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備えられた道

2024年10月27日主日礼拝説教 飯島 信


聖書

コリント人への手紙 第13章1~13節

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である。


 お早うございます。異常としか言いようのない猛烈な暑さの日々もようやく落ち着いたと思う間もなく、福島では、紅葉が色褪せ始めているとの知らせが届いています。夏から秋、そして晩秋へと移ろい行く季節の感覚が失われ、秋を味わう間もなく夏から一挙に晩秋へと至る、そのような感覚に襲われるのです。


  今日は、私が関わりを持つ集まりで語られた一人の青年の話しから、改めてキリストに従う人生を考えてみたいと思います。


集まりと言うのは、私が福島に移住してから1年後の昨年4月に再開した青年たちによる夕礼拝のことです。今から4年前、2020年6月、コロナの感染が深刻になる時期に、私は立川教会で「青年の夕べ」と言う集まりを始めました。月に一度でしたが、私が福島に移住したため一旦は終えたものの、今度は場所をICU シーベリーチャペルに変えて再開しました。


  毎月第3土曜日の午後4時から7時まで、1時間の礼拝と2時間の懇談の時を持ちます。

  礼拝では、青年の感話を中心とし、その後私が短いメッセージを語ります。そして、懇談に移り、語られた感話をめぐり出席者が自由に意見や感想を述べ合うのです。懇談には2時間の時間を用意していますが、時間が来たと言わなければ、そのままいつまでも続いてしまいます。懇談の後ですが、時間がある者たちは場所を変えて夕食を共にするのです。

  毎月第3土曜日としたのは、翌日行われる浪江伝道所の礼拝が午後からのためです。終わった後、土曜日はそのまま東京に泊まり、翌日曜日の朝に東京から直接伝道所に向かい、午後3時からの礼拝を行っています。体力的に厳しいのは確かですが、青年たちが語る感話の深さと豊かさに支えられています。


  ところで、10 月19 日(土)に語られた感話は、「愛することと信じること」と題するものでした。今日の聖書は、感話を語った青年が選んだ箇所です。


  語られた中で、私の想いを捕らえた内容が二つありました。最初の一つです。少し長くなりますが、それは、ナチスによるユダヤ人絶滅作戦であるホロコーストの現場の責任者として逮捕されたアイヒマンと、彼について語るハンナ・アーレントに触れたところでした。


「・・・・・・また、ホロコーストによって何百万人ものユダヤ人たちを虐殺したナチスの歯車となって収容所にユダヤ人を送ったアイヒマンをユダヤ人女性の哲学者ハンナ・アーレントは論じています。その中で、アーレントは、アイヒマンを『一貫して一言一句たがわず同じ極り文句や自作の型にはまった文句をくりかえした』と評し、次のように述べています。

 『彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が考える能力──つまり誰か他の人の立場に立って考える能力──の不足と密接に結びついていることがますます明白になって来る。アイヒマンとは意志の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、従って現実そのものに対する最も確実な防衛機構〔すなわち想像力の完全な欠如という防衛機構(独)〕で身鎧(よろ)っているからである。だからこそ、八ヵ月にもわたってユダヤ人警察官から取調を受けるという目にあいながら、アイヒマンは何の躊躇もなくこのユダヤ人にむかって、自分がSS(親衛隊)でもっと高い地位に上れなかった理由と、またそれは自分が悪かったからではないということとをくりかえしくりかえし長々と説明してやまなかったのだ。』


 自分の加担したことによって虐殺されたユダヤ人がいる中で、自分がナチスで出世できなかったことを悔やみ、型通りの文句を繰り返すアイヒマンには、ゾッとするものがあります。場所や相手をわきまえずに、その場の空気も無視して、自分の発言を相手はどう思うかということを想像できずに、自分の考えを型通りの決まり文句の繰り返しで語るアイヒマンに対して、アーレントは呆れたように『噴飯物だ』と嘲笑的にアイヒマンを批判しています。


