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放蕩息子について考える

  • admin_ksk
  • 5月12日
  • 読了時間: 26分

2025年4月27日 主日礼拝説教 高橋 由典


聖書 ルカによる福音書 第15章11~32節


「放蕩息子」のたとえ

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に

分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


はじめに

 高橋由典と申します。古くからの友人である山本精一先生に依頼され、ここに立っております。私自身は長く社会学の教員として大学の教壇に立っておりました。と同時に京都大学内で聖書研究会を主宰してきました。京都大学の中に協力をしてくださる先生がいて(公認団体として活動を続け、学内の教室などを使うには、現役教員の協力が不可欠なのです)、大学を退職した今もその会を続けています。

 はじめにその会の方針についてひと言述べておきます。その方針は私自身が聖書を読む際の指針でもあり、したがって本日のお話にも関係します。

 現代日本に暮らすふつうの人が聖書を読んで抱く疑問を決して疎かにしない。これが私たちの聖研の方針です。私たちの会には、キリスト教とあまり縁のない人、でも聖書は読みたいと強く思っている人、そういう人が結構来ます。もちろん信仰を告白している方も来ます。いろいろな人が来るわけです。共通しているのは、みんな素人だということです。私自身もそうです。その素人が聖書を読むと、当然ですが、いろいろな疑問が生じてきます。聖書は何といっても古代の文書ですし、聖書の舞台となっている地域の文化や歴史の背景も無視できない。真面目に聖書を読もうとすると、どうしてもさまざまな疑問にぶち当たります。その疑問のほとんどに答えは与えられないのですが、それでも疑問は大事。私たちはそのように考えています。

 なぜこういうふうに素人の疑問を大事にするのか。ひと言でいえば、聖書という文書が、いまの時代を生きるふつうの人にとっても、読むに値する書物だと確信するからです。聖書は死んでいない。いまこの時代を生きる人にとっての宝が、そこにはたくさん埋まっている。聖書が読むに値する書物だと感得するにあたって、素直な疑問はとても大事なのです。

 聖書が読むに値する書物であることを人はどのようにして知ることができるか、と考えます。読む人が実際にそのような書物であると経験することによって。これが答えです。ああそうなのか、聖書の言っていることはこういうことなのか。すごいな。そうしたことを経験することが、聖書の価値を知ることなのだと思います。それ以外に「聖書がいまなお読むに値する書物であること」を知る道はない。その経験にとっては、疑問を素直に発することの意味はとても大きい。疑問の先には、このテキストは自分にとってどんな意味があるのだろうという関心があるからです。答えは与えられないことが多いのですが、それでもたまに心底驚くような答えが与えられることがある。その答えは、註解書などに書いていない内容であることが多い。つまりこのテキストはいまの自分たちに向けて書かれている。そのような感触が与えられるわけです。このようにして人は聖書が「読むに値する書物」と経験するわけです。

 こういう次第で素朴な疑問を大事にしているというわけです。

 本日は、今読んでいただいたルカ福音書15 章11~32 節を取り上げます。有名な放蕩息子の話です。このたとえ話は、先行する二つのたとえ話(「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ)に続く第三のたとえ話です。三つのたとえ話はいずれも、一度失われたものが最終的に見つかり、喜びが爆発する、というパターンでできていますが、放蕩息子の話が最も長くかつ陰影に富んでいて、読み応えがあります。

 「放蕩息子について考える」という題にしましたが、むろん「考える」だけでは埒(らち)があきません。放蕩息子のたとえ話を私自身がどう受けとめたかが大事です。そのことをお話してみたいと思います。今日の箇所は、この一月の聖研で読んだ箇所でもあります。今日お話しする内容の大半は、すでにWeb上で聖研の記録として公開されていますので、それを読んだ方には、重ねてのお話となります。


あらすじ

 はじめに簡単にストーリーを確認します。

 ある人に二人の息子がいた。弟の方が(父親はまだ死んでいないのに)財産分与を要求する。この地域には、父親の生前に財産分与をする慣習はなかったようです。弟は、この要求によって強引に父親の死を引き寄せている感じです。「あなた〔父親〕が死んだとして、そのときには何を分けてくれるか」という関心なのですから。その関心を支えているのは、自分の身勝手な欲望です。

