死と復活
- admin_ksk
- 5月11日
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2025年4月20日 イースター礼拝説教 山本 精一
聖書
コリントの信徒への手紙II 第5章14~21節
なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
ヨハネの手紙I 第4章8節
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
2025年の復活節礼拝の朝を迎えました。今朝は、ただいま司会者に読んで頂いたコリント後書を通して、キリストの死と復活とは、今この時代のなかで生きているわれわれにとって、一体何を意味しているのかということを考えてみたいと思います。
新約聖書には、御承知の通り、パウロによって書かれた書簡、さらにはパウロその人ではなくとも、パウロから深く影響を受けた人々によって書かれたと思われる書簡が多数収められています。それらを一括して「パウロ書簡」と呼ぶならば、今朝はそうしたパウロ書簡中、確実にパウロその人が記した書簡の一つであるコリント後書の5章を取り上げ、キリストの死と復活ということが、パウロにとってはそもそも何を意味していたのか、先ずその事をたどり尋ね求めてみたいと思います。その際、他のパウロ書簡からもいくつかの箇所を取り上げ、この主題との関連で見て参りたいと思います。
そのことを通して、西暦2025 年の世界、破局の黒雲に覆われた世界のなかに生きているわれわれにとって、聖書が証言しているキリストの死と復活とは一体いかなることであるのか、それはわれわれに向かって今いったい何を語りかけているのか、その一点に向かって、パウロ書簡を重ね読んで参りたいと思います。それは言うまでもなく、キリストの死と復活ということに、この破れ果てている者に与えられている執り成しのもとで、なお許される限りで専心集中せんとする試みです。
四福音書は、イエスの十字架の苦しみと死の様について、イエスがその生涯の最後の最後において、われわれ人間の底深くから噴出してくる敵意と憎悪と裏切りによって、そのご存在を引き裂かれ、十字架にかけられ、そして「わが神、わが神、何ぞわれを見捨てたもうや」と最後の叫びを上げ、そして遂に息を引き取られたということを、最大限の力を注いで記しています。その記述には、桁外れの緊迫性が漲(みなぎ)っています。それは、イエスの十字架の苦しみと死の出来事そのものの異常性から発している緊迫性です。神の子がかくまでも苦しみそして死んだ。福音書は、その一事を、あらん限りの真実(まこと)を尽くして伝えんとしています。
しかれども、その死の三日後、イエスが、死の恐るべき虚無暗黒の断絶のなかから復活された。このキリスト復活の恐懼(きょうく)すべき告げ知らせは、新約聖書全巻の最基底にあって、新約聖書全体の記述を突き動かしているものです。逆に言うならば、このキリスト復活の出来事が無ければ、そのことの啓示によって生み出されていった聖書の諸文書は、どれも遂には切れ切れに雲散霧消していってもおかしくはなかったと言っても過言ではなかろうと思います。それほどまでに、キリストの復活とは、キリスト教信仰の最も根幹を成す決定的な出来事です。新約聖書は、キリストの死者からの復活というその出来事を、それぞれの書き方は異なってはいるものの、しかしこの復活証言に立って書かれています。そのことに関しては、全巻一点のぶれも揺らぎもありません。こうして、新約聖書の全使信を湧出(ゆうしゅつ)させる最も深い源泉をなしているもの、それがキリストの死と復活であるということは、テクストの成り立ちの上から言って、どんなに否定しようとしても否定し得ないことです。その根本的な事実の告げ知らせを、初代教会の人々は福音=よき音ずれと呼び、まさしくこの福音、すなわちキリストがわれわれの罪のために死に、三日目に復活したという根本事実に打ち砕かれて、その時代の困難のなかをキリストの死と復活の一事に与りつつ、そこから驚くべき力を与えられて、各々それぞれに歩みぬいていきました。