 しかし、自分にはこのアイヒマンを笑えません。なぜなら、このようなアイヒマンの姿と酷似したものが自分の中にもあるからです。アーレントが全てが決まり文句になってしまうという『話す能力の不足』が、『誰か他の人の立場に立って考える能力の不足』と密接に結びついているという点は他人事ではありません。自分が人と話すときに、相手の立場や気持、そして自分の考えや気持への想像力が欠如していて、アイヒマンのように、何らかの決まり文句によってカバーしていることに気付かされます。相手の状況や気持を自分の言葉で置き換えて思考するということが苦手なのです。相手の気持や自分自身の気持すらも、言葉が追いついていかないことをよく感じます。このように言葉を紡ぎ出す能力の不足が、相手の気持を咀嚼し、相手の立場をおもんぱかる想像力を欠如させ、間に合わせの決まり文句によって埋め合わせをする自分の発言は、相手と同じ立場に立って対話することを困難にさせます。このような人間が、対話したり、想像力を働かせて相手に寄り添うことが非常に難しいのです。どんなに真実の言葉でもそれを誰にでもどの場合にでも適用できるわけではないと思います。相手の心を察することができない場合には、真実の言葉でも全く違う意味になってしまいます。内村鑑三が『神学者』として評した(ヨブ記に登場するヨブの友人の)ビルダデのように、相手の立場やその会話の文脈に沿わずに、知識となった文章のような言葉を唱えたことは、いかにそれが論理的に正しくとも人を痛めつける言葉となるのです。このような対話というものを苦手とする人間が、傲慢な心を持ち始めた時に、コリント人への手紙にあるように『騒がしいドラ』にしかならないのだと思います。


 このように相手への想像力や共感力の乏しい自分のような人間が、愛するためにはどうすればいいのかということは自分の信仰生活の課題でした。」


以上です。


  「青年の夕べ」で語られる若者たちの感話が私の心を打つのは、彼らがひたむきなまでに自分を見つめ、その弱さや課題を余すところなく真剣に語ってくるその姿です。彼の言葉は、聴く者をして、自分も又、彼と同じ課題を負っていることを目覚めさせるものでもありました。そして今回のこの発言は、私にある感慨をもたらしました。

  私は、説教に取りかかる時、幾つもの注解書を準備し、紐解きます。第一に田川建三です。理由は、テキストの原文の正確な訳が知りたいからです。又、シュラッター、ミラー、バークレー、さらに『略解』などですが、田川を始め注解者の多くが、時に十二弟子や民衆の無理解を厳しく批判している箇所に突き当たります。しかし、いつからか私は、批判する注解者と同じ立ち位置に立つことが出来なくなりました。批判されている彼ら、即ち弟子や民衆と私のどこが違うのか、同じではないかと思えるからです。

  例えば、3 度イエス様を否んだペトロと自分のどこが違うのか。 

  焚火(たきび)にあたりながら、お前はイエスと一緒にいたと言われた時、そのことを認め、捕らわれ、裁判にかけられ、殺されることが出来るのかです。

  感話を語った青年は、アイヒマンの態度を受け入れているわけではありません。

  又、私も、ペトロの否認を良しとしているわけではありません。

  ただ、青年は、アイヒマンに自分と同じ問題を見出し、それを克服しようとしているからこその言葉であり、私も同じく、弟子や民衆の無理解を良しとしているのではなく、同じ弱さを抱え、その弱さをいかに克服して行くかを課題として生きているからこそ、彼らを批判し、裁くだけではすまないと思うようになったのです。