 父親は弟のその無理難題を聞き入れます。分与された財産は農地あるいは家畜だったのでしょう。弟はそれを換金し、遠国に出かけます。そこで放蕩三昧の暮らしをして、財産を使い果たしてしまう。一文無しになった頃、その地方に飢饉が起こり、食べ物にも事欠くようになります。

 その地に住む人の世話になって、豚の世話をする仕事にありつけたのですが、豚のえさでさえ入手できないほど困窮します。「食べ物をくれる人はだれもいなかった」(16節)とありますが、ここは「〔豚のえさでもよいから食べたかったが〕豚も食べ物をくれなかった」という訳もできそうです。事実そのようにしている訳もあります。ともかくそれほどに弟は困窮していた。

 進退窮まったところで、弟は我に返った。故郷の父のところにはたくさんの食べ物がある。帰って謝ろう。「天にもお父さんにも罪を犯した」と言おう。弟はそう決心し、故郷に向かいます。

 父親は、このどうしようもない息子を追い返したり、叱責したりはしない。それどころか帰還してくる弟の姿が遠くの方に見えると、自分から走り寄っていき、抱擁し、接吻します。弟は準備したとおり「天にもお父さんにも罪を犯した」と謝罪しますが、父はその言葉に反応することもない。弟の歓待を雇い人に指示するだけです。良い服、指輪、履き物を与えなさい、と。「死んでいたのに生き返」ったのだから、お祝いの宴会だ。

 他方一日の仕事を終えて帰ってきた兄は、自宅での宴会騒ぎに驚きます。事情を聞くと、自分の財産をもって家を出たはずのあの弟が、帰って来たらしい。何であいつのために宴会なのか。父親に文句を言います。「あなたのあの息子は娼婦と遊んで一文無しになった。なぜそんな奴のためにご馳走するのか。私は一度としてこんなことをしてもらったことがない」。「あなたのあの息子」(30節)という言い方が、いかにも他人行儀で、突き放している感じです。父親は兄に向って言う。「お前はいつも私と一緒、私の財産はすべてお前のものではないか。だがお前のあの弟は死んでいたのに生き返ったのだ。宴会を開いて喜ぶのは当たり前だろう」。


たとえ話の意味

 後半の兄の話は少し措(お)いておいて、弟の帰還までの物語をどう受けとめるか。身勝手な弟の悔い改めの話、そしてそれを迎え入れた父の愛の話として理解する。こうした理解が一般的ではないかと思います。

 弟は父親存命中にもかかわらず財産分与をしてもらった。この身勝手な弟は、手にした財産を元手に遊蕩三昧して一文無しになってしまう。それでもまだ悔い改めはない。飢饉が起き、豚と同列になったところで、ようやく我に返る。そこで反省し、悔い改め、「悪いことをしました!」と言って父そして神に謝った。身勝手な弟が方向転換するには、「進退いよいよ窮まれり」的な困窮が必要。どん底まで行かねば人は変わらない。底打ち体験をしてようやく人は変われる。物語はそう語っているようです。

 どんなに身勝手な弟でも、進退窮まってしまうと、我に返る。はっと目が覚める。目覚めて真人間が立ち上がってくる。そしてその真人間化つまり悔い改めを父親は感じ取り、抱擁した。


放蕩息子は悔い改めたか


 このように、悔い改めた弟と愛にあふれた父親という構図で読むこと、これがこのたとえ話についての素直な読み方ではないかと思います。ただその読み方が盤石かと言うと、どうもそうでもない。そんな気がします。構図を構成する二つの要素(「悔い改めた弟」と「愛にあふれた父親」)のうち、ここでまず問題にしたいのは、「悔い改めた弟」の方です。弟はほんとうに悔い改めたのだろうか。これが主たる疑問です。

