえ感じられます。
しかし、それはロマンティックな美とはおよそ異なっています。なぜなら、「傷のない」とは、旧約聖書において、そして律法を自らの血肉となしていたパウロにとって、それは明らかに、自らと民の罪責を贖うために祭壇に捧げられた動物犠牲について用いられる特別の言葉であったからです。その言葉が、ここでは、邪悪で不正な時代のなかにあるフィリピの信徒たちに向かって語られています。この時代のなかであなたがたが「傷のない」贖いの献げものとなったとき、それは闇の力に屈したのでは決してない。そうではなくて「星のように輝いている」。闇を照らし出す神の小羊イエスに、あなたがたは連なるのだから。それは勝利であり凱旋である。「傷のない」という一語に籠められたパウロの信、そしてフィリピの信徒たちへの励まし。そのことを深く心に刻みたいと思います。
そうして、「命の言葉をしっかり保つ」(16)という言葉が出てきます。これまでのパウロの言葉を思うとき、この言葉について、もはや説明は不要でありましょう。「命の言葉」とは、パウロにとって、邪悪にして不正な時代のなかで、その邪悪と不正がもたらす闇と死を味わい尽くした御方、「自分を無にして奴隷の身分となり」(7)、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」(8)主イエスの言葉そのものだからです。それはさらに、「主イエス御自身が命の言葉なのだ」というパウロのキリスト告白と表裏一体のものです。そうであるがゆえに、パウロにとってこの「命の言葉」とは、他でもない、十字架の死と苦難を味わい尽くした主イエスの言葉、キリストの「死と苦難の言葉」でもあると言わねばなりません。
パウロは、何よりも、そのような「命の言葉」にして「死と苦難の言葉」によって、まったく新たに生かされています。その「命と死と苦難」に与っています。「邪悪で不正な時代」の真只中にあってなお、「星のように輝く」。人間の歴史の悲惨と無惨を少しでも顧みるならば、「星のように輝く」とは、およそ法外な、ただならぬ発言です。しかしその法外でただならぬ事が、主イエスにおいて既に起こった。それこそが、私パウロを、あなたがたフィリピの友たちを、そして 2025 年の邪悪な時代を生きるわれわれの闇を照らす星であり、光なのだ。それが、パウロの示す「命の言葉」でありました。それこそが、パウロにとって、最も根源的な意味で「人を生かす言葉」でありました。パウロ書簡のなかで、「命の言葉」という事が出てくるのはここだけです。その事の重みを噛みしめたいと思います。
ある注解者は、この「命の言葉」を、直前の「星のように輝く」と関連づけて、すなわち真暗な闇を照らす「松明(たいまつ)」のイメージで捉えています。パウロそしてフィリピの信徒たちをはじめとして、この「命の言葉」に与る者は、その「命の言葉」を邪悪な時代の真只中で、燃え盛る松明の火を真っ直ぐに掲げるようにして、その「命の言葉」の光を消さぬよう「しっかり保つ」者として神によって選ばれた人たちだというのです。そしてこの松明の光=キリストは、この邪悪な世界のなかにあって、神が灯したものなのだというのです。この喚起(かんき)力に満ちた比喩解釈に従うとき、ここでの一連のパウロの語りが、いよいよ生き生きと迫ってきます。
「命の言葉」を語るフィリピ書が、言葉が断片的な情報となって他者支配の具と化し、そして使い捨てられていく 2025 年に生きるわれわれを、あらためて、命を殺(あや)める言葉ではなくて、命を生かす言葉の方へと、キリストの従順のうちに烈しく招いていることに、畏れとおののきを新たにして従う者たらしめ給えと祈るや切なるものです。
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