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わが友たる汝らに告ぐ 山本 精一【2024/2/12】

ルカによる福音書第一二章一節〜一二節

先日、「ヤジと民主主義」という題名のドキュメンタリー映画を観る機会がありました。高松の小さな映画館でその映画が一週間のみ限定上映されるという事を、日本近現代史を専攻する友人から教えられて、それを観にいくことにいたしました。私自身、その映画が取り上げている出来事、それは4年半前に実際に起きた出来事ですが、その出来事をよく知りたいと思っていたからです。その映画は、2019年7月15日、北海道の中心都市札幌で、国政選挙の際に自民党候補の応援演説を行っていた安倍晋三首相(当時)に向かって、異議申し立てのヤジを飛ばした二人の人物を追うドキュメンタリー映画でありました。そのお二人は、一人は社会福祉の仕事に携わる人として、一人は増税に喘ぐ学生として、現代日本社会の底辺に追いやられて苦しんでいる人たちの現実に、それぞれなりの仕方で、常日頃から接してきていた人たちでありました。また、このお二人は、双方この時まで、互いにまったく一面識もなかった人たちでもありました。


映画本編は、一帯の歩道を埋め尽くした群衆に向かって、大型街宣車の上に立って演説する安倍晋三氏の姿の大写しから始まりました。しかしその彼は、安全保障問題や教育問題に関して、日本国憲法の根幹を揺るがす法案を次々と打ち出し、国のかたちを強引に変ずるようなそれらの案件に関して、国会での反対意見にまったく耳を傾ける事ことなく、強行採決・強行突破を繰り返していました。その事に対して、市井の多くの人々が危惧の念を深くし、全国各地で厳しい批判の声が上げられ、国会を取り巻くデモが重ねられていきました。しかし彼はそうした批判者たちを「敵」と呼び、逆に自分に近しい人と見るやそれら各界の人々との親交をアピールし、そうした人々のなかから、政治的要職や各種政府審議会委員を積極的に任命し、「お友達政治」と呼ばれる政治手法を用いた政治家でもありました。しかし同時に、森友学園・加計学園・桜を見る会に関して重大な不正疑惑が発覚した際には、国会での真相究明、責任追及の問いかけに対しては、問われている事には答えずに、肝腎な点についての出すべき証拠も開示することなく、饒舌を重ねて問題追及の核心部をはぐらかしながら窮地を凌ぐこと度々でありました。こうして私の見るところ、彼は、戦後政治家のなかでも稀に見る面妖な、およそ言葉というものを大切にしない政治家でありました。


彼は、この日、党総裁として、札幌市内の繁華街に集まった大勢の人々に向かって演説を始めます。いつもテレビや新聞で目にしている有名政治家が来札したという事で、その人を間近に見たいと、街路には通りがかりの人も含めて多くの人々がひしめいていました。そのなかには、事前に配られていたのであろう「日の丸」の小旗、あるいは「安倍さん頑張って」のロゴが刷り込まれた小旗を手にしている人々も多数見受けられました。こうして、文字通り安倍氏の独壇場と化したその場に、突然、遠くの方から「アベやめろ」という声が聞こえ始めます。しばらくすると今度は別のところから「増税反対」という別の声が聞こえてきます。こうして、この場でこの安倍氏に対して、それぞれたった一人で丸腰のまま声を上げた人が、この時別々に二人現れました。札幌の中心街に出現した、権力者による政治的プロパガンダの空間の真只中で、彼ら二人は、それぞれに、その権力者の放つ諸々の政策によって踏みにじられている人々の苦しみと痛みを内に宿しつつ、その演説者本人に異なる声を少しでも届けねばとの止むにやまれぬ思いに駆られて、単身必死で声を上げた人たちでした。彼らはともに、それまで政治活動歴など全くなかった二十代と三十代の若者でした。このとき、その場にいた夥しい群衆の中で声を上げたのはこの二人だけだったという事にも、この国を現在覆っている重苦しい雰囲気が、そのときの大方の沈黙のうちに、いみじくも象徴されているのを感じたことでもありました。