その際、このキリストの死と復活とは、彼らにとっては、単に目で見て確認できるこの世の中に見られる外面的事実のレベルにとどまるようなものでは決してありませんでした。そうした彼らの生の外面で起こっているような出来事としてではなくて、彼らの生の最も深いところを直撃し揺り動かしてやまない、その意味で、人間の生の深みを揺るがし、その深みを揺り動かしつつ人に新しい生き方を惹き起こしていく、生きて働く出来事でありました。じっさい、使徒言行録を読むならば、彼らはこのキリストの受難・死・復活の福音によって、常識を遥かに超えている、キリストに服従する烈しい歩みを、苦難と忍耐のうちにあって、しかし驚くべきことに、感謝も深く歩み抜いていったという消息の数々に行き当たります。
彼らはそもそものところ、自分たちがどれほど「朽ちるもの」であり「卑しいもの」であり「弱いもの」であるのかということを、つまり壊れものとしての人間の実相を徹底してリアルに、死と罪に支配されたわが身の朽・卑・弱という三重の否定相のもとで受けとめていました(コリント前書15:42~43)。その自分自身の生の三重の否定的実相が、このイエスの死と復活の出来事によって、「朽ちないもの」「栄光にみちたもの」「力強いもの」へと復活したのだと、パウロは告白しています(同上)。今朝の復活節礼拝において、われわれもまた、彼らにそのような生き方の根本的変化をもたらした福音を、われわれ自身の朽・卑・弱、さらには今この時代のなかでそして世界中を支配しようとしている敵意・憎悪・無関心・誤魔化し(フェイク)の現実の中にあることを天に向かって告白しつつ、しかしまたまったく価することなきそのわれわれの罪と死の実相の中にこそ注ぎ込まれてきている福音によって呼び出されているということに、古きわれの身心を開かれていきたいと思います。
しかしながら、われわれの内には、そのことをそう簡単には承知しない、いや承服しかねる現実が打ち消しがたくあります。すなわち、この「死者からの復活」ということは、生まれてこのかた自分自身の実際生活の中で誰もそのような事に出くわしたことがなく、さらに膨大な自然科学的な知識のおこぼれに与って生きている二十一世紀人たるわれわれにとっては、死人の復活とは、到底信じることなどできない躓き中の躓きといってよいものだからです。
しかしすでに聖書は、この出来事が人間にとって根本的な躓きであるということ、すなわち復活否定という事実が人間の心霊上の事実として厳在しているということをも、包み隠さずに記しています。その事は、福音書や使徒言行録では、イエスに従った弟子たちや女たちの、復活のキリストに対する恐怖、怖じ惑い、疑い、あるいは復活ということそのものを一笑に付して取り合わないといったその時代の知識人たちの諸々の反応の一々を通してはっきりと示されています。またパウロは、初代コリント教会の信徒たちのなかに、
その教会の内外で「死者の復活などあるものか」という言葉を公然と発していた人々がいたという事実をも書き留めています(コリント前書15:12)。
しかしながらパウロその人にとっては、キリストの復活とは、パウロの生の最も深いところを貫き、そこから刻一刻どくどくと彼の霊的血脈に注ぎ込まれ、彼を、キリストの愛の働き・キリストによる愛の交わりへと駆り立てていった出来事に他なりませんでした。
ところが、よりによって、そのようなパウロの熱誠溢るる宣教によって生まれた当のコリント教会のなかに、現に「復活などない」と公言して憚らない人々が現れてきたということに、パウロは直面しています。その人たちに向かって、パウロは、
キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄 (コリント前書15:14)
であり、
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪のなかにあることになります。(17)
と、キリストに従って生きるということの存亡を分かつ問題として、痛み案じつつかつ語りかけています。キリストの復活とは、パウロにとって、キリスト信仰の立つか倒れるかを決する出来事に他ならなかったからです。
しかし他方、ここでのパウロの言葉の字面だけを追えば、コリントの教会で「復活などない」と正面切って語る人々に向かって、パウロが彼らに復活信仰へと復帰するようにと発している、説得・折伏の言葉のようにも見えます。確かにそのような一面もあったでありましょう。しかし実際のところその言葉は、相手の説得を第一とする対外的な言葉であるというよりは、むしろそれよりもはるかに深いところで、すなわち、パウロ自身の存在の深みにおいて、キリスト復活とは自分にとっていかなる出来事であるのかと、パウロが他ならぬ自分自身に向かって問いかけている言葉であるように感じられます。その意味でこれは、直接的には復活を否定する人々に向かって問いかけ語りかけつつも、しかし同時にパウロ自身自らの内深くに向かって問いかけ語りかけている言葉なのだと思います。その結果、この言葉は、彼らとパウロ自身との両方に問いかけるものであった。私にはそのように感じられます。
