2024年9月8日主日礼拝説教 片柳 榮一
聖書
詩編 第32編1~7節
いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。
あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
あなたはわたしの隠れが。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。
今日は良く知られた詩編32編を取り上げてみたいと思います。改めてこの詩編の深さ
を思わしめられるからです。この詩編は古来、51編や130編と並んで「悔い改めの詩編」の一つ、あるいはその代表ともいわれてきました。そしてアウグスティヌスやルターも愛してしばしば取り上げてきた詩編です。それだけでなく、私たちは新約聖書のパウロが重
んじた詩編であることも知っています。パウロは自らの「信仰による義認」について論じ
たロマ書3 章に続いて、それを裏付け、根拠づけるために旧約聖書から二つの言葉を4 章
で引用しています。一つは創世記15章6節の
アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた
というまさに「信仰による義」を明瞭に語る旧約聖書の言葉です。この言葉を創世記の内に見出した時のパウロの感激が目に浮かんできます。そしてこの貴重な旧約の証言と並んで、
不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があると見なされない人は幸いである
との、詩編32編の冒頭の言葉を引用しています。まさにパウロにとっても詩編32編は、彼の信仰と生の核心を言い表すものだったのです。
この詩編が自らの罪を悔いる「悔い改めの詩編」の代表的なものの一つであると先ほど
言いましたが、或る注解者も注意していますように、この詩編は自らの罪のただなかで苦
悩の叫びを挙げる51編などとは少し違っています。51編では
神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。 (3節)
と自らの苦悶の中から神に願い、叫んでいます。これに対して32編では
いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。 (32編1節)
となっています。つまり、悔いに苛(さいな)まれ、苦悩に悶える心のさまを語る詩編ではありません。そうではなく、幸いの内に生きる人について、この詩編は語っているのです。ですからこの詩編は、文学ジャンル的には、「祝福」の詩編であると言われます。そこで、幸い
とは何か、幸いな者は誰か、というあらゆる人が問わざるをえない、人生の深い問題に答
えるものであり、そのうちでいわば感謝と諭しが語られる詩編なのです。私たちは「幸い
なるかな」で始まる、新約聖書の山上の垂訓の言葉を知っています。そして詩編の最初、
第1 編は「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず」で始まっていま
す。詩編を編集した人は、詩編150編の詩の基本的枠組み、典型とでもいうものを、この
「幸いなるかな」という賞賛と感謝の表現に見出していることが感じられます。モーセの
生涯最後の言葉、いわば辞世の句の形で語られる申命記33章は「モーセの祝福」と題さ
れています。そしてその最後に
「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか、あなたのように主に救われた
民があろうか」(29 節)
とこの「幸いなるかな」という言葉が語られています。この「幸いなるかな」が語られる
もう一つの例を見ておきます。それはイザヤ書30章です。
まことに、主は正義の神。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。 (18節)
これらの例からもわかりますように、「幸いなるかな」は基本的に、神への信頼に生きる
「信仰の人」こそ、最も幸いな「人生」を送ることだと諭していると言えます。詩編の中に
も「幸いなるかな」という表現が第一編だけでなく、見出されます。一つ挙げておきます。
いかに幸いなことか
主を畏れ、主の道を歩む人よ。(128編1節)
まさに主への畏れに生きる信仰深い人は何と幸せであるかと歌っています。
しかし私たちが今日学んでいる詩編32編は同じ「幸いなるかな」でも、少し様子が異
なります。「いかに生きるか」との生の問いに対する、もっとも正しい生き方として、神
に信頼して生きることを基本的に語っている詩編とは、この32 編は少し異なっています。
正しい生き方を神への信頼のうちに見出したというのではなく、信頼ではなく、「背きを
赦された人」は幸いだと語っています。これまでの詩編では、自らの歩んだ生に誤りな
く、曇り汚れのない、正しい人、しかもそれが可能であったのは、自らにでなく、主なる
神により頼んだ故にであり、そのように「主の道を歩んだ人は幸いである」とプラス、ポ
ジティブな面が前面に出されていました。しかし今日の詩編32 では、そのような晴れや
かで曇りのない生ではなく、「背き」と「罪」が語られ、それらをなお、赦された人は幸
いであると語られています。
ここで「赦される」と言われた動詞は、元来の意味は「上へ挙げる」という意味です。
旗を挙げる、手を挙げるなどです。さらには担うや受け取るの意味もあり、そして「取り
除く」という意味をもち、殊に「罪を取り除く」という意味で用いられます。
どうかわたしの罪を取り除いてください。 (詩編25編18節)
次いで