 なぜそう考えるのか。理由は単純です。ルカ福音書のテキストを読むと、弟が悔い改めた(あるいは反省した、でもよいのですが)とはひと言も書いていないからです。悔い改めた、と文字通り書いていなくても、それを推察できる表現があればそれで十分なのですが、目を凝らして探しても、それがない。そのように私には思えます。もちろん「天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました」という発言が用意され(18節)、語られます(21節)。ですが、この言葉を素直に「悔い改め」ととることは、難しい。この点についてはすぐ後で説明します。ともかく私の理解では、聖書は弟の悔い改めについて直接には語っていない。なので、弟についての定型的な読み方の話を聞いたり読んだりしながら、それに乗り切れない自分を感じてしまうわけです。

 以下で弟に関する記述を逐一拾いつつ、弟の悔い改めを疑う根拠を詳しく説明したいと思います。ただその前に、悔い改めについてひと言コメントしておきます。悔い改めの原義は(神の方向への)「方向転換」です。この場合なら、自らの悪行つまり神からの離反を告白し、それについての赦しを乞う。神からの離反をそれとして認めること、そしてそれを告白し、赦しを乞うこと。そういう意味での悔い改めです。それが、いま画面の中央にいる弟にあったのか、なかったのか。それを問題にしているということです。


言い訳としての有用性

 たしかに弟は、帰郷して父親に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと決意します(18~19節)。その直前に「我に返って」(17節、口語訳では「本心に立ちかえって」)とあるので、この反省の言葉は弟の内心の表現(本心)とつい思ってしまいがちですが、そうではない。

 この言葉は、彼が父親に会ったときに「言おう」と思った言葉です。「ここをたち、父のところに行って言おう」(18節)と思った弟がその後に考え出したセリフです。福音書本文にははっきりとそのように書いてある。父親の顔を思い浮かべ、父親と会うという状況を想像したときに思いついた言葉、というわけです。相手を限定しないで、思わずポロ

リと出てきた言葉などではありません。

 ということは、何を意味するか。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という言葉が、一定の有用性をもつ発話として用意されているということです。どんな有用性か。いうまでもありません。父親に対する言い訳としての有用性です。父親の財産を持ち出し、無残にもそれを蕩尽(とうじん)してしまった自分が、どの面下げて親の前に出られようか。めしを食わせてくれ、など図々しくてとても言えたものではない。ふつうの人ならまずそう考えます。そうした境遇にいる自分のために用意した言葉というわけです。こういうふうに真正面から謝罪すれば、父親もひょっとしたら無残な自分を家に入れてくれるのではないか。食事を出してくれるのではないか。先ほど、謝罪の言葉を「素直に『悔い改め』ととることは、難しい」と述べましたが、それはこのような理由によります。


雇い人の一人にしてください

 弟は、父親に再会したときに、あらかじめ用意した言葉を一字一句変えずに語ります(21節)。弟は必死です。自分が生きるか死ぬかは、父親に対して発する言葉の説得力にかかっている。あらかじめ周到に準備し、吟味しぬいた言葉をゆるがせにはできない。選び抜いた言葉を慎重に語ります。このあたりのリアリティがすごい。弟は用意したシナリオから一歩も踏み外していない。一字一句違えず、シナリオどおりに言葉を運ぶ。必死だからです。

 ところが大変皮肉なことに、選び抜いた言葉を正確に伝えようとすればするほど、語る言葉から力が抜けていきます。シナリオどおりの言葉には命が宿らない。一番肝心なところが欠落してしまう。そのゆえに父親は一顧だにしないように見えます。彼は何も反応しない。父親の態度の焦点はまったく別のところにあるかのようです。

 準備段階の言葉(18~19節)と実際の発話(21節)を比べてみると、一カ所だけちがいがあります。準備段階にあった 「雇い人の一人にしてください」が、実際の発話では脱落しています。他の部分は、まったく同じです。一字一句変えていない。なぜ「雇い人の一人にしてください」が脱落したのか。