キリストの死からの「復活」。それはパウロにとって、何よりも決定的な経験でありました。それこそ、彼の宣教の、彼の生き死にの、根幹を支える経験でした。パウロにおいて、その点は終始一貫、一点のぶれもありません。
ところが今、自分のその宣教の実りであるコリント教会の中から「そんなことはあるはずがない」という声がぶすぶすと燻煙(くんえん)の如く上がってきている。その事態に対して、自分は一体どう向き合うのか。この事態はパウロにとっておよそ見過ごすことのできないものでありました。その事は、この彼らの呟きにパウロ自身深く問われるところがあったということを示してもいます。
それは例えば、その声に対して、これまで語ってきた事を単にくり返しておけば良いのかという問いだったかもしれません。しかし、それは彼らとの間にただの堂々巡りを生じさせるのみだろう。彼らのその「そんなことはない」との呟きは、これまでと同様の説明を繰り返したとしても、簡単に片がつくようなことではないだろう。ここでの事態は、それほどに深刻です。
復活の音信は、今、彼ら一人一人の最も深いところに届かなければ、疑っている彼らにとっては何の意味をもなさぬことです。それは、既成の教えの枠のなかに人間を押し込めようとすることでは何一つ解決のつかない問題です。それほど人間の奥深いところから発してきている、絶望と背中合わせの呻きを宿した疑いです。コリント教会のこうした霊的現実に直面するなかで、先のような言葉を語りかけているパウロ自身の魂の奥底では、自らの復活の主との出会いの経験とは何であったのか、現に今何であるのか、そして今後はどうであるのかとの、すなわち復活経験の過去、現在そして未来を、彼らと自分自身の信仰姿勢に即して一層深く問わずにはいられなかったのではないか。
それは、突きつめるならば、こうした急所を突いた問いに直面するなかで、彼らに対してかつまた彼らとともに、この復活の音信に対して、実際のところ自分はこれから一体どのように生きていくのか、すなわち、死んで甦られたキリストの福音を新しく信じて生きるのか、それとも「むなしい信仰」のなかにとどまり続けながら形の上でだけ教会生活を続けていくのか、その二つに一つ、何れの生き方に賭けるのかとの問いを、このときあらためてパウロは、彼らに対して、そして自らに対しても深く問わずにはいられなかったのではないか。ここでの彼らとパウロとのやり取りの根底には、そのような事が起きていたのではないか。
このときパウロのうちには、疑いを持つ彼らを口先一つでやり込めてやろうなどといった「卑しい」魂胆は、露ほどもなかった事でありましょう。またじっさい、復活を伝えるとはそのような事では決してないということを、誰よりもパウロ自身深く覚知していたはずです。なぜなら、今やパウロは、キリストの死と復活の出来事によって、先に見たコリント前書で彼自ら述べていたように、自らの「卑しさ」から「栄光にみちたもの」へと変えられた者として、この呟きをわが内深くに聞きとめ、あらためてそして一層深く、彼らの魂を配慮するところに立っているからです。そしてさらには、彼らが発している復活否認の呟きの内にかつての自分自身の現実を深く聞きとり、その自分が甦りのキリストによって信じがたいほどに一方的に赦された者として、キリストの死と復活とを、言うに尽くせぬ畏れと感謝をもって受け入れ、そして今彼らに対してそのような者として立っているからです。
この事は、それから二千年経ったこの時代に生きるわれわれにとっても、キリストの死と復活とをおのおのどこで受けとめるのか、そう深く問いかけています。その問いかけにわれわれは各自どう応えて生きていこうとするのか。その点については、今朝の聖書テクストを通して、最後に考えてみたいと思います。
この自ら問われるところがあったという点については、パウロ自身、そのような経験を一番初めにしていたことを示唆する記事があります。復活のキリストに出会ったパウロは、
