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とどまれと呼ぶ者ありて 

2024年9月1日主日礼拝説教 山本 精一


聖書

ヨハネの手紙一 第1章1~4節 第2章21~25節


 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たのも、よく見て、手で触れたも

のを伝えます。すなわち、命の言葉について。──この命は現れました。御父と共にあった

が、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝える

のです。──わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがた

もわたしたちとの交わりをもつようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イ

エス・キリストとの交わりです。わたしたちこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが

満ちあふれるようになるためです。


第2 章21~25 節


 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理

を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イ

エスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めな

い者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御

子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。初めから聞いていたことを、心にとどめ

なさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御

子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された

約束、永遠の命です。



 ただいま司会者に初めに読んで頂いたヨハネの手紙一(以下、ヨハネ第一書簡)の冒頭箇所は、一読してお気づきの通り、極めてユニークな語り口で語られています。それは、新約聖書中の他の書簡と比べてみても、また手紙というものについてのわれわれのごく一般的な常識に照らして見ても、相当に変わった書き出しです。それゆえ、異色とも言うべきこの出だしの言葉に初めて出くわした者は誰しも、先ずは、一体この手紙は何なのだといった戸惑いをおぼえるのではないでしょうか。それほどまでに、これは型破りな書き出しです。しかし、本書簡全体を音読しつつ繰り返し味わうとき、この冒頭序文には、この手紙全体を貫く招き、すなわちキリストの愛への招きが、著者渾身の力を込めてなされているとの感を深くします。この手紙を受け取った人々もまた、この書き出しの一文を聞いて、救い主イエスその人へと思いを深く新たにされ、イエス・キリストの言葉とわざ、その出来事へと、身と心とを集中させられていった事でありましょう。この冒頭部については、後ほどもう少し立ち入って考えたいと思います。


 ところで、この書簡の著者については、古来諸説がありますが、さしあたり有力な見解を二つほど列挙すると、一つはイエスの弟子ヨハネだと考える見解と、今一つはそうではなくて、そのヨハネの影響を深く受けた人々によって形成されていた、ヨハネ共同体とでも言うべきグループの一員によって書かれたとする見解との二つということになります。前者は、古代以来の伝統的見解ですが、イエスの弟子であったゼベダイの子ヨハネを著者と見なすものです。この立場は、今もなお多くの人が取っている有力なものです。

 それに対して後者は、弟子ヨハネを直接の著者とはみなさないとする立場です。しかし、そうは言っても、この立場もまた、この書簡にはヨハネの影響が色濃くあるという事までをも否定するものではありません。むしろその点を踏まえた上で、そのヨハネの影響を深く受けた人々が、ヨハネ共同体とでも言うべき信徒のグループを形成していたと考え、そのようなヨハネ共同体のなかからこの書簡が生み出されてきたと考える立場です。


 私はどちらかと言えば、後者の見解に与(くみ)するものです。この見解に従えば、そのヨハネ共同体とは、イエスの直弟子であったヨハネに端を発する共同体であって、そのメンバーは、直弟子であったヨハネのキリスト証言ないしはその伝統に深く連なる人々であって、彼らはそのキリスト証言に心打たれ、その事によって自らの生き方を打ち変えられ、そのヨハネの言葉を繰り返し新たに心に刻みつけつつ、それを大切に保存し伝えていった第二、第三世代の人々であったと考えられます。こうして、何れの立場に立つにせよ、この書簡には、イエスの直弟子ヨハネの影響、彼のキリスト証言の言葉が、脈々と息づいている事は確かな事だと思われます。


 今後者において述べたヨハネ共同体なるものは、当時すでに小アジア地方に幾つか点在していたものと思われます。そして本書簡は、そうした各所にあったヨハネ共同体のネットワーク目がけて書かれたものであった可能性が大であります。その場合、この書簡は、ある一つの特定の教会だけを目当てにして書かれたものではなくて、むしろ、今申し述べたヨハネ共同体に連なる幾つもの小さな群れ全体のことを心に留めつつ、それらの群れ=家の教会間で順次回覧・朗読できるようにと書き送られたものであったのではないかと思われます。じっさい、この書簡には、誰が誰に宛てて書いたのかという発信人及び宛先人の名前は、具体的には一切出てきません。そこには、この書簡が、親しい交わりのうちにあった幾つものグループを念頭に置いて、それぞれに集う人々に読まれるようにとの配慮のもと、回状として記されたものであって、それがゆえに、ある特定の教会の名前が、あるいはある個人の名前が敢えて書き込まれていないとの推測も十分に成り立ちます。