すると、ただちに異様な事態が起き始めます。その異様な事態とは、大勢の私服・制服の警察官がその二人のところにそれぞれ一斉に駆けつけ、取り囲み、黙らせようと押し問答を仕掛け、力ずくでその人の腕をつかみあるいは抱え込み、体をじりじりと押しやりながら、その演説の現場から遠ざけ排除していくという、警察の組織的にして威嚇的な排除の動きでありました。その一部始終の模様が、声を上げた人の友人によって幸運にもスマホで動画撮影されていました。その映像は、この映画のなかに度々映し出されていきます。まことに生々しい緊迫した映像記録でありました。

 

この映画は、北海道放送という北海道の民放メディアが、この出来事の重大性に着目し、それ以来、専門チームを作ってこの問題を取材・追跡し続けるなかで制作したものでした。このお二人は、その後、この時の北海道警の彼らを排除したやり方が、法を逸脱した、市民に対する極めて不当な行為であると訴え、その事実認定を求めての損害賠償訴訟を、警察を管轄する北海道の行政当局に対して起こしました。このドキュメンタリーは、その一連の出来事を追うとともに、その問題について、複数の法学研究者や法律専門家、さらには警察OBの人々を訪ねての、彼らそれぞれの見解の聞きとりを行っています。加えて、裁判の経過、明治期以降の権力による言論封殺の歴史の振り返り、現場に居合わせた他の人々へのインタビュー、そして何よりも排除された二人の言葉と生活とを丹念に追った、優れたドキュメンタリー作品でありました。この二人の訴えは、一審の札幌地裁では、この場合のヤジは「公共的・政治的事項に対する表現行為」であって、それを排除した警察の行為は「表現の自由への侵害」であるとの判決が明確に示されました。しかし二審の札幌高裁判決では、二人のうち初めに声を上げたお一人の主張が、一転して全面的に棄却されました。この高裁判決を受けて、原告である御二人も、また被告である北海道知事も最高裁に訴えています。

 

この映画は、本編に先立って、まず、ナチスに抵抗した牧師マルティン・ニーメラーの有名な詩をプロローグとして提示していました。御存知の方も多い事と思いますが、今一度心してこの詩を読んでみたいと思います。

ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。

彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。

彼らが私を連れさったとき、抵抗の声をあげることのできた者は、もはや誰一人残っていなかった。

この詩を心のうちに口ずさみつつ、この映像記録をたどり直すとき、札幌のこの若者二人を襲った出来事を通して、今われわれもまたニーメラーが告白した事態と本質的には同様のところに立たされているのだという事、そして何よりもこの詩を通じてその事に目覚めよとの呼びかけに面しているのだという事を、あらためて痛切に感じさせられた事でした。ニーメラーは信仰者でありました。彼の信仰的良心は筋金入りのものです。しかしその彼の信仰的良心は、ナチス支配の闇が始まったとき、語るべきことを語ることなく行ずべきことを行ずることがなかった。彼はそのとき自らそのように沈黙した事への痛切な懺悔と悔い改めを、この詩のなかで告白しています。それはそのまま、あの暗い時代に関する第一級の歴史証言ともなっています。かくしてニーメラーは、信仰的良心は、具体的な歴史の闇のなかでこそ生きられねばならないのだとの告白を、この証言詩に刻みつけています。そこには同時に、「読者よ、悟れ」という無言の声が響きわたっているように私には強く感じられます。今朝の聖書箇所にもまた、後に見るように、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのとき教えてくださる」(ルカ福音書一二11〜12)という、ニーメラーの詩と合わせ鏡にして読むべき、見過ごすことのできない言葉が出てきます。