血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしよりも先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いた。 (ガラテヤ書1 : 16~17)
と自ら証言しています。この「アラビアに退いた」時とは、パウロが自分自身にとって、キリストの死と復活経験は何を意味しているのかと深く問うべく沈潜していった時であったのではないか。復活のキリストに圧倒され、まったく新たに生き直し始めんとするパウロ。しかし、ではこれからの日々の歩みの中で実際どのように生きるのか。キリストの復活とは、自分自身がじっさいに生きることとどう結びついていくのか。具体的な隣人との間でどのように生きられるのか。世にあってかつ世に対して、キリストの死と復活の福音に与るパウロは、これらの切実な問題に直ちに直面していかねばなりません。「アラビア」とは、まさしくこの問題との格闘がなされた孤独を指し示す言葉です。その孤独とは、パウロが一人になって真剣に祈る祈りの場の別名です。
復活節を祝う礼拝のこの朝、われわれもまた、われわれのアラビアに一旦は深く退く必要があるのではないでしょうか。そのわれわれのアラビアで、キリストの死と復活とをおのおのどこで受けとめるのかとの問いに祈りつつ深く沈潜していくこと、それは現在のわれわれにとっても極めて重要なことです。われわれは、今、自身どこに立って、この復活の音信を聞いているのでしょうか。いや、今述べた問いの主語と目的語とは、事の順序に従って逆転させねばなりません。キリスト復活の音信は、「復活などない」との呟(つぶや)きを、この世界のなかで、わがうちに宿すわれわれに向かって、一体何を語りかけているのか、と。
この問いに向き合うとき、われわれは、信仰の優等生である必要は微塵もありません。信仰の優等生は、「復活」とはキリスト教の最重要教義であって、それは四の五の言わずにとにかくまるごと信じなければならぬという、権威主義と紙一重のところに背を接しているからです。しかしそれは、「復活」を首から上だけで告白させようとしているものであって、自分自身の体はそっちを向いていないのです。体がついていかないのであれば、そのような復活信仰は、キリストの体なる交わりに向かって開かれていくことはなく、単なる個人的信念の内側にとどまるしかないでしょう。
われわれは先ず「信仰の優等生」であらねばとの脅迫観念を棄て去って、自らの最も深いところにある疑いと不安と呻きとを正直に告白していくところから始めねばなりません。なぜなら、「われわれの今」の現実を各々正直に差し出すことなしには、キリストの死者からの復活という出来事は、「聖書に書いてある大昔の出来事としては拝聴しておきましょう」といったお話でいつも行き止まりとなり、自分の日々の現実はそれとは全く無関係に、死の力に圧倒的に押し流されていくしかないからです。復活の音信は、まさしくそのようなわれわれの日々の秘かな不信の宿っているわれわれの死の現実の最も深いところ、外からは決して見えないところに向かってこそ語りかけられています。その事に、深く心しておきたいと思います。テクストに入ります。
14 節から15 節のところで注目しておきたいところがあります。それは、14 節冒頭でパウロが語っている
キリストの愛がわたしたちを駆り立てている
という一句です。その「キリストの愛」とは、パウロにとって「一人の方がすべての人のために死んでくださった」こと、すなわちキリストの十字架の受難と死の出来事そのもののことでありました。ここで「すべての人のために」と訳されている言葉は、「すべての人に代わって」と訳すこともできる言葉です(参・文語訳「一人すべての人に代(かは)りて死にたれば」)。しかもそれに直ちに続けて、キリストの死と復活とは、そのことだけで終わるものでは決してないとパウロは強調しています。それは、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」ことと切り離しがたく結ばれているというのです。
ここでパウロは、キリストの死と復活という出来事が、われわれを「自分自身のために生きる」ということから解き放つものであるということ、そしてそれは「自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きる」ということへと、すなわち自己中心からキリスト中心へと、生き方の基軸の根本的な転換をもたらすものであると語っています。