 しかし、そうであったとしても、ここに記されている「わたしたち」と「あなたがた」の間には、名前が明らかにはされていなくとも、読み手となった人々はこの回状の書き手の面影と声音をたちどころに思い浮かべることができるほどの関係があったのではないか。つまり、この「わたしたち」と「あなたがた」とのみ記されている固有名抜きの文章からは、そのような言い回しででも双方の間で十分にやりとりがなされ得るだけの、信徒同志の交わりの実(じつ)、配慮し配慮される関係というものがあったという事を、かえって逆に推し量る事ができるような気がします。それほどの交わりと信頼関係のもとに、この手紙は書き記されています。


 この手紙が書かれたのは、恐らく紀元九十年代後半から紀元百年代初頭のあたりのことであったと思われます。その時期はと言えば、イエスの活動した時から数えて六、七十年ほど後の時期です。それは、イエス以後、第二、第三世代の人々の活動時期に当たります。その頃には、イエスに地上で直接出会った第一世代の弟子たちの多くは世を去っていた事でありましょう。代わって、この書簡が書かれた頃は、その第一世代の弟子たちの命懸けの宣教に触れてキリストを信ずるようになっていった後続世代、具体的には第二、第三世代の信徒たちが生きて活動していた時代であったという事になります。


 しかしそうは言っても、イエスにじかに出会った第一世代の弟子たちのなかには、老境を迎えつつも当時なお存命していたという人々も、幾人(いくたり)かはいた可能性も捨てきれません。この書簡の成立に深く関わるイエスの直弟子ヨハネも、ひょっとするとそのような一人であったのかもしれません。そのような第一世代の人々は、イエスの言葉とわざを直接に目撃しかつそのイエスの受難と死と甦りの出来事を自己の存在の最も深いところに宿して、その長い生涯を生きぬいてきた証人たる人々です。なかでもこの書簡と深い関わりをもっているその人は、様々な現実の困難の中で風に揺らぐ葦のように動揺変転する現在のヨハネ共同体の信仰者たちの群れにとって、すなわち彼ら第二・第三世代にとって、彼

らの信仰の守り手にして支え手、そして励まし手にして導き手として、老師の風格を具えた存在であったはずです。この書簡には、そのような存在であった老ヨハネの畢生の遺言とでも言うべきものが、その言葉の端々から聞きとることができるような気がします。そこには、キリストにあって生き抜いてきた人の証しの声が、「この一点に踏みとどまれ」と、驚くべき迫力をもって谺(こだま)しています。それは、時代の激しい荒波のなかできりもみとなって呻く、初代の教会共同体の人々を根本から励まし立たせていった、キリストのいのち溢るる言葉として、読者に繰り返し、噛んで含めるように語られています。


 いま「時代の激しい荒波にきりもみとなって」と申しました。じっさい本書簡は、この時代の信徒たちがそれぞれの教会のなかで出会っていた極めて危機的な事態を背景にして記されています。その危機的な事態とは、彼らの信仰共同体の中に異なる教えに追随していく者たちが現れ、その結果生まれたばかりのその小さな教会の群れが、対立紛糾の末、分裂していったという、痛みに満ちた出来事でありました。(「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。彼らはわたしたちから去っていきました」二18~19)。


 本書簡が書かれた紀元一世紀の終わり頃、この書簡の宛先となっている小さな教会の群れのなかでも、そこここで「対立」そして「争い」が生じていました。この書簡のなかに出てくる、「反キリスト」(二18、22、四3)、「偽預言者」(四1)、「惑わす霊」(四6)といった厳しい叱責の言葉は、その「対立」と「争い」の問題が、彼らにとってどれほど深刻な問題であったのかという事を告げて余りあるものです。