 「父親の愛にあふれた態度を見て、言う必要がないと思ったから」とか「泣いてしまって言葉に詰まったから」、あるいは「父親が息子の言い分を了解したので、みなまで言わせなかった」とかさまざまな解釈があるようです。それらにもそれぞれ一理あると思いますが、ここまでの考察の延長上で考えると、ただ単に弟が意図的に引っ込めたと考えるのが最もわかりやすい。シナリオどおりの言葉を発しながら、ちらっと父親の方を見ると、全面的に赦免の態度である。何でも言うことを聞いてくれそうだ。ならば、ここで「雇い人にしてくれ」という、自分を安く売る条件をこちらから出すまでもないではないか。そういう理由で引っ込めたというわけです。ずいぶん計算高い。

 「雇い人の一人にしてください」という一文の脱落は、弟の発話が有用性の観点からなされていることを、別の角度から照らし出しているように思えます。


我に返る

 弟は進退窮まったときに、「我に返って」自分に言い聞かせたのでした。故郷の父親のところには有り余るほどのパンと大勢の雇い人がいる。それに引き換え、俺はここで飢え死にしそうだ(17 節)。このように自分につぶやいた後で、父親への謝罪の言葉がまとめられるわけです。

 「我に返る」という日本語は、「本来の自分に立ち返る」というニュアンスを含みます。

 これまで正体不明のカルト宗教に取りつかれていたが、ふと我に返って、家族や友人たちのことを思い出した。酩酊ないし憑依(ひょうい)状態から素面(しらふ)に戻る、あるいは正気に戻るというイメージです。そのイメージにあまりに素直に従ってしまうと、「本心に立ち返って」(口語訳)といった理解になってしまう。これまでは身勝手な欲望に身を任せていたが、ふと我に返って、憑き物が落ちたように真人間の自分に戻った。こういう人間理解が的外れとは言いませんが、いかにも予定調和的、ご都合主義的(読む側の都合に沿って読んでいる)であるような気がします。

 ここでは、「これまで視野に入らなかったことが見えてきた」というほどの意味にとっておくべきだろうと思います。これまではおのれの飢餓のことばかリ考え、心配してきたが、よく考えてみると、故郷には父がいて、そこには食料がたくさんあるではないか。自分の飢餓のことが心配で視野狭窄になっていた。しかし冷静に視野を広げてみて考えると、頼れるものがあるではないか。この「冷静に視野を広げてみて考える」が、ここでの我に返るということだろうと思います。心配のあまり周囲が見えなくなっている状態から、広い視野をもったふだんの自分に戻るというほどの意味です。

 それでも、いややはり「我に返る」とは本心に立ち戻るという意味だ。正気に返る、素に戻る。それが良心というものだ。そのように考える人もいるかもしれません。それだけ「我に返る」=本心に返る=真人間に戻る、というイメージが強固だということでしょう。ですが、そうだとしても、その本心に返った人(弟)が、まず最初に思ったのが、「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」(17節)ということだったことは、注目に値します。「本心に返る」の通俗イメージとは異なり、食料の問題こそが「我に返った」弟の第一義の問題だった。そのように福音書記者は記しています。

 ここでは福音書記者の記述に素直に従っておこうと思います。弟にとって、良心問題はここでは無関係だというわけです。


悔い改めについての結論

 以上、弟に関する記述に沿って三つのことを確認してきました。

 (1) 弟の悔い改めの言葉は、家に帰ることの言い訳としての有用であること

 (2) あらかじめ用意したセリフとは異なり、実際の発話においては、「雇い人の一人にしてくれ」との言葉は削除されていること

 (3) 我に返った弟はまず父の家にある食料のことを思い出したこと

の三点です。

 これらのことを考えると、弟つまり「放蕩息子」には神からの離反を告白し、赦しを乞うという意味での悔い改めはなかった。そう考えるのが妥当であるように思います。少なくとも、悔い改めがあったことを積極的に示す証拠は乏しい。そのように結論せざるを得ません。


兄の不満

 となると、兄のクレームにも新たな光があてられるように思います。もし弟が「悔い改めの言葉を語るが、真の悔い改めからはほど遠い人」であるとするなら、兄がそのことに気づかないはずはありません。ひと目見てピンと来たはずです。兄の目には、父は弟に騙(だま)されているようにしか見えない。弟は真人間になったのではない。真人間ならば言うであろうセリフを語っているだけだ。父はそれに付き合わされている。弟の真人間芝居に付き合わされている。そうであるにもかかわらず、少しもそのことに気づいていない。真人間になったことを喜んで、本気で歓待しようとしている。何たることか。

