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人間の不従順と神の憐み

2025年1月12日主日礼拝説教 片柳 榮一 


聖書

ローマの信徒への手紙第11 章25~36 節

兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。

「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。

これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、

彼らと結ぶわたしの契約である。」

福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです。

 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。

だれが主の相談相手であったろうか。

だれがまず主に与えて、

その報いを受けるであろうか。」


すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。 アーメン。


 私たちは新年を迎えましたが、今年は「新しさ」というものが含む怖さというものが、殊に感じられます。思いがけなく襲来するものの怖さです。この三、四年の世界の激動が終焉を迎えるのでなく、これまでの異様さもまだその序曲でしかないのかと思わせるような変化の予感を抱きながら新年を迎えたと言えるように思います。そのような中で、あらためて新約聖書の使徒パウロが面していた世界の異様なほどの緊張と不可思議さを思います。その意味で今日は、彼のいわば主著であるロマ書の、主要テーマが語られたその最後のところ11 章の結びの箇所を取り上げてみたいと思います。

 パウロは、自分がよって立つ父祖伝来の宗教、そしてその根本たる掟(おきて)、律法が無力となり、神そのものによって廃棄されて、それとは異なる新しい信仰の道に立たされていることを自覚しています。その意味で、これまで生きてきた自分の世界が崩壊しつつある廃墟に立っているとも言えます。彼が生きているのは、異邦のローマ人が政治的に支配し、文化的にはギリシア人によって耕されたヘレニズム文化が浸透した世界です。パウロは、このローマ人によって反逆罪により処刑された一人のユダヤ人を、自らの信じる神が、救い主として復活させたとの信仰に立ち、宣べ伝えています。彼が目にし、耳にする世界の全ての様(さま)に抗(あらが)って、この救い主によって古い世界が葬られ、新たな世界が来ることを待ち望んでいます。しかもこの古いものと新しいものとは全くの断絶ではないことをパウロは洞察しています。その繋がりがロマ書9 章以来の根本的な問題です。

兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画を是非知ってもらいたい。(25 節)

 パウロはまずここで、全体の意図として、人がうぬぼれることのないために、ということがあることを注意します。このことは重要なことですが、また後で取り上げてみたいと思います。ここではとりあえず指摘するだけに留めます。「秘められた計画」とありますが、私はどうも「計画」という言葉が新約聖書で神に関して用いられるのに違和感をもっています。それでその元の言葉は何だろうとギリシア語の聖書を見てみましたが、そこで愕然とさせられました。その原語は「ミュステリオン」でした。つまり秘密であり、不可思議なものであり、奥義(おくぎ)、あるいは秘義です。繰り返しになりますが、私は「計画」という言葉を神に関して用いるのに違和感を覚えています。第一に「計画」というのは、徹底して時間的な性格をもっています。人間が未だ来ていない「未来」の不確定性を克服するために、未来になすべきことを前もって組み立てるのです。既に無い過去と、未だ来ていない未来に挟まれ、次々に変わって行く現在という時間の中を生きる人間に固有な事柄が計画です。未だ現存しない未来がもつ本源的な「不確定性」を内に含む、根本的に「人間的」な企てであり、人間的な事柄です。さらに第二に計画には、それを立案する者の意図というものがあります。そしてこの意図を実現するために、目的―手段という手法を用います。そして様々な手段を部分的に活用しながら、目的が達成されます。計画を立て、実行を展望できる者にはその目的は分っていても、その出来事に内側から巻き込まれている当事者には、その全体が見えません。それゆえにその当事者は自分は全体に参与しているのではなく、部分に過ぎず、やがて手段として使い捨てにされる懸念を抱かざるをえません。そして第三に、計画はその時間的部分性のゆえに、その誤り、失敗、変更がつきものです。どんなに周到に準備し、あらゆる可能性を思いめぐらしたとしても、現実に来るものの無限の厚みに対応したものではありません。