 当時、グノーシス主義と総称される、一言で言えば、高等深遠なる宗教的知識を体得することによってはじめて人間の救いは完成されるとする新たな宗教思想が、誕生間もないキリストの教会を含め、中近東から地中海地方全域において燎原(りょうげん)の火のように勢いを増していました。それは霊と肉とを根本的に分離して、肉的なものを脱した霊的なものこそが、真理に、そして真の救いに直結するものであって、それに対して肉なるものは非真理の源だと徹底的に見下されて、その肉的なものにまみれたあり方から霊的に純粋なあり方へと、知的な悟りによって脱出する事こそが真の救済だと説く、何にもまして霊知を標榜する立場でありました。

 このグノーシス主義とも連動して、イエスが肉となってわれわれのうちに宿られた(受肉)という事を、恥ずべき教えとして排斥する人々も活発に活動していました。彼らは、例えば、イエスが神の子ならば、あのように無惨にして無力な死に方をするはずはない。それゆえ、十字架上で死んだイエスとは、神の子イエスではない。神の子イエスの本体とは、人間的な死そのものとは無縁である。それゆえ、イエスを神の子とした霊は、その十字架上の死の直前にイエスから無傷のまま離脱し、対してそこで死んでいったのはただの肉体として滅ぶべき肉の身のイエスだけであって、その点、その肉身のイエスとは虚仮(こけ)の存在でしかない。真の神の子イエスは、十字架の苦しみや死などといった滅びの影を一切宿さぬ霊的存在であって、その霊的イエスこそが真の救い主なのだといった事を高唱するものでありました。


 こうして、キリスト教が産声を上げたこの時代とは、当時の様々な社会的、文化的、宗教的な潮流が激しく交錯・衝突する混沌たる時代でもありました。なかでも、グノーシスの主張する深遠な知識による霊的救済という教えに目くるめく影響を受け、そちらの方へと心惹かれていく者は跡を絶たず、当時「家の教会」として生まれていたキリスト信徒の小さき群れの内にも、これらの影響を受けてそちらへとなびいていく人が続々と現れ、その結果生まれたばかりのキリスト教共同体の中では、仲間割れや内輪もめは日常茶飯事であったという事を、あるキリスト教史家は指摘しています。


 しかし「互いに愛し合いなさい」というキリストの新しい戒め(ヨハネ福音書一三34)、その戒めをキリストからのかけがえのない贈りものとして受け取った新たな小さき群れ、その事によって新たな生を生き始めていたヨハネ共同体にとって、このような教会内の対立・分争によって仲間が「立ち去って」(二19)行ったという事が、彼らの内心深くにどれほど深い傷、深いトラウマを負わせていたのかという事については、今もって深く思いみるべきものがあると言わねばなりません。この事は、その時代が混沌とした時代だったから致し方なかったのだなどといって、高みの見物で呑気に済ませられるような問題では決してありません。激烈な試みの世にあって、しかしなおそこからキリストに見出され、キリストとともに新たな生に生きんとする者にとって、この問題は、彼らの新たな生き方の根幹を揺るがす、極めて深刻な問題であった事は、察するに余りあるものがあります。


 ヨハネ第一書簡は、諸々の誘(いざな)う者たちが混沌と入り乱れる時代の世相のなかで、対立・分裂という痛みに満ちた現実の破れに呻吟する「わたしたち」が、同じく苦しい境遇にある「あなたがた」に向かって書き送った書簡でありました。交わりの破綻という痛ましい現実を身に負いつつ、しかしそのなかにあってなお「わたしたち」と「あなたがた」が立ち返るべき一点は一体どこにあるのか。その立つか倒れるかの生死分け目の一点を、敬し愛してやまない先師ヨハネの語り伝えた言葉を想起しつつ、本書簡はキリストの香気に満ちた言葉とともに繰り返し語りかけます。