 騙されている父。弟に甘い父。兄の不満は、小狡い弟によって父が騙され、そのためにこの世のルールが破綻してしまったことにあります(30 節)。それはおかしいではないか。働いたものが報酬を受ける。努力したものが成果を享受する。これがこの世のルールである。それが侵されているではないか。何もしなかったものが報酬(肥えた子牛) を得ている。何もしなかったどころか財産を食いつぶした者、マイナスを負わせた者が報酬を得て、貢献してきたものが何も得ていない。おかしい。

 表面上、兄はこのように理屈を立てています。公正さがない、と言っている。ところが実際のところ、この世のルールが毀損されている、と言いつつ、この兄が最も気にしているのは、自分よりも弟が父にかわいがられているということだと思います。父の愛が弟に向けられているということです。しょうもない弟に。業突張(ごうつくば)りで少しもまじめに働こうとしない弟、それどころか財産を女と遊んで全部食いつぶしてしまった弟に。それはあまりに理不尽だ。

 この兄の態度を見ていると、どうしても創世記4章に記された、カインとアベルの話を思い出してしまいます。カイン(兄)のアベル(弟)への嫉妬は、なぜか神がアベルの献げ物に目を留めたことに起因します。カインとアベルは同じように献げ物をもってきたにもかかわらず、アベルが愛された。それをカインは憤ったわけです。これに対し、イエスのたとえ話のこの場面では、そもそも兄と弟は同じではない。弟が絶対的にひどい。にもかかわらず弟の方が愛された(と兄は思った)。兄にしてみれば、不条理、理不尽の程度はより大きいとしか思えない。


父親と弟の対面

 弟と兄をこのようにとらえ直したのち、改めて父親と弟の対面の場面における父親のふるまいを考えます。父は遠方に息子を見つけて、駆け寄って行ったのでした。その際、ズタズタになった息子を見て「憐れに」思ったと記されています(20 節)。「憐れに思う」あるいは「憐れむ」。ギリシャ語本文では内臓が傷つくことを意味する単語が使われています。ですので、「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られ」という訳もあるくらいです。

 この言葉はしばしばイエスの癒しの場面で使われます。たとえばイエスは重い皮膚病の人を前にして、「深く憐れん」だのでした(マルコによる福音書1: 41)。同情や共感あるいは道徳的責務の観念が出現するはるか手前で、イエスの身体が傷んでしまったわけです。

 ここでも、息子の苦痛が父親を身体の底からとらえて離さない。そういう事態が起きているわけです。そしてそうであればあるほど、父親の中に息子へのいとしさがあふれる。そのような構図になっていると思います。

 息子つまり弟の方は、先ほど述べましたように、事前に準備したセリフをしゃべります。父親はむろんそれらの言葉を聞いていたでしょうが、本文を読む限り、まったく無反応です。父親はたしかに僕(しもべ)たちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と命じますが(22 節)、それは弟の周到に準備した言葉に対する反応には見えない。平たく言えば、父親にとって弟の言い訳などどうでもよいのです。父は弟の言葉に反応しているのではなく、自身の事情で動いている。そのような感じです。自身の事情とは、この場合、むろん「腸がちぎれる」という痛みのことです。

この場面には二人の主たる登場人物がいますが(弟と父)、その二人はそれぞれにまったく別のストーリーの中にいる。そんな感じさえします。弟はかねてより想定したストーリーに沿ってペラペラ言い訳を並べる。父親はそれを音としては聞いていたかもしれませんが、それだけです。弟の発する言葉の意味内容とは一切関係なく、「憐れに思う」ことだけを根拠に、指示を出し、歓待の準備をしている。そんな風景です。