 そのようにこのあまりに人間的な事柄である「計画」という言葉、概念を、神に関して用いるのは、神をあまりに人間的に思いなしているとの感を拭いえないのです。新共同訳は「秘められた」という形容詞を前に付していますが、それでも軽々しさは拭いえません。前の聖書協会口語訳のように「奥義(おくぎ)」と訳すべきです。秘密であり、秘義として、人間には隠されており、人間の知恵でははかり知り得ない「謎」の前に、ここで立たされているのです。「ミュステリオン」は決して計画ではなく、むしろ私たちの計画なるものが、それにぶつかりいつも繰り返し壊されてゆくもの、そのもとで我々の計画が崩されてゆくものなのだと思います。

 パウロがここで出会っているのは、確かに不可解な謎として考えねばならないものだと思います。パウロは一方で、父祖から受け継がれてきた神からの「律法」が廃棄されているという否定的な現実に立っています。本来選ばれた民であるイスラエルに神から与えられた律法が民を選民としてふさわしくするのでなく、むしろ正しく生きる妨げになっているという現実が根本にあります。そしてパウロは、救いの道が、律法とは別に「信仰による義」として、神から与えられているということを噛みしめています。長いキリスト教の歴史の中に生きている私たちはこのことを謎としてではなく、一つの正しいキリスト教教義として受け取ってしまいがちです。そしてこの救いの道の変更は、神の「秘められた計画」なのだと語って済ませてしまいがちです。しかしパウロにとっては、この律法の廃棄というのは、すでに計画されていたものだと言って納得されるものではなかったと思います。いつまでも人間としての「何故(なぜ)に」との問いの消えないものだったと思います。

 パウロはこの謎めいた歴史の事実を必死に解き明かそうとします。

一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。 (25~26 節)

ここでは一部のイスラエル人がかたくなになったために、救いの道が異邦人に開かれ、異邦人の全体に救いが及んだ後に、再びイスラエル人が、いわばこれに刺激され、神への道を見出して、最後的には全イスラエルが救いに到るという道筋が語られます。ここではイスラエルの一部、そして異邦人全体、そして全イスラエルと語られています。近代人としての私たちには、人間に対して、一部、全体という分け方をすること自体、或る種の違和感を感じさせるものがあるかもしれません。ここでは全体、一部とは異なる、個人が問題になっていないのではないかと訝(いぶか)しがる人もいるかもしれません。確かに古代人の一人であるパウロに何処まで、私たちがもっているような個人としての意識があったのか、必ずしも明瞭ではありません。ただ言えるのは、パウロは、アブラハムや、ヤコブを意味するイスラエルといったかつての父祖たちの内に自分を含ませて生きているように思えることです。族長によって代表される個人の名のうちに自分を見ているとは言えるように思えます。そのような代表的個人の運命のうちに自分の運命をも見ているように思えます。そのような見方をするパウロによれば、イスラエルの一部は頑(かたく)なとなり、神に背を向けたと言えます。しかもその部分と言われたものは、ほとんどすべてを意味するような大部分とパウロには見えています。そしてその故に神は異邦人に、新たな別の救いの道を開かれたと考えます。しかし究極的には「全イスラエル」が救いに到ると考えます。

 そして私たちの思いを越えた神の不可思議な「秘義」についての聖書的な根拠が示されます。イザヤ書59 章20 節以下の自由な引用です。新共同訳では「主は贖う者としてシオンに来られる」ですが、パウロが用いた七〇人訳ギリシア語では「シオンの故に」となっていますが、パウロは「シオンから」と解しています。そしてこの終末論的な「秘義」における「契約」が語られます。契約は、通常、双方が遂行することに合意した事項の実行によって成り立ちますが、ここでの契約は、契約に違反し、実行しなかった相手の違反の罪を取り除くことによって、契約が成り立っているとの驚くべきことが語られます。

 28節では、この「秘義」の異様さが改めて浮き彫りにされます。


福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。


 イスラエルは、福音の観点から見ると、福音を妨害する敵でしかありません。しかしイスラエルの民の源を見据えるなら、神に選ばれた「神の愛しい子」であるというのです。パウロは、この私たちの目からは並び立ちがたい矛盾の前に立っています。人間の理解からは「不可思議」としか言いえない現実に直面しています。