 自身もまたこの共同体内の傷(トラウマ)を深く負いながら、しかしそれを根本から癒し、新たな一致へと促すもの、それを「互いに愛し合う」というイエスの言葉のうちに確と聞きとり、何よりもイエスから与えられた「いのち」にわれわれは与っているではないかと、その一点をこそひたすらに指し示します。そこでは、言うに尽くせぬ試練と苦難のなかで、このイエスの愛のうちに一貫して踏みとどまってきた老師ヨハネの存在、その人の生涯を貫いてきたイエスとの全身の交わりの経験が、熟した果実のような証しの言葉となって、次の世代の人々に手渡されています。その生きて働く信仰の消息を、今この危機のなかで動揺しつつ歩む者たちに、何としても伝えんとする手紙。それがこのヨハネ第一書簡なのだと思います。本文に入ります。


1節。


初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの……すなわち、命の言について。


 このヨハネ第一書簡は、内容的な点から言っても、同一のあるいは類似した用語が多々用いられているという点から言っても、ヨハネによる福音書と極めて密接な関係をもっています。恐らくヨハネ福音書の方が先にまとめられていて、ヨハネ第一書簡は、そのヨハネ福音書の少し後に書き記されたものであったと思われます。こうして、本書簡には、全篇を通じて、ヨハネによる福音書と共通の言葉遣い、また共通する内容が多々出てきます。この冒頭の箇所も、そのような箇所の一つです(参・ヨハネによる福音書一1~ 18)。とりわけ本書簡の初めの一語「初めからあったもの」とは、ヨハネによる福音書の冒頭一語「初めに言があった」を彷彿とさせるものです。


 しかしこのヨハネ第一書簡の冒頭序文には、他方、この書簡ならではとも言うべき表現が、極めて印象的な仕方で用いられてもいます。それは、


 聞いた、見た、よく見た、触れた


という、イエスとの交わりをその場にありありと現出させる言葉遣いです。この極めて直接的な表現を用いた書き出しを、本書簡の受けとり手たちは、恐らく息を呑むようにして聞いていたのではないでしょうか。しかもこの部分は、簡潔な語調にして極めてリズミカルな言い回しです。それは耳で聞いて覚え、さらには自ずと口ずさみ始めるような、練り上げられた表現です。


 こうしてヨハネ第一書簡は、冒頭において、イエスとの地上での交わりが、単なる言葉や口先だけのことであったのではなくて、身心まるごとで経験されたものであったという事を、この


 聞いた、見た、よく見た、触れた


という端的な経験の言葉を重ねながら、読み手の魂のうちにありありと喚起しようとしています。


 これは先に少しく触れた、当時影響力を揮ったグノーシス派が主張した事、すなわち肉なるイエスなどというものには何の意味もないとする主張に真っ向から対決・対峙せんとするものです。それは、ヨハネによる福音書が語る、言が肉となってわれわれの内に宿られた、すなわちイエスの受肉という事を、本書簡固有の言い回しで表現し直したものだとも言えます。その目のさめるようなイエス証言の言葉が、第一ヨハネ書簡を通して、今またわれわれに手渡されています。


わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの。


この一語一語を、耳を澄まして聞き入っていたであろう人たちの多くは、歴史的に言って、恐らく地上のイエスと直接に相見える事のなかった人々でありましょう。しかしその彼らは、イエスと直接に出会った第一世代の弟子ヨハネの証しの言葉を、ヨハネその人との具体的な(「手で触れる」)交わりを通して、彼が語った「聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」という言葉を、今度はヨハネとの関わりのなかからヨハネという人の生き方そのものを通して、自分たちに迫りくるものとして受け取らずにはいられなかったのではないでしょうか。

 とりわけ、この最後に出てくる「手で触れた」とは、ドキッとするほど生々しい言葉です。ここには、イエスとのそのような交わりを経験した人しか語り得ない第一次的な迫真性があります。フィクションや想像の産物を技巧を凝らして語るなどという芸当は、この著者にはおよそできることではなかったはずです。即ち、肉身のイエス御自身との心身挙げての交わりという厳然たる事実抜きには、このような言葉は決して語り得るものではなかったはずです。


 その点に思いをめぐらす時、私はヨハネ福音書中の以下の記事を想起せずにはいられなくなります。


イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事

の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられ

るのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかった

まま、「主よ、それは誰のことですか」と言うと………。 (一三23~25)