その転換により、パウロは
今後、だれをも肉によって知ることはすまい (16、協会訳)
との強い決意を述べています。「肉によって知る」とは、要するにわれわれの人間関係においてごく普通にしていること、顔見知りとなるといったことです。しかしキリストを知るとは、そのような顔見知りになるといった知り方とは何か根本的に異なっている。パウロはその違いを強い語調で際立たせています。しかしそのことに対しては、自ずと疑問が湧いてきます。それならば、他に一体どんな知り方があるのか、と。
それはもっともな疑問です。しかし、パウロは、そこで知り合う者同士が激しく敵対していたらどうなのかということを、何よりも自分自身の無惨、罪の現実に即して見据えています。その様な敵対関係が支配的となっているところでは、「肉によって知る」というあり方そのものが、そもそも初めの一歩のところから破綻(はたん)しきっています。顔見知りになるどころか、両者の間には、激しい敵意が渦巻いているからです。それだけではありません。どちらか片方が相手に敵意を抱くだけで、両者の関係は、その片方の側の敵意によって切り裂かれます。そこでは、肉によって知るということは、まったくもって何の用をもなし得ません。われわれは今まさしく、世界史的規模でそのような状況のなかに投げ込まれています。敵意によって切り裂かれた世界のなかでは、その敵意が様々なかたちをとった言葉となって、刻一刻と拡散・増幅し、それは様々なところからわが内に浸み通り、私自身の内なる敵意と輻輳(ふくそう)し合って、知らぬ間に私自身の内外を支
配するものとなっていく。あらためてロマ書のパウロの呻きを今このとき、わが呻きとせずにはいられません。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるのでしょうか。(ロマ書7:24)
パウロが「今後、だれをも肉によって知ることはすまい」と語っていることの根底には、彼が自分自身の肉の無惨(「なんと惨(みじ)めな人間」)、すなわち内外の敵意になす術もなく屈従するのみの自らの肉の悲惨、その悲惨に徹底的に打ちのめされるとともに、しかしまさしくその「死に定められたこの体」からキリストによって救われたという根本経験が、その悲惨と背中合わせに迸(ほとばし)るようにして告白されています。じじつ彼は、この呻きの直後、神賛美を逆説的になしています。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。(7 :25)
この逆説の中心にあるもの、それは、「わたしたちの主イエス・キリストを通して」というこの一句です。この一句こそ、この逆説の最重要一句です。そしてこの告白全体に、「死に定められたこの体から」救われた者、すなわち復活を一身に経験しているものの感謝と讃美が満ち溢れています。
コリント後書は、先の「肉に従って云々」に続けて、
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです(5:17)
と告白しています。「新しく創造された」とは、別の言い方をするならば、これすなわち「復活」ということに他なりません。「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」(15)者は、その生において自身もまた「復活」させられている。だからこそ「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(同所)。この復活の命、新しいものが自らのうちに与えられたからこそ、「今後、だれをも肉によって知ることはすまい」という言葉が生まれてくる。パウロの心魂のここでの一連の動きは、流水のごとく、キリストの死と復活の出来事の命の奔流にひたすらに掉さすものとなっています。これを受けて、パウロは「和解」ということを語り出します。
神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 (18)