父親の喜び

弟には悔い改めはなかったと先に推論しました。しかしもし父親が「憐れに思う」ことだけを根拠に動いているとするなら、悔い改めの有無には父はまったく関心がない。そんなことは端から眼中にない。言い訳を周到に準備した弟にとっては想定外でしょうが。父親にとっては、弟が無事に戻ってきてくれたことがすべてであり、後のことはどうでもよい。父親は弟の帰還を

「死んでいたのに生き返った」

「いなくなっていたのに見つかった」

と表現します。しかもこれらの表現は、今回読んだテキストに二回も登場します(24節、32節)。つまり父親にとって、弟の件は「死んでいたのに生き返った」、「いなくなっていたのに見つかった」事件であり、それ以外ではない。死と生のちがいにくらべれば、悔い改めがあるかないかは、どうでもよいくらいに小さな差異にすぎない。「いなくなっていたのに見つかった」という表現は、この話が前の二つのたとえ話と共通する意味を含んでいることを示します。いなくなっていたもの=羊、銀貨が再び現れた、と先行するたとえ話は語っています。しかしこの放蕩息子の話では、父親の思いはさらに色が濃い。死んでいたのに生き返った、というのですから。

 父親が弟の出奔(しゅっぽん)を「死」と表現していることに注目したいと思います。弟が視界から消え去ることは、父親にとっては、死んだも同然の出来事だったわけです。もう姿を見ることも、話しをすることもできない。取り返しのつかない決定的な出来事、それが弟の出奔なのでした。この受けとめ方には、父親の弟への深い愛が込められているように思えます。出奔する弟にはこの思いはまったく見えないのですが。

 その弟が帰ってきた。死という不可逆の変化が覆された。ありえないことが起きた。その喜びはとてつもなく大きかったにちがいない。死と受けとめていたからこその喜び。天と地が逆さになるような喜び。「死んでいたのに生き返った」という表現には、その驚くべき喜びが刻印されているわけです。この喜びの前には、悔い改めの有無の問題などまったく色褪せます。父親がそんなことどうでもよいと考える理由がわかるような気がします。兄の「鋭い」洞察もまた、父の喜びを前にすると、その色を失います。兄が「どうでもよい問題に神経質にこだわる人間」にしか見えなくなる。


一方的な愛

 放蕩息子の話の前に置かれた二つのたとえ話では、羊を見失った羊飼いや銀貨を無くした女が神の側を代表していました。今回のたとえではいうまでもなく、父親が神の側、兄や弟が人間の側を代表します。人間の側の悔い改めに対応して神の側から歓待(赦し、救い)が提供されるなら、話は合理的です。しかし「放蕩息子」のたとえ話は、そうした合理的な神の愛を語っていない。人間の側の条件に一切依存しないで歓待が提供される。いわば不合理な愛を語っている。これがここで示してきたことでした。この一方的な愛を受けた人間は、どこに行くのか。無事悔い改めにたどり着くのか。それともまだ放浪を続けるのか。興味が尽きないところです。つまりこの後、弟はどのように生きていくのか。財産はすべて兄のものという環境のなかで。ここからが弟の正念場と言うことになります。弟は父の愛を受けた。しかし現実には自分の財産はない。兄の財産に寄生して生きていくしかない。その弟は今後どのように生きていくのか。愛を受けたことを根拠に生きるのか。元に戻って自分のことを中心に生きるのか。


このたとえ話から何を受けとるのか

 このたとえ話によって与えられるものをまとめておきます。

 この話はいうまでもなく、神と人についての話です。この話をここで語ったようなかたちで把握すると、人間は徹底して小狡いという気持ちになります。弟はいうまでもなく徹底して自分のことしか考えていない。兄にしても父の愛が自分に向いていないのに大いに不満を持っている。ということは、自分大事ということです。お父さん、こっち見てよ。兄はそう語っているわけです。自分のことしか考えていない。兄と弟は人間の代表ですが、こう考えると、人間には希望がない。人間は徹底して救いようがないほどに自分中心であるように思えます。