 ここで「弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者」と言われている弟子とは、伝統的には使徒ヨハネであると考えられてきました。もちろん断定はできませんが、その可能性は極めて大きいと言えます。するとイエスの胸もとに寄りかかったヨハネにとって、イエスとは、正真正銘「手で触れたもの」いやそれどころか全身で触れたものです。じっさい四福音書のなかには、イエスが触れた人々、あるいはイエスに触れた人々が、ある者は長年の苦しい病から癒され、ある者は罪の縄目から解き放たれた出来事として書き留められています。


 ヨハネもまた、このようにしてある決定的な場面でイエスに触れていたのだとするならば、その出来事は、ヨハネにとって、終生消えることのない、いや年を経るごとに新たにされていく皮膚感覚・身体感覚、すなわち肌触り手触りとなって、彼の五官のうちに鮮明に刻み込まれ、イエスをいよいよ傍近くに想起していくよすがとなっていた事でありましょう。

 そのようなヨハネのイエスに触れた経験を、第二、第三世代も、そのヨハネとの交わりを通してじきじきに、あるいはヨハネ共同体の交わりのなかで否みがたいリアリティーをもって、聞きとめ受けとっていったのではないでしょうか。その後続世代の者たちにとって、このイエスを膚で感じるという事は、あるいはイエスに触れるという事は、このようにして、証し人ヨハネの共同体のなかで確認・確証されるものであったのだと思います。


 では、その確認・確証をじっさいに彼らに与えるものとは、一体何であったのでしょうか。本書簡の著者にとって、それは、「互いに愛し合う」という一事に尽きるものでありました。ここにもまたヨハネ福音書と深く響き合うものがあります。


あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたが

たを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うな

らば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るように

なる。 (ヨハネ福音書一三34~35)

愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたち

も互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見たものはいません。わたした

ちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり、神

の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネ第一書簡四10~12)


 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」、その第一世代の経験は、今や「互いに愛し合う」ことのうちでこそ確認・確証そして吟味されていく。その一点に、ヨハネ第一書簡は、ヨハネ福音書ともども、深い確信をもって立っています。逆にこの「互いに愛し合う」という一事なしには、この冒頭序文は妄想だといって切り捨てられるべきものだと言わねばなりません。こうして、ヨハネ共同体は、神の愛に打たれて互いに愛しあう交わりというものの喜びと恵みとその責任を、かけがえのない証しの言葉を通して、深く知らされていったのだと思います。


 最後に、本書簡の頻出語の一つ、「とどまる」という言葉について触れて今朝の説教の責めを終えたいと思います。これは原文ではメノーという言葉でありますが、それはヨハネ福音書でもヨハネ第一書簡でも多用されている、ヨハネ文書特愛の言葉の一つです。じっさいヨハネ第一書簡では、この短い書簡のなかに二十回以上もこの語が出てきています。初めに司会者に読んで頂いた今一つの箇所もまた、この「とどまるメノー」が用いられているところの一つです。その箇所を、協会訳でお読みいたします。


初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初め

から聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子

と父とのうちに、とどまることになる。これが、彼自らわたしたちに約束され

た約束であって、すなわち、永遠のいのちである。 (二24~25)


今年の佐久学舎聖書研究会では、ヨハネ第一書簡を取り上げました。参加者が本文全体を熟読し、その上で担当した箇所を各自能う限り熱心に調べ、そのなかにあって分からなかった事を分からなかった事としてはっきりと述べ、さらには疑問を投げかけ、そのようにして最後に聖書本文から受け取った事、感じた事を腹蔵なく述べるといった、いつもながらの集中した学びと祈りの時を、老師ヨハネの如き、老いていよいよ力溢るる川田先生の渾身の導きのもと、九十三歳から二十一歳までの人間が生活を共にしつつ心開いて聖書の音信に向き合っていくという、まことに恵まれた聖書研究の時を与えられた事でありました。そのなかのある箇所についての発表において、若い友人がこの「とどまるメノー」という言葉について、以下の様な報告をしました。