罪を覆っていただいた者は (1節)
とあるように、ここでは、人間の犯した過ち、罪が、蔽われ、隠され、無かったかのよう
に、取り除かれた者は幸いであると語られています。
このようにこの32編は、「幸いなるかな」という祝福の表現形式のなかで、特異な内容
をもっており、これまでにない雰囲気の中に在る感がします。まさにパウロは、この変貌
を経験していたように思われます。彼は、これまでのユダヤ教的な律法を遂行して正しさ
を得る「行為の義」に代わる信仰の義の発見を「アブラハムは神を信じた。それが、彼の
義と認められた」という創世記15 章の言葉に見出しましたが、パウロはまた、これまで
の「幸いなるかな」とは異なる「幸い」を、「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され
罪を覆っていただいた者は」と述べるこの詩編の言葉の内に、見出していたように思われ
ます。
2節において「いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず」と同じ主題を重ねて
宣べますが、これに続く「心に欺きのない人は」は、必ずしも分かりやすくはありませ
ん。これまで詩人は、通常の幸いの概念をうち壊すような、罪赦された者の幸いを語りま
した。畳みかけるように、第一に背きを赦され、第二に罪を覆われ、第三に咎(とが)を数えられない人の幸いを語りました。それは、道徳的に正しい人の賞賛と祝福ではなく、人格に欠損があり、人の道を踏み外した「罪人」が、神の前で赦されてあることの幸いを述べるものでした。しかしそれに続く「心に欺きのない人は」とは、また通常の「正しい人」への
賞賛と祝福に戻ったように思えます。心に欺きがないとは、まさに「道徳的に正しい人」
の基本的特徴とも言えるように思えるからです。何故三回にわたり畳みかけるように語っ
てきた「罪赦された人」の祝福とは響きの異なる「心に欺きのない人」の幸いが、ここで
述べられているのでしょうか。この問いには、ひとまず答えないでおきます。これに続く
言葉のうちに、答えが示唆されているように思えるからです。
これに続く3、4節の言葉は痛切であり、人間にとって罪の問題がどのような様相を呈
するものであるかを深く抉り出しています。
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てました。
ここを読んでいてあらためて思うのは、この詩編が悔い改めの詩編の代表的なものと言
われるのは、悔い改めの痛切な告白においてであるだけでなく、罪を認めず、告白しない
心の状態が、どのようなものであるかを、極めて鮮やかに描き出しているからであるとも
言えます。この詩人は、黙した、呻いたと述べています。この人は、おそらく或る行為、
振る舞いにおいて、人の道から逸れてしまったのでしょう。沈黙した、その意味で言葉を
語らないでいると述べます。そしてそのことは、人への関わりを断ち、自らのうちに閉じ
こもっていることを意味します。或いは言葉は単に他者との交渉の手段にすぎないのでは
なく、それ以前に「自分との対話」であるとすれば、内なる奥底から語り掛けてくる自己
自身に対しても、閉ざし、閉じこもっていると言えるのでしょう。そしてこの閉じこもり
が引き起こすのは、呻き、しかも絶え間ない呻きであると語ります。そして恐らくこの呻
きそのものが、沈黙のうちで為されているのでしょう。人には知られない奥底で、そして
或いは、自分自身にも気づかれないまま、呻いており、それがずっと後になって、呻きで
あったのだと気づかれてくるような呻きなのでしょう。わたしたちは、このような沈黙の
状態が聖書の中で語られていることを思い起こします。それは創世記のカインとアベルの
話においてです。神は「カインとその献げ物には目をとめられなかった。カインは激しく
怒って顔を伏せた」(4章5節)と語られています。献げ物を神に拒まれたカインは、神と
の関係を断絶させるべく、顔を伏せ、自らに閉じこもります。
ところで詩人の沈黙と呻きはそれだけに留まりません。私のうちの呻きにとどまりませ
ん。「御手は昼も夜もわたしの上に重く」(4節)と詩人は語ります。私自身が心の奥底で
「呻き」を挙げているだけではありません。そのような呻きが起こる原因として、自分の
奥底で、自分を越えた「外」から重くのしかかるものがあると感じられています。自分が
他人からの関係を断って、自分に閉じこもっているだけでなく、外から、あるいは自分の
外全体が、自分に対して重くのしかかって、いわば自分を拒絶していると詩人は感じてい
ます。そしてこの重くのしかかるものを、詩人は神の「御手」と言い表しています。この
御手の重みで、自分の力は、「夏の日照りにあって衰え果て」ていると叫びます。この重
くのしかかるものを神の御手と詩人が感じるのは、イスラエルの長い宗教的伝統の中で、
詩人が育てられたからであり、そのような伝統にない現代の日本の私たちには、すぐには
納得できないかもしれません。しかし私の閉じこもりは、私の外の全体に向けられてお
り、私に閉じこもることにおいて、或る全体が問題になっていることは納得されます。そ
してこの全体ということと、究極的なるものとしての神とは、或る深いつながりがあり、
重なり合うところがあることは予感されます。
御手が重くのしかかるという表現は、聖書の中でサムエル記上5 章11 節に見られます。
イスラエルはペリシテ人との戦いで戦況が不利になり、苦し紛れに「神の箱」を携えれ
ば、奇跡が起こるだろうと考え、神の箱を同伴して戦いに向かいますが、かえって神の箱
を奪われてしまいます。この箱をペリシテ人はアシュドドに持ち帰りますが