  あと一つ、心に残った彼の話しです。彼は、次のように語りました。


  「去年の夏、体調を崩して入院したことがありました。その時に、ちょっとした体験をしました。夕食後、病院のホールみたいなところがあり、そこで何人かの人が集まって、トランプの大貧民をしたのです。そこには、身体に障がいを持った車椅子の人、脳梗塞で頭の回転が遅れて舌足らずな人、統合失調症で感情をコントロールできない人、発達障がいの自閉症で変な言い回しをする人などが集まりました。そこでひと時でしたが、そこには障がいの有無や違いや、コミュニケーション能力の有無や、能力の違いを超えて、心の交流が生まれたのです。ここでは、トランプのルールが破られ、障がいがあっても楽しめるように融通のあるルールへと自然に変わっていきました。ルールが本質にあるのではなく、その場では、人間が人間らしくお互いに楽しむためにあるものであり、ルールがその場にいる人間に合わせるのです。そこには、心の交流があり、集まった人々が至福の時間を経験しました。そこには、強いものが弱いものを助けるような上下関係も、コミュニケーションの能力の高い低いによってその場の主導権を取ることもなく、変な発言や行為の間違えも温かく笑ってもらえる。何もかもが自由であり、何のルールもなく、プログラムのような形式もなく、ただトランプを通して和らいで自由に交わる、そんな場が自然発生的に生まれました。

  色々な背景の違いを超えて、いかに人々と対等に交われるのか、愛を持って交われるのかということを一番模索していた時だったので、非常に印象に残ったひと時でした。どんなに話す人が 朴訥(ぼくとつ)であっても、何を言っても、どんな立場であっても自由。

  その人の本質的なものが滲(にじ)み出てくる対話の場。それぞれの能力や立場やその人が負っている先天的なものや境遇や障がいなどを超えた本質的な人格の交流の場となる。自分の中で一つのヒントになる体験でした。自分は言葉というものの困難さを感じる時があります。しかし、自分は言葉というルールに縛られすぎていたと思いました。人間関係にあるコミュニケーションのルールや礼儀などのルールは、他者が結び合うためにあるものであり、ルールが他者を縛るものではない。言葉の形式、言葉の表現だけを意識していた自分は、心と心が直に向き合うという本来の大切なものを見落としていたように思います。また、それぞれの特性や個性が発揮されることが本物の対話なのだと感じました。どんな特性や障がいでも受け入れられるのが、本当の対話であり、どんなにコミュニケーションの発達した場でも、それらを排除する場は対話ではなく、モノローグ(独話)と変わらない。

 それぞれ神様から与えられた使命と能力の中でそれぞれの役割が発揮されるのは、原始キリスト教のエクレシアの姿であったと思います。それぞれの人間に与えられた神からの賜物に応じてそれぞれの教会での役割が与えられる。預言する者、異言を語る者、教師となる者、世話をする者など、それぞれの能力や個性によって教会の役割が与えられている。もちろん、そこに、罪や傲慢という問題が入り込んでくるために、現実の集まりは難しい面はありますが、愛について想像力と共感力という能力で考えていた自分に大きな反省を迫る体験でした。」


  心深くに迫る話しでした。

  まるで、天国の祝宴のような風景を思い描かせてくれたのです。

  「ルールが本質にあるのではなく、その場では、(ルールは)人間が人間らしくお互いに楽しむためにあるものであり、ルールがその場にいる人間に合わせる」と言う事、そして「そこには、心の交流があり・・・・・・強いものが弱いものを助けるような上下関係も、コミュニケーションの能力の高い低いによってその場の主導権を取ることもなく、変な発言や行為の間違えも温かく笑ってもらえる。何もかもが自由であり、何のルールもなく、プ

ログラムのような形式もなく、ただトランプを通して和らいで自由に交わる、そんな場が自然発生的に生まれ」たと言う事、さらに「どんなに話す人が朴訥であっても、何を言っても、どんな立場であっても自由。その人の本質的なものが 滲(にじ)み出てくる対話の場。それぞれの能力や立場やその人が負っている先天的なものや境遇や障がいなどを超えた本質的な人格の交流の場となる」と言うこと。ルールのために人はあるのではなく、人のためにルールはある。まさに律法のために人は在るのではなく、人のために律法は在ると言うその通りの経験を彼は語りました。


  先の自分自身を厳しく見つめ、克服すべきその課題を明らかにする一方、与えられた他者との交わりの至福とも言うべき豊かさを彼から知らされた私は、さらなる問いへと向き合うのです。それは、青年が語る至福の交わりの時を創り出すには何が求められているかです。