ところで、今日2月11日は、この国では57年前に「建国記念の日」とされた「祝日」です。しかしわれわれが属する日本基督教団は、この日を「信教の自由を守る日」としています。「建国記念の日」は、その当時各界から上げられた強い反対の声を押し切って、1967年に制定されたものでありました。その制定を、当時日本基督教団は、深い危惧と歴史的危機意識をもって受けとめていました。その危機意識に基づいて、教団はその日を「信教の自由を守る日」と敢えて呼びなし、現在に至っています。この「信教の自由を守る日」という名称には、この日を「建国記念の日」とは認めないという教団の初志初心が表明されています。その初志の背後には、以下の様な歴史的な問題が横たわっています。2月11日は、1945年以前には「紀元節」と呼ばれ、『日本書紀』中の神武天皇即位の神話を現在の暦に当てはめ、それを国家の「祭日」として各地で祝うものとして、明治早々、1873年(明治6年)に制定されたものでした。それは以後、皇国史観と一体となって、国民に広く浸透していきました。とりわけ、この日を祝うべしとの祝意の圧力は、学校をチャンネルにして、そこに通う子どもたちへの厳粛を旨とする奉祝儀礼を通じて、全国津々浦々へと伝播していきました。こうして、皇国史観とは、この国の戦前戦中の国家中心主義を、人々の魂に国家が刻みつけていくものでありました。この歴史観は、突きつめて言えば、この国は天皇を始源とし中心とする天皇制の国家であるという、天皇制国家主義を唱道する神話的イデオロギーの本体をなすものでありました。国民は、幼時からこの皇国史観を叩きこまれ、国家有為の「人材たれ」と教育されていきました。私の父や母は、その時代を内側から生きた歴史の証人たちの一隅(いちぐう)をなす者たちでもありました。


敗戦に伴い第二次世界大戦後の1948年に、GHQによってこの紀元節は一旦廃止されます。しかし1960年代後半、かつての「紀元節」とまったく同じ日、2月11日を「建国記念の日」にしようとする動き、さらにそれと歩調を合わせて靖国神社を国営化しようとする戦前回帰の動きが活発化していきます。この動きに対して、当時、宗教界の多くが危機意識を強め、キリスト教界もまた反対の意志を表明しました。当時父は、東京小金井の地で牧師をしておりましたが、このとき、連日連夜、いつになく多くの牧師さんたちとの電話でのやり取りをしていた事を、子どもながらによく憶えています。その時の常ならぬ緊迫した雰囲気は、今もなおありありと思い起こす事ができます。何かただならぬことが起こっているのではないか。そのときの漠然たる印象は、時が経っても色褪せる事がありません。


父母の世代が抱いた危機意識とは、戦前戦中期に経験していた「紀元節」の具体的な経験記憶に裏打ちされていました。その日を、戦後22年経ってまたぞろ「建国記念の日」と名を改めただけで「祝日」化するという事が何を意味するのか、その事の重大な問題性に黙っていられなくなった人々の歴史的な危機意識でありました。この政治主導の祝日化の企てが、戦前・戦中への無責任・無反省な回帰に連なっているという事を、戦争経験の苦しみを味わった人々は膚で感じ取っていたからです。また戦時中の宗教弾圧への恐れから口を噤んで戦争協力をなした教団の歴史への厳しい反省もありました。じっさい戦時中は、特高が「聖書の神と天皇陛下とどちらが偉いのか」と尋ね、返答次第で「不敬罪」が適用される時代でありました。私が在職した基督教独立学園の創立者鈴木弼美(すけよし)は、日曜礼拝で「この戦争には勝てない」と発言した事を特高警察が派遣したスパイに聞き咎められ、戦争末期、山形警察暑の監房に8か月間留置されました。彼が「嫌疑不十分」として釈放されたのは、78年前の明日、1945年2月12日でありました。私が2013年冬、独立学園校長への招聘を最終的に受けようと決意した時、心秘かに期したことが幾つかありました。その時期は、折まさしく先の安倍氏を首班とする第二次安倍内閣が、子どもたちに対する「愛国心」教育を掲げて、「道徳の教科化」という目玉商品を引っ提げて、いよいよ教育現場に乗り込もうとしていた時でもありました。私は、それまでほとんど関係のなかった独立学園に、右も左も分からぬまま着任していくに当たり、この学校の始まりのところに、鈴木が礼拝の場で語った事に関して、特高すなわち国家により検束され監房にぶち込まれたという迫害の一事があったという事、その歴史的なしるしが刻印された特別の学校のなかに自分は招聘されていくのだとの自覚を、粛然たる思いのうちに繰り返し心に刻んでおりました。