主の御手はアシュドドの人々に重くのしかかり、災害をもたらした。 (6節)
と言われ、エクロンにもってくると、
町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。(11節)
と語られています。詩人は恐らく、この古い昔の出来事を読んで知っていたと思われます。
共同体全体に経験された出来事を、詩人は、自らの経験に重ね合わせて、表現しているよ
うに思われます。確かに大きな災害、たとえば東北大震災、能登の地震の時などは、私た
ち日本全体が、或る重いものにのしかかられているという気持ちになりました。日本全体
に上から何か重いものが蔽いかぶさり、磨り潰されそうな思いにさせられました。そのよ
うな重い気分を、詩人は自分の体験において、心の内に感じているようです。
そのような呻きと重圧により、自らを磨り潰される中で、詩人は唯一の出口を見出して
ゆきます。
わたしは罪をあなたに示し、
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。 (5節)
詩人において何が起こったのでしょうか。罪の告白であると言われます。罪の告白とは
何なのでしょうか。沈黙を破り、自らの誤りを言葉で語ることとして記されています。詩
人は、他者に対して言葉を語らず、関係を断って閉じこもりました。自分に対しても、自
らの内奥の語り掛けに対して自らを閉ざしたのです。カインは「顔を伏せた」といわれま
す。正面から立ち現れるものに真向かうことを避けたのです。悔い改め、告白とはこうし
た自らの閉じこもり、他者への遮断という在り方の全面的変更を意味すると言えます。こ
の閉じこもりの中で経験した沈黙、呻き、磨り潰されるばかりの砕かれ、そうした苦悩の
中で、詩人は辛うじて、唯一の出口を見出しました。そのようにして、閉じこもりの硬い
殻を破って、外に出る、そのような脱出の行為として、告白が位置付けられています。
確かに詩人が語っているこの沈黙、閉じこもりは、或る特別の罪と言われる事柄に関わ
る特別の状態の如く思われます。一人の人が、或る時、特別の状況の中で、いわば偶然犯
した「罪」という行為に関わって起こった出来事の如く考えられます。しかしよく考える
と、私たちの日常生活のもっと奥底のところで、この「閉じこもり」は毎日を貫く行為と
して起こっているように思われます。或る固く干からびた我執の強張(こわば)りが、用心深く張り巡らされて、私たちはその奥底にうずくまっていることがみいだされます。それが私たちの奥底に隠された、真の自己の様相であることが明らかにされることがあります。そしてそのことは、単に一人の個人の偶然的な閉じこもりでなく、もっと広大な共同体、国家、或いは人類にまで及ぶ、強張(こわば)り、閉じこもりであるとさえも言えます。私たちは今、これまでになかった世界的な混乱に直面しています。様々な困難、戦争、自然災害、そうしたものが、世界そのものの呻きであり、世界全体の上に重くのしかかる「御手」とも感じられます。詩人は「町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた」(11 節)との古えの出来事を自らの経験に重ねましたが、私たちは、詩人の、そして私たちの個人の沈黙と呻きとを、現在の世界全体、共同体、国家、人類に関わる事態として受けとめるように求められていると考えざるをえません。
そしてこの硬く強張(こわば)ったもので私たちが蔽われているのは、「昼も夜もわたしのうえに重く」のしかかっている御手に対する、私たちの側の対抗手段、御手に対する反抗とも言えるように思われます。だからこそ、自分のうちで硬く強張(こわば)った堅い殻を打ち壊すことは自分では困難なのだと思います。私たちは、この「重くのしかかる」ものそのもののうちに、先ほど歌いましたルターの賛美歌258番の4節の「底いも知られぬ恵の御手」を示され、そのような「閉じこもりから出てくるように」との呼びかけを聴かねばならないのでしょう。この重くのしかかる御手そのものが「閉じこもらなくともよいのだ」との赦しの呼びかけであることを、自らの呻きと苦悩の長く辛い時の中で、少しずつ明らかにされていかなければならないのでしょう。重くのしかかる御手の呼びかけを、赦しの呼びか
けとして聴き取り、これに応えて、自らの殻から出て行くこと、そのことがまさしく告白
であり、『主にわたしの背きを告白しよう』ということなのでしょう。その意味で告白は、
単なる言葉ではなく、自分自身から出て行くという深い意味での「行為」なのだと思いま
す。或いは私たちの日々の行為が、そのような告白的意味を持っていなければならないの
だと思います。
最後に、先ほど2節の「心に欺きのない人」という表現の違和感について先延ばしにし
た点に触れたいと思います。「主に咎を数えられず、背きを許された」罪人と、「心に欺き
のない」正しい人が並べられていることの違和感です。詩人は恐らく、心に欺きのない人
として、単に一点の曇りもない清らかな聖人君子を考えているのではないのでしょう。そ
うではなく、自らの過ちと破れを自ら覆うことなく、自らと神に対して露わにし、自らを
欺かずに明らかにしている人をここで考えているのだと思われます。自らの過ちと破れに
関して、何の欺き、自己欺瞞を重ねないでいる、そのような「心に欺きのない人」なので
しょう。そのためには自らの破れを破れとして、明瞭に認めるへりくだりと自らの外に出
て行く勇気がなければならないのでしょう。そのようなへりくだりと勇気において、始め
て与えられる「心に欺きのない人」の幸いを祈り求めたく思います。
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