  至福の時、そこには無条件に互いに他者を受け入れている情景が現出しています。ルールはあるものの、それは参加者を縛るものではなく、参加者はゲームを楽しむことが優先され、そのことをお互いに認め合っているのです。そこに生まれている至福の様子を若者は原始キリスト教会の信徒たちの交わりになぞらえていました。


  私は、彼が思い描く原始キリスト教会の様子を受け止めながら、一歩、入院先から外に出た現実に目を移します。そこには、同じ「青年の夕べ」で感話を語った者たちが取り組んでいる世界の現実が立ち現れます。前回、八月の礼拝時に紹介したイスラエル・パレスチナ問題です。


  この問題に対し、若者たちは自ら仲間を呼び集め、「ソムードの集い」と言う組織を立ち上げました。ソムードとはアラビア語で抵抗を意味しています。イスラエルによるパレスチナの子どもや女性、老人に対する度を越えた無差別の殺戮に対し、日本の地から抵抗の声を上げたのです。


  病院内で至福の時を経験した者、イスラエルによるパレスチナへのジェノサイドに心を震わせながら抗議する者、行動している時と場は異なろうとも、両者の心深くの想いは共通しているのです。それは、平和を造り出すことへの願いであり、そのためにはいかなる労をも厭わない決意です。傷ついた者、疎外された者、抑圧された者の側に徹底して身を置きながら現実を見据え、関わるのです。


  そして、このような青年たちと共に在る私に対して、最後の問いが投げかけられるのを覚えます。「私はお前に問う。お前は私を何者だと言うのか。なぜ、私に従おうとするのか」と。他の誰でもない、イエス様からの問いです。


  「お前は私を何者だと言うのか。お前はなぜ、小高、浪江にいるのか。そこで何をしようとしているのか。又、お前はなぜ青年たちとの間で、夕礼拝を守るのか」と。


  根源的な問いです。


  しかも、今、この時、刻々と応答することを命ぜられている問いです。


  そして、私は答えるのです。


  「主よ、あなたは私にとってのキリスト、救い主です。あなたが私の罪を負って下さっているが故に、今、私はこのように生きて、あなたに従うことが出来るのです。」


  「小高、浪江の道は、あなたが私に備えて下さった道でした。あなたは、小高で、浪江で、共に労する者を待ち、私を招いて下さいました。私はその招きに応えたのです。」


  「青年たちとの礼拝、それは、彼らが私を必要とし、私も又彼らを必要とし、あなたが私たちの礼拝を祝し、導かれる限りにおいて守られるのです」と。


  奥田先生は、戦火が最も厳しくなる戦時下、1944 年3 月の『共助』誌に載せた「追憶」と題する文章の中で、次のように記されています。


  「一言にしてこれを云ふならば人生は事業ではなく人格であり、更に信仰であり神への従順といふことにつきる」(北白川教会『「一筋の道」を辿る』63 頁)


「人生は事業ではなく人格である」。

これは、人生において神様から問われるのは、その者が何を成し得たかではなく、どのような人間として生きたのかが問われるのだと言うことだと思います。この地上において成せる業の大切さは言うまでもありません。しかし、それ以上に、いかなる人格としてその業に参与したかがさらに重要なのだと言うのです。


  このことは、恐らく人生の究極の問いです。

  問われている人格とはどのような人格なのか。それは、人生を生きる視線の先に神の国を捉え、そこに自らの名が記されていることを信じて歩む者です。


  私は原始キリスト教会で生まれた交わりは、先の青年が語る至福の交わりですが、それはそれぞれの視線の先に神の国を捉え、そこに己の名が記されていることを信じている者たちによって創り出された交わりだと思うのです。


  次々に押し寄せて来る様々な課題があります。


  その課題を共に担う中で、神の国に自分の名が記されていることを信じて交わりに生きることが出来るのであれば、その荷はどんなに軽いか、又喜びであるかを思います。


  そして、その交わりは、今この時、神様によって約束され、私たちに与えられています。


  そのことを信じることが出来るか否か。


  祈りましょう。


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