 私たちの期待を繰り返し打ち壊して進行する歴史の出来事、そのゆえに私たちには「神秘」と言わざるをえない歴史の成り行きは、にもかかわらず、決して行き当たりばったりの、いわば「出たとこ勝負」、あるいは気まぐれではないことをパウロは「神の賜物と招きは取り消されないもの」ときっぱり語ります。状況や雲行きによって変えられる気まぐれなものではなく、不動の堅固な根拠によるものであり、私たちには理解不可能であるが、真に信頼を寄せることのできるものであることを語ります。旧約聖書では時に神は決めたことを後悔するような考えもありますが、パウロにとって神はそのような方ではないことが、この取り消し得ないという言葉で明瞭に宣言されています。

 この歴史の不可思議な、しかし取り消しえない不動な成り行きを、パウロは30 節以下で次のように語ります。


あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなた方が受けた憐みによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためなのです。 (30~32 節)


 パウロが語りかけるローマの信徒たちは、かつては他の神々を信じていた異邦人でしたが、今は神の憐れみを受けてキリスト者になっているとパウロは語ります。しかしその理由として異様な言葉が語られます。「彼らの不従順によって憐れみを受けています」。異邦人が福音を受け入れたのは、神に愛された選民たるユダヤ人たちが福音を拒んだ結果、福音宣教が異邦人へ向けられたという歴史的事情がありますが、パウロからすると、ユダヤ人の神への不従順と異邦人への神の憐れみは一つのこととして繋がっています。30節では、ユダヤ人の不従順が原因、或いは理由で、異邦人が憐れみを受けたと語られていま

すが、31節では「今はあなた方(異邦人)が受けた憐みのゆえに不従順になっている」と述べて、ユダヤ人の不従順は、異邦人が受ける憐みの故、その結果であるとも取られる言い方をしています。この不可解とも言える「ことの成り行き」は改めて32節で驚くべき表現でまとめられます。

神はすべての人を不従順に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです。

ここでパウロは、人間の用いる表現、論理が崩壊するのを覚悟の上で、不可解な神の筋道を語ります。ここでは人間的な表現、理解としての「神の意図」として「不従順への閉じ込め」が語られます。そしてその目的として「すべての人への神の憐れみ」が語られます。ここでは私たち人間が理解しうるように、原因―結果、そして目的―手段という手法で、パウロは事柄を説明しようとして、述べていますが、それによって、まさに私たちが理解し得る仕方を越えて、不条理が浮き彫りになっています。パウロは敢えてこの説明不可能な事柄を言葉に表現しているように、私には思えます。それをパウロがなしているのは、ここでパウロが始めに語ったように「ミュステリオン」が問題だからです。私も今日の話の最初の所で、少しくどいほど「計画」ではなく「神秘・秘義」としてのミュステリオンをパウロはここで語っていると言いました。それは、パウロが自分が面している「不可解な謎」、しかもそれは、単に人間を不安と怖れに震撼(しんかん)させるだけでなく、人間に最後究極的な、真の落ち着きと和みを与えてくれる「現実の奥行き」としての「神の人間に対する憐み」を語っているからです。パウロは、人間の理解を越えた「神の現実」を、いわば人間の言葉、表現がボロボロになるのを覚悟の上で語っています。パウロにも、そして私たちにも見えるのは、「人間の不従順」であり「反抗」です。その根底には人間の自己中心性があり、最初にパウロが「自分を賢い者とうぬぼれないように」と述べ、私は後でそのことを取り上げると言った人間の「高ぶり」があります。このような人間の「頑なさ」は現実の歴史の過酷な進行の中で、粉々に磨り潰されてゆきます。そのような磨り潰しの暗がりの中で、私たちは悲鳴をあげています。パウロはそのような磨り潰しの中で、その全体のうちに「神の憐れみ」の薄明かりを見出しているように思えます。わたしたちも、そのように神の憐れみの眼差しを垣間見せられる時に、辛うじて「主よ、信じます。信なき我を助けたまえ」と祈りえるのだと思います。そしてその時、私たちは、パウロと共に語ることできるのです。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 (33 節)

この言葉を胸に抱きながら、新しい年の薄暗がりを歩み出したいと思います。

 

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