 他方このたとえ話は、神がどのような方かについても語っています。先ほどもふれましたが、人間の小狡さが前景化すればするほど、父親=神の度外れた優しさが際立つ。そういう構造になっていると思います。徹底して赦す。そのような神を語っているわけです。一方に身勝手きわまりない、是正の可能性もない人間がおり、他方に徹底して赦す神がいる。そしてこの二つのことはセットになっている。人間はまことにどうしようもない、救いようがない。だからこそ神が一方的に人間を歓待する=赦す。

 人間が救いようがないほど自己中心的であるという認識。この認識は実にリアルだと思います。冷徹と言ってもよい。少しも甘いところがない。人間主義的な楽観のかけらもない。事態をありのままに見ています。事態を自分の理想の眼鏡をとおして、見たいように見るというのではまったくなく、リアルに現実そのままを見ている。他方、神についての認識は一転してまことに空想的です。この絶望的な人間を理由なく愛するというのですから。何か理由があって愛するのではありません。悔い改めたから歓待しているわけではありません。そうではなく、どうしようもない相手をそのままに愛する。手前勝手で、どこまで行っても明後日(あさって)の方を見ているピンボケの人を心からの愛をこめて抱擁するのです。とても愛せそうもない人を愛する。これがこのたとえ話で描かれる神の姿です。


キリストを着る

 この神の姿はなかなかに受け入れがたい。ほんとうに信じられないような内容です。人間についての現実主義的な、冷徹な認識とあまりに好対照です。人間についてのこの冷徹な認識を好む現実主義的な人は、その人間を神が愛すると聞いても戸惑うばかりなのではないか。同じ人がこの二つの認識を両ながらに持つことができるとは思えない。ですがこのたとえ話はまちがいなくそのように語っています。神はどこにも取り柄のない自己中心的な人間を愛するのです。そこにどのような機制があるのか。

 このたとえ話を話しているのは、イエスです。イエスその人への言及はこのたとえ話にはありません。イエス=キリストは、このたとえ話のいわばバックグラウンドで黒子となって働いています。イエス=キリストの働きが、この信じられないような神の愛を可能にしている、と私は思います。キリストの働きによって、まったき絶望である人間、小狡さの極、自己中心性の極である人間が、そのままに神の歓待の対象になるわけです。説明します。先ほど来述べているように、父親は弟の偽の言葉(「罪を犯しました」)の欺瞞(ぎまん)を気に留めませんでした。弟の言葉に真実が込められていようがいまいが、そんなことは関係がない。そうしたこととは無関係に弟を迎え入れたのでした。歓待する父は、弟の真実を欠いた言葉を聞いています。胡散臭い弟の様子を見ています。しかし気に留めない。現実そのものを目にしながら、気にしていない。見ても見ないのです。

 ここがポイントだと思います。

 人間は絶望的であり、救いようがない。しかし神はその人間を愛する。となると、きっと神は人間の絶望的な現実を見ていない、あるいは見てもカウントしていないにちがいない。カウントされてしまうと、なぜそのような人間が神の愛の対象になるか疑問、ということになってしまうからです。神の目に留まらない。神にとってどうでもよくなる。これが神と人間の関係の現実です。パウロはこの経験のことを「キリストを着る」という表現で語っています。

 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリストにおいて一つだからです。(ガラテヤの信徒への手紙3:27~28)

 このテキストは直接的には、キリストの恵みの前には、民族や性別などの人間にとって有意味な差異が意味をなさなくなることを語っています。神の前では民族のちがい、男と女のちがいが意味をなさなくなる。みなキリストを着ているからだ。パウロはそのように語っています。キリストを着ているから、民族のちがいや男と女のちがいは覆われてしまい、可視化されない。みんな等しいということになる。

 神の前に出る際の人間一般についても同じことが言えます。この場合、覆われるのは、民族や性差などの人間相互のちがいではなく、人間と神のちがいです。人間は絶望的なまでに神から離れている。背いている。しかしそのことは「キリストを着る」ことによって覆われてしまう。神を主語にしていうなら、神は絶望的な人間の姿を見る。が、見ない。問題にしない。気に留めない。これが神の前の人間が「キリストを着る」ことによって実現することだと思います。キリストの働きによって、小狡い人間もまた神の歓待を受けることになるわけです。終わります。

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