「建国記念の日」が「紀元節」と重ね合わせられながら、亡霊のように再登場してきたというこの国の戦後史を、われわれ一人一人は一体どう考えるのか。その問いは、この国の歴史を、そしてわれわれ自身のあり方を考える上で、切れば血の出るような現在進行形の問題だと言わねばなりません。しかしながら、現在の日本社会の表層を見回すならば、われわれは、現在、その問いがあたかも蒸発してしまったかのような社会的風潮のなかに身を置いているとの感を懐かざるを得ません。しかし日本社会のありようがどのように流れていこうとも、この日が「建国記念の日」と呼ばれて「国民の祝日」とされ続けていく限り、この歴史の問いそのものを無きものとすることはわれわれには許されません。歴史とは、われわれが恣(ほしいまま)に自分に都合よく消去したり改変したりする事を許さないからです。にもかかわらずその問いをわれわれが安易に閑却しようとするならば、その代償は必ずやわれわれの現在と未来、後続の世代に跳ね返ってきます。その事への恐懼(きょうく)を、このとき深くしたいと思います。


テクストに入ります。先ほど司会者にお読み頂いたルカによる福音書一二章一節は、「とかくするうちに」という冒頭の言葉が示すように、文脈的には、直前の一一章三七節から最後の五四節までを受けていると見なせるでしょう。その言葉に続けて、「数え切れないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほど」(1a) と、その場の有様が伝えられています。ここは直訳すると「何万人もの群衆が」という誇張的な表現で記されていますが、さらにそれに「人々が互いに足を踏み合うほどだった」との強調表現がもう一つ重ねられている事になります。この「互いに足を踏み合うほどだった」との言い回しは、四福音書中、さらには新約聖書中ここだけにしか見られない、ルカ独特の表現です。どこか滑稽なドタバタ感をすら宿した言い回しです。しかしルカは、大仰とも言える表現を重ねながら、イエスに対して実に多くの人々が、先を争ってそれぞれの求めをもって迫っていたという事を示そうとしています。


そのごった返す状況のなかで、イエスはここで「まず弟子たちに」(1b)「注意せよ」と語りかけています。「まず弟子たちが」注意しなければならない事とは何か。それは「ファリサイ派の人々のパン種」でありました。それは間髪入れず「偽善である」(1c)と表白されます。「パン種」とは、ごく少量でパン全体を膨らますものです。パンがみるみる膨らんでゆくというこの目も文(あや)な譬えを通じて、イエスは、偽善とはそれがごく僅かな偽善であったとしても、必ずやその人のなかでどんどんと膨れ上がっていくものだというのです。しかも、ここで語られている「偽善」という事が、単なる「偽善」ではなくて、「ファリサイ派の人々の偽善」と言われている事に注意しなければなりません。この「ファリサイ派の人々の偽善」の有様を、イエスは、先ほど触れた一一章で、具体的な振舞を取り上げて、歯に衣を着せぬ語り口で述べています。それは「盃の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(一一39)ことであり、「薄荷や芸香(いのんど)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(一一42)こと、そして「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好む」(一一43) ということでありました。それらを承けた上で、ここではそれこそがまさしく、彼らのパン種=偽善が、誤魔化しようのないほどに膨れ上がって現れ出てきている姿だというのです。


それに続けて、「覆われているもの」「隠されているもの」(一二2)という言葉とともに、ファリサイ派のみならず、弟子たち、そしてわれわれ自身の偽善の問題へとイエスは立ち向かっています。とはいえ、ファリサイ派の人々は、当時のユダヤ社会においては、敬虔にして律法に忠実な宗教者として民の尊敬を集めてもいました。彼らの生活姿勢は、確かにそれだけの内実を具えていました。しかしそのように「敬虔にして忠実」という事が自他ともに認められるようになればなるほど、その人々は他人には恥じて言えないような自分自身の秘密を、それだけ一層他人には悟られまいと立ち回らねばならなくなります。そのときわれわれは、その秘密を「覆い」「隠す」べく、偽善の皮=身振りを一枚また一枚と身にまとわねばならなくなります。じっさい、そのようにして首尾よく隠し通す事ができたと思うときには、われわれはうまくいったと一人秘かに胸を撫で下すのではないでしょうか。

しかしながらわれわれはまさしくそのように思い込んでいる地点で、驚くべきイエスの言葉に遭遇します。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」 (2)