ここには瞠目すべきことがあります。和解とは、肉の悲惨を味わい尽くしているパウロにとって、どう逆立ちしても自分からは何一つ実現し得るようなことではない。むしろその望みは徹底的に断たれている。しかしその自分の肉の現実にもかかわらず、神からの和解のわざが既にそして決定的に成し遂げられた。18 節の前半の「和解させ」とは原文では過去にただ一回しかし確と成し遂げられたことを示す時制の動詞が用いられています。キリストの一回的な死と復活とは、パウロにとって、敵意によって絶望的に切り裂かれたこの世の現実のなかに、神によって既に和解が打ち立てられた出来事そのものだった。それは、パウロの頭の中でこねくり回して作り出せるようなものでは一厘もない。
かつてキリストを信ずる者たちを律法を冒涜する者として、燃え盛る敵意のうちで殺害殲滅(せんめつ)に加担していた自分。その消すことのできない過去の事実。しかしその自らの現実無惨に対する和解のわざは、キリストの死と復活の出来事において、既に神自らがただ一度成し遂げられた。それは、パウロにとって、自分自身がそれまでしがみついていた古き自分のあり方(=肉)が根底からがらがらと音を立てて崩れていくような、恐るべき愕然たる出来事以外の何ものでもなかった。
神はキリストによって世を御自分と和解させた。(19)
この言葉のうちには、パウロのこの愕然と畏怖が逆巻く波のごとく怒涛を打っています。
パウロはロマ書の別の箇所で次のように語っています。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(5:10)
パウロにとって、キリストの死と復活の出来事とは、神が、神の敵であったパウロと和解するために、敵であったパウロを打ち滅ぼす代わりに、愛する御子キリストをこそ打ち滅ぼした。自分の過去・現在・未来は、このキリストが徹底的に打ち滅ばされたことによって、「死に定められた体」からまったく新たな創造のいのち、復活のいのちへと移されてしまった。この神の和解のわざ=キリストの受難・死・復活によって、パウロは、キリストの死に与り、復活に与って生きる新たな生を、呻きと苦難と感謝のうちに歩み抜いていきます。
このパウロの歩みは、われわれに対して、「あなたがたはおのおのキリストの死と復活とを、今どこで受けとめているのか、そしてそれをどのように生きているのか」とわれわれの最も深いところに向かって、励まし問うものとなっています。われわれはそのとき、あらためて心してこの厳しくも根本的な、そして励ましに満ちた問いかけの前で、キリストの十字架を仰がねばなりません。ボンヘッファーは『獄中書簡=抵抗と信従』のなかのあるところで以下のように語っています。
神はご自身がこの世から閉め出され十字架につけられるのを許容されている。神はこの世の中では弱く力なきものである。しかし正確に言えば、そのことが、神がわれわれと共にありわれわれを助けて下さることが可能な唯一の道である。マタイによる福音書8 章17 節は、キリストがわれわれを助けられるのは、彼の全能によってではなく彼の弱さと苦難によってであるということを珠玉のごとく明瞭にしている。──人間の宗教性というものは、困窮の中にあると、この世の中にある神の力をあてにするように人間に仕向ける。彼は神を、急場を救う神として用いる。しかし聖書は彼を、神の無力さと苦難とに向けさせる。苦しみたもう神のみが救う力をもっているのである。
苦しみたもう神のみがなしうる救い、和解とはその神の苦しみにおいて成し遂げられたことであり、それゆえその神なし給う和解の成就を世に証しするためにいささかなりとも苦しみを負ってこの神の和解のわざの後に従っていくこと、そのようにして苦しむ神とともにあること、そこにわれわれにとっての復活の現実があるということを、パウロ、そしてボンヘッファーの言葉を通して、今また心に刻みたいと思います。われわれが、神のこの和解の出来事を証しすべく押し出されていく世界、その世界はいま言語を絶した苦しみと悲痛のなかに、どれほど多くの、かけがえのない名と顔をもった人々が追いやられているのか。その事をこそ、キリストの十字架と死と復活はわれわれに尽きることなく示しているということ、そのことを深く心に刻みたいと思います。祈らねばなりません。
最後に初めに司会者に読んで頂いたヨハネの手紙I 4章8節を今一度読んで、今朝の話を終えたいと思います。
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
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