 その人は、このメノーというギリシャ語をギリシャ語・英語の辞典で調べた上で、その中から特にも、このメノーという言葉には、“to stand against opposition(反対に抵抗する)”、“to hold out(最後まで持ちこたえる)” という意味がある事、さらには“to remain(とどまり続ける、離れない)”、“to endure(耐える)”、“to stay in force(しっかりと踏みとどまる)” という意味もあるという事に注目して、以上の事からメノーとは、「離れない」「離れさせようとするものに抵抗する」強い意志のこめられた言葉だという事に、われわれの注意を促しました。


 先ほどお読みした二章の二四~二五節にも、まさしくこの「とどまるメノー」という言葉が繰り返し用いられていますが、この箇所の直前の二二節にはイエスがメシアであることを否定する「偽り者」の事が、さらに一八節には「反キリスト」の事が強い口調で述べられていました。つまりここでは「とどまるメノー」という言葉は、こうした「惑わす者=反キリスト=偽り者」たちからの攻撃と誘惑のなかにあって、しかし「離れず」に「踏みとどまり」、それら「惑わす者=反キリスト=偽り者」に「抵抗する」事を強調する文脈で用いられています。


しかしそのうえでこの人は、そのときわれわれは一体何にとどまるべきなのかと自ら問いかけました。そのとき注目した言葉、それが二四節の


初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。


という言葉でありました。それではその「初めから聞いたこと」とは何か。それは、


互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教え (三11)


だと本書簡は明言している。その事を明示してくれました。


 この様にメノーという言葉をめぐってテクストと格闘してきたその友は、最後に「まとめ」として次のように語りました。


イエスがキリストであること、つまり神が肉体をもってこの世に来て下さったことを否定する力が強くある中で、著者がこの「受肉のキリスト」をいかに大切にし、そこに踏みとどまることを何としてでも守りたかったか。受肉のキリストは、わたしたちが生き生きと聞き、見、触れたものであり、われわれと共にあり、共に働き、共に食べ、共に喜び、共に傷つき、傷をいやし、われわれのために命を捨てられた。それによって……「互いに愛する」ことを教えてくださった。


 私は深い感銘をもって、このまとめの言葉を聞いておりました。


 私は、とりわけこの最後のまとめで、ただ「とどまる」というだけではなくて、「何としてでも(踏みとどまる)」と述べられた点に、深く心を探られる思いでありました。われわれは今、残虐な軍事国家の組織的暴力による 殲滅(せんめつ)行動を「何としてでも」とどめることができない世界のなかに、その一員として自らどっぷりと浸かり込んでいます。民族抹殺を傲然とそして平然と続ける者たちを黙認する世界を覆う時流のなかで、ヨハネ第一書簡の「とどまれ」と呼びかける者の声を聞く時、私は、そしてわれわれは、一体どこに何としてでも踏みとどまるべきなのか。


 その決定的一点、それが「互いに愛し合う」という事であり、しかもその一点へと何としてでもとどまれと全身全霊を挙げて呼びかける者の声に、われわれは今このとき出会っています。その何という恐るべき恩寵。そのときこの「互いに愛し合う」という恩寵の一点に何としてでもとどまる責任を、この時代の歴史的文脈の中で我意と無力感を日々に打ち砕かれて、いささかでも果たしゆく者でありたいとの願いを、この恩寵によって与えられてきます。


 時代の濁流にきりもみとなっているわれわれに、今このヨハネ第一書簡はいよいよ語りかけます。何としてでも「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、その御子のうちにとどまれ」、「初めから聞いていたこと、互いに愛し合うことに踏みとどまれ」、と。その事によってわれわれにもたらされる「しっかりと踏みとどまる」という事は、まさしく敵対してくるものに抗して立ち続ける(to stand against opposition)事であり、最後まで持ちこたえる(to hold out)事であるとのメノーの一事が、初代キリスト教会のいとも小さき群れから、歴史を貫いて今このときわれわれに届けられてきている恩寵の呼びかけであるという事に、震え戦(おのの)く感謝と喜びをもって、そして何よりも畏れを深くして、この恩寵の呼びかけに身を委ねつつ、この世界が打ち変えられていく事を、そしてその中にいる私自身が打ち変えられていく事を、真剣に祈り求め続けていきたいと思います。

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