原文には、「何一つなく」とも訳し得る、強い否定辞(ウーデン) が用いられています。

ところで、われわれ大人たちは、子どもたちに「悪い事は必ずばれるからしちゃだめだよ」と訓戒を垂れてきました。しかし大人の社会をじっと見ている利発な子であれば、「うっそだーい。世の中には隠れたところで悪いことやっていながら、人にばれないようにして甘い汁吸ってる大人が一杯いるじゃないか」と、それこそ真っ直ぐに言い返してくる事でしょう。恐ろしくも、頼もしい事です。しかしながらここでのイエスの言葉は、人の目にばれるかばれないかと言ったレベルでの話ではまったくありません。「露わとはなってこないものは何一つない」とは、人間には決して語り得ない言葉だからです。逆に言えばこのイエスの言葉は、これまで誰も聞いた事がないほどの激しさをもって発せられている断言だと言わねばなりません。聞く耳のある弟子ならば、震えあがったであろう激しい断言の言葉です。その激しい言葉が、その激しさのままに、弟子たちに向かって語られていきます。

「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」 (3)


ではイエスは、ここで弟子たちを脅しているのでしょうか。否! です。その「否!」を示すのが、次の言葉「友人であるあなたがたに言っておく」(4)です。今朝の説教題は、この部分の文語訳から取っています。「我が友たる汝らに告ぐ」。イエスは直前の激しい断言を、しかしながら、弟子たちを友と呼びつつ、つまりは彼らに対する深い愛ゆえに発しています。しかしその直後に語られた事、それもまた心底仰天すべき言葉にして、恐らくわれわれが受け容れるのに最も困難な言葉です。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」 (4)


ウクライナへのロシアの軍事侵略は、まもなく2年になります。パレスティナ住民に対するイスラエルの軍事的組織的虐殺は4か月を越えました。そのなかでいったいどれほどの無辜の市民の「体が殺されて」きた事でしょうか。その事に悲しみ傷つき戦慄しない者はいません。しかるに、イエスはここでこのうえなくはっきりと語ります。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。

「その後、それ以上何もできない」とは、いったい何を言っているのでしょうか。ここには、われわれが考え及びもつかない事が語られています。すなわち、

「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方だ。そうだ、あなたがたに言う。この方を恐れなさい。」 (5 一部改訳) 「われ汝らに告ぐ。げに之を懼れよ。」 (文語訳)


しかし戦争が無差別にもたらし続ける殺戮の残虐性に、われわれの心は日々かきむしられるほどに苦しみ傷ついています。それはただちに「体を殺された」人々への悼み悲しみに連なっており、「体を殺す」者たちへの憤りに連なっています。そのわれわれにとって、「体を殺す者ども以上に、なお地獄に投げ入れる権威= 力ある者を」恐れよという言葉に対しては、「何を言っているのだ」と反発をおぼえる事があっても、それをすんなりと受け入れることなどおよそできる話ではないでしょう。


しかしそのわれわれに向かってこそ、イエスは「我が友たる汝らに告ぐ」と全身全霊で語りかけておられるという事、その決定的一大事に、われわれは立ち返らねばなりません。その際深く注意すべき事があります。それはすなわち、そこで「汝ら」と呼びかけられている弟子たちは、決して「体を殺す者」の一員としてではなくて、むしろ迫害され十字架につけられて殺されねばならないイエスの弟子達として、「体を殺される」者の側にいる人々だという事です。その人々は、「体を殺す」側の人々とは明確に区別されるべき人々です。この時われわれははたと気づかされます。この言葉を語っておられる御方、その御方こそ「体を殺す者たち」の残虐な迫害を身に受け、陰府に下られた御方だということを。その方が何にもまして、聖霊と一体となって「我が友たる」弟子たちに、そしてわれわれにこの言葉を頒ち与えているのだという事を。その時この言葉は、神の子が十字架の闇の中から、弟子たちに向かって、そして歴史の残虐のなかで懊悩するわれわれに向かって、叫ぶが如く語りかけられておられるのだという事を。


「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども」とは、その意味で、体を殺す者どもに対する神による決定的な無力の宣言、彼らへの審き、神の審きを語る言葉に他なりません。と同時に、その「体を殺す者」どもには指一本触れることができない御方、すなわち


「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」 (5)


こそ、われわれが真に畏るべき御方である事を明らかにしている言葉です。それは、殺す者たちには神の決定的な審きがあるという事、人間には及びもつかない審きがあるという事を、われわれに渾身告知する言葉です。イエスはその御方をこそ、一点ひたすら見上げて語っています。


それとともに、殺されるという事を恐れるしかない弟子たちそしてわれわれの歩みに関して、イエスは、自らを痛めるほどに心砕いてこの言葉を語っています。そこにこそ、この言葉の底深くから響いてくる慰めと励ましの拠って来るところがあります。かくてわれわれが真に恐るべきものとはただ一つ、われわれを殺して地獄(ゲヘナ)に投げ入れることのできる方のみだとのイエスの宣言は、弟子たちの恐れの、そしてわれわれの恐れの極点に向かって発せられている宣言となっています。それこそ、われわれを、世にあっての極限的な恐れから決定的に解放する言葉、それが「この方を恐れなさい」でありました。

さらにこれに続けて、弟子たちを深く顧みつつ、彼らを慰め励ます憐れみの言葉をイエスは語ります。

「だが、その(雀の)一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」 (6)


ここで雀は、取るに足らないものの代表として語られています。世に顧みられることない、取るに足らない雀。神はその一羽をさえ忘れない。神の愛、神の記憶から洩れるものは、雀一羽とてない。「あなたがたは」、その「たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(7)。殺した後で地獄に投げ入れる権威をもつ御方は、まったく同時に一羽の雀をさえ忘れることのない御方なのだ。イエスがここで指し示しているのは、まさしくこの恐るべき権威と憐みに満ちた神でありました。そしてそのような神をこそ、イエスは心震わせながら、弟子たちに、そしてわれわれに、おのが体を割くように手渡さんとしています。

8節では、「人々の前で私を告白する」(8 直訳)という事の決定的重要性が語られています。イエスへの信とは、隠すべきことでもなければ覆うべき事でもないというのです。ここからわれわれは、イエスを信じて生きるという事が、教会の組織や建物のなかだけにとどまるものではないという事を思い知らされます。信仰をもって生きるとは、徹頭徹尾この世のなかで生きられるべき事です。だからこそ、「人々の前でイエスを告白する」という事が決定的な意味をもつ事として、ここで語られています。このイエスの語りかけを、20世紀の歴史的破局を経験した先人ニーメラーの証言を思い起こしつつ聞くならば、信仰とはまさしく「具体的な歴史の闇のなかでこそ生きられてやまないもの」だと言わねばなりますまい。

現在われわれは、この国のそして世界の、恐れと破れに満ちた破局的な歴史状況のただなかにいます。そのわれわれにイエスが語りかけている事、すなわち、殺した後地獄に投げ入れる御方を真に恐れよという事、その御方に「我が友たる汝ら」と呼びかけられているという事、そしてその御方が一羽の雀たりとも決して忘れないお方であるという事、その一つ一つの事を深く心に刻みたいと思います。イエスは、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき」( 11 )に、どう弁明し何を語るべきかと思いわずらうことなかれ、それは聖霊が教えてくれると、驚くほど単純明快に語り切っています。ここには、聖霊の助けのうちで神とともなる歩みに生きているイエスの絶対他力の聖霊信仰が脈動しています。イエスのわれわれに対する励ましと勧めは、その聖霊の導きと一体となって貫かれています。


真に恐るべきものを恐れつつ、われわれもまた、歴史の闇のなかにあって、ともどもに聖霊の導きを真剣に乞い求めつつ、祈り励まし合うキリストに召されたる者の群れであらしめられたいと切に祈り願います。その召されたる者の歩みは、時代から孤絶した浮島のなかでなされるような歩みであってはなりません。世にあって世からの問いかけに耳を澄まし、その世にキリストを証ししていく歩みです。「建国記念の日」に当たり、「それ以上何もできない者どもを恐れるな」とのイエスの恩寵の一語を、聖霊の導きの下、各自助け合いながら祈り行ずる者とされていきたいと祈